ピーナツバターを食べたくて

おくとりょう

春はまだ先

 暖房の音が静かに響くワンルームの一室。本棚には幸せそうな若い男女の写真。


 ピーッと台所でヤカンが鳴った。それを合図にしたように、その部屋の女性は冷蔵庫からコーヒーの缶を取り出す。

 蓋を開けると、ふわりと広がる深く芳醇な薫り。彼女は目を閉じると満足げにうなずいて、ハンドドリップに数杯すくって入れた。

 そして、そこへ沸いたお湯「」の字を書くように、ぐるぐるとゆっくり注ぐ。じんわり染み込んだそれは、黒い液となって、ポツポツポツとケトルの中に落ちていく。深い黒がガラスのケトルを満たしていく。


 お湯を注ぎ終わると、彼女は戸棚から何か取り出した。外国らしいパッケージの透明の箱。


「『一緒に食べよう』って言ってたくせに…」


 本棚の写真を横目に、小さくひとりごちると、蓋を開ける。そこにはきめの粗いヌガーのようなベージュ色が詰まっていた。

 そっとナイフを入れると、ヌガーほどには固くなく、すんなり切れる。でも、取り出そうとすると、ボロボロと周りが崩れてしまった。…これではフォークを刺しにくい。

 彼女はちょっと迷ったあと、そーっとお皿に移した。フォークはつけないで、手で食べることにした。どうせ今夜の彼女はひとりで、汚れればただ洗えばいいので…。


 カップにコーヒーを注いで腰かけると、窓の外にはもうずいぶん雪が積もっていた。真っ白な外の景色に、何だか愉しくなってしまった彼女は電気を消して、キャンドルに灯をともした。


 ゆらゆらと揺れる小さな火を見つめながら、彼女はベージュのお菓子を口に運ぶ。

 ざらっとした舌触り。モキュモキュとした吸いつくような歯ごたえ。そして、どこかで嗅いだような優しく芳ばしい香りが鼻腔をくすぐった。

 でも、それはすぐにホロホロと崩れていき、あとにはただ穏やかな甘さだけが残る。

 その甘い余韻が物足りなくて、寂しくて。


 彼女はコーヒーカップに口をつけた。

 苦く深い芳醇な黒が流れ込む。それはすぅーっと染み込んで。


 ふと、写真立ての横に並ぶ自分の蔵書が目に入った。それは大好きな漫画や小説。それは何度も読んだ教科書。どれも元カレと出会う前から好きなもの。

 何故だか頬が緩んでしまい、小さく息を吐く。キャンドルの炎がふっと消えた。

 でも、外の雪が部屋の中を優しく照らす。久しぶりに彼女は本へと手を伸ばした。

 外の世界が明るいように、彼女の部屋も鮮やかだった。

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ピーナツバターを食べたくて おくとりょう @n8osoeuta

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