虹の彼方に。

友坂 悠

 

 


「どうしました? 兄上様」


「ああ、やかこか。いや、ちょっと昔の夢を見ていてな」


「こんな白昼にお戯れを。それよりも本日は朝廷より使いがきているそうですよ。屋敷にお戻りくださいな」


 クヌギの木に登り北の山を眺めていた俺に、いつのまにかとなりに登って来ていた妹のやかこがそう語りかける。

 爺さんに言われて俺を呼びにきた、という所か。


 この伊賀の里は古くから遁甲の術に長けた渡来の民が住み着いた里である。

 遠く呉より渡ってきた太伯の末裔だ。

 俺は一族のおさの後継者として育てられてきた。


 父はすでに死に、今は爺さんがおさをしてはいるがもう長くは無いとうそぶいている。早く俺に跡目を継げと言わんばかりのあの態度には辟易するが、いい加減覚悟を決めなければいけないのだろう、そうも思うのだ。


 しかし朝廷か、一体今更何の用なのだろうな。


 そもそももともと我ら渡来系一族による合議制であったこの国のまつりごとを、たった一人の大王オオキミに任せるなど出来はしないのに。

 お飾りの太陽を掲げ民をまとめ上げる。そのための大王だろうにな。

 越前から招いたヲホドと結局それを担いだ者たちの争いから身を引いた我ら伊賀の一族は、この地で安寧に暮らしていたというのに。


 しかし。

 そろそろ、か?

 歴史が動くのは。


 厩戸の太子の噂はこんな田舎の子供の俺の耳にさえ届いていた。俺が生まれた年に亡くなったらしい、蘇我の御曹司だ。

 蘇我は新羅系であるから、現在は百済系の豪族とは敵対していると思われる。

 そもそも高天原うちつみやけが新羅に取られたのも、此方の大王家の失態が遠因だ。

 その結果がこの惨状かと思うと先が思いやられる。


 屋敷の前には朝廷の使者の従者と思われる者が数名、屯していた。


「真人様、此方です」


 家人ヤカヒコが呼ぶ方に進み屋敷に入ると其処には使者らしき人物が既に座っていた。


 随分と優男だが……、と、一瞥し俺は上座に腰掛ける。


「よくおいでくださった。こんな田舎に何の御用でしょうな」


 そう話す俺を見つめる使者。


「貴方に、貴方の妹御とともに都までおいで頂きたいのです」


 ほう? やかこまで連れて来いと?


「蘇我は既に打ち滅ぼしました。しかしこのままではバランスが悪い。……手を貸してほしいんだ。真人」


 バランス? 何を言って……。


「大化の改新だよ。忘れたとは言わさないぞ! 俺だよ柘植だ。今は鎌足を演ってるけどな」


 その瞬間。

 俺の頭に落雷が落ちた。

 いや、それほどの衝撃を覚え頭を振る。


 ああ。


 夢ではなかったのか。


 あれは……。





 ☆☆☆



 僕、中原真人なかはらまさとさとるは義理の兄弟だった。僕が父親、智が義母の連れ子。


 年は僕の方が4才上。

 だからか、初めて会った時は妹なのかと錯覚をした。

 それほどその頃の智は可愛かったのだ。


 時は昭和60年、世間では松田聖子が人気を博しアイドルがブームとなっていたけれど可愛さでは智は負けてない、そう思って。

 僕のまえではにかみながら赤いスイトピーをモノマネで歌う彼。

 その愛らしい姿に僕は義理の兄弟だという事も忘れ、恋に落ちた。


 もちろん表面上そんなことはおくびにも出さない、いや、出せない。


 ごくごく普通に接して。

 たぶん、普通以上に距離を置いてしまっていたかもしれない。




 受験も差し迫った年の瀬。一通の手紙が届いた。

 もう最近は年賀状のやり取りしかしていなかった子供時代の唯一の親友、柘植祐樹つげゆうきからの喪中ハガキで。

 ああ、おじさん亡くなったのか。と。


 落ち込んでるのかなあいつ。


 そこには小さい字で、『俺の自転車が止まってたら自宅にいる印だから。たまには顔をださないか?』そう書かれていた。


 久々にあいつの顔を見に行くかな。


 柘植の顔を懐かしく思い出しながら、次の日曜に遊びに行こう。

 昔に戻って。




 朝飯を軽く摘み柘植の家に向かおうと玄関に向かった所で智に呼び止められた。

「真人、今日は何処に行くの?」

「中学時代の友達の家だよ。中野団地のさ」

「ねえ。ボクも連れてって」

 ちょっと考えて。

「まあ。いいか。丁度いいかな。お前紹介するのも有りか」

 そう思い直す。


「ありがとう真人!」

 そう、にっこり笑う智。


 その笑顔はまだ無垢な、そして周りの者全てを魅了するかのような魅力に満ちていた。


 ☆



「だからさ。天武は弟じゃないんだよ。少なくとも天智よりも年上なんだ」


「でもそんなの、今の学会じゃ異端なんだろ?」


「だからさ。俺京大の史学科行こうと思うんだ。やっぱり日本史研究するには京大が一番さ。資料も現物が山のよう、というか古墳が山になってるからな。それで研究者として偉くなって自説を広めてくのさ」


 そうか。おまえなら研究者にだってなれるよな。

 そう微笑ましく思う。


「お前はどこ受けるんだよ?」


「僕は岐大。地元がいいよやっぱり。教育学部の社会学科が第一志望だけどね」


「相変わらずだな。なんでそう欲がないんだ?」


「僕には相応さ」


 僕は右手に持ったカルピスのグラスを舐める様に一口飲み、懐かしさに浸って。


「それより、さっきの自説、もう少し詳しく聞かせてくれよ」


 そう話を戻した。





 玄関を開けたのは祐樹の母親だった。

「お久しぶりです中原です」と挨拶すると、「ああまさとくんね」と招いてくれたおばさん。

「祐樹ーっ、真人くんがいらしたわよー」

 と、奥に声を掛けてくれた。


 ドタドタと現れた柘植は久しぶりの再会にも関わらず、「よう。あがれよ」と、まるで昨日会ったばかりの様に手招きする。

 懐かしさ半分、不義理をしてしまった後ろめたさ半分。

 それも、柘植の笑顔で全てが洗い流されたかの様だった。


「はじめまして智(さとる)です。真人の弟になりました」

 横からぴょこんと顔を出し挨拶する智。

 こういう所だ。智のこの懐っこさが皆に好かれる要因なのだ、と、改めて思いながら。

「父親が再婚したんだよ。新しい家族さ」

 そうなるべく穏便に紹介する。

 僕の智への感情は、絶対に柘植には知られたくなかった。


 ははっ、と笑い、柘植は右手を差し出して、

「俺は祐樹。真人はユッキーって呼んでくれてたんだけどな」

 そうはにかみながら握手を求めた。


 智は両手で柘植の手を掴み、

「よろしくお願いしますユッキーさん」

 そう、笑顔で答える。

「ああでもそうしたら真人のことは何て呼んでたんですか? ユッキーさんは」


「まーくんだったよ。まあ小学校の時までかな、中学に入ったら真人のやつ色気付いてまーくん呼びを嫌がったからな」


「あ、なんかわかる。真人ってかっこつけしいだよね」


 二人して僕のことクサすのかよ。

 ちょっとイラッとしつつも二人が仲良くしてくれるのならいいか、と。

 そう思い直した。




 智は柘植の持っていたゲームウオッチのコレクションに夢中になっている。

 僕は久々の柘植との会話を楽しんでいた。


 彼の発想はどの本を読むよりも新鮮で、愉しい。


 そして。


 彼の話を聞くことは、やはり僕にとってはほかと比べ物にならないくらいの愉しみだった。



「そういえば是非真人に聞いて貰いたい話があったんだ」

 歴史談義が一通り終わった所で柘植がそう改まって切り出した。

「ちょっと待ってて」

 そう言うと隣の部屋へと入り、何かごそごそと探している音。

 しばらくし、柘植は重そうな事典の様なハードカバーの本を一冊持ってきて目の前で開く。

「これ、なんだけど……」

 神妙な顔で此方を覗き込む柘植。

 金の縁取りで装飾がされた分厚いカバー。

 平安時代の絵巻の様な資料がふんだんに挿入された豪華な本。

 細かな文字がページを埋め尽くし、内容も読むものを選ぶ様な学術的な内容。

 そんな随分と高価そうな本をパラパラとめくってみせた後、おもむろに閉じる柘植。

 表紙には「大王・天皇とその一族」と書かれている。


「これがどうかしたのか? ずいぶんと立派な本なのはわかるけど……」


「これは親父のコレクションを整理してて見つけたんだけどね。問題は此方なんだ」

 柘植は本の最終ページを開く。


 そこにあった奥付。

 其処にあったのは信じられないものだった。


「2005年? 初版が?なんの冗談だ?」


 おまけに……。


「著者、柘植祐樹? お前の著作? まさかな、同姓同名なのか?」


「ああ。この本を隅々まで読んだ結果、未来の俺が書いた本で間違い無さそうなんだけどな」


 何の根拠が、とは聞けなかった。

 これだけ確信を持って言えるということは、

「お前の自説が書かれているのか?」

 そういうことなのか?

「ああ。まだ誰にも話したことの無い内容まで含めてね」


 嘘や冗談でこんな事をいう奴じゃない。

 だとしたら……。


 未来からきた本だというのか?


「何らかの時空の歪みが存在するとしか考えられないな……」

 そう、呟く柘植。


 それはまるで昔何処かで読んだ物語の一節のように。

 僕の心の中を占めていった。


 ☆☆☆




「覚えているか真人、時空が歪んでると話していたあの時の事を……」


 あの未来の本の話か?


「あの後、あの部屋が歪んだような気がしたと思ったら俺はこの体の中に居た。自分がまさか鎌足に成るとは思わなかったよ」


「どうして俺があの真人だとわかったんだ?」


 俺は……、この世界で生まれた。子供の頃の記憶もしっかりある、が、時折夢で前世を見ているのだと思っていた。その記憶もこの鎌足の言うように確かに其処までしか無い。あの部屋でなにかがあったという事か?


「中大兄皇子の妃の一人、大友や他の姫を産んだことになっている伊賀采女宅子娘な、お前の妹なのさ」


 なに?


「おまけにお前の存在は歴史から完全に消えている。おまけ、真人っていうのは大海人の名前じゃないかよ。和風諡号、諡 (おくりな) が天渟中原瀛真人天皇 (あめのぬなはらおきのまひとのみこと) と言うの知ってたか? これで何か意味があると思わない方がおかしい」


「どんな意味だよ……」


「まあ。お前と智の関係がここでも未来とそう変わらないって事さ」


 なに? さとるがここに?


「ああ。聞いて驚けよ。あの中大兄な、智(さとる)だったよ。おまけに天武なんて皇室に何処にも存在しなかった。お前なんだから当然だな」


 ああ。智までこの世界に存在するなんて。


「結局日本書紀に書かれていた内容なんて全部デタラメだったってことだな。いや、史実を織り込み嘘を混ぜる、真実味のある物語を作るときの技術ではあるな。まあお前が作ることになるんだ、それくらいは当然か」


「ここの伊賀一族な、歴史上は殆ど重要視されてこなかったけどさ、これも隠されたってことなんだろうな。太伯の末裔として大王と同じ系列の家系であるにもかかわらずそうとは残っていないのもな。でもこれで納得したよ。仮にも天皇の母親になる人間がそんなに血筋が劣っているはずがないって疑問だったし、伊賀が壬申の乱で大友ではなくお前についたのも納得だ」


 ああ、やっぱりこいつは歴史マニアだ。そんな些細なことで俺のこともわかるなんて。


 柘植、いや、鎌足が嬉々として語るその内容に圧倒されながらも。


 智に会える。


 その喜びが俺の中で大きくなっていた。


 ☆☆☆





 遁甲とはいわば精神の力だ。

 もちろん肉体の鍛錬や技術、道具の工夫などは必要ではあるが、それ以上に大切なものがある。

 心の力が強いほど術がはえる。強くなるのだ。

 健全な肉体には健全な精神が宿る、とはいうがどんな武道でもそう、最後に決めるのは精神力だ。


 そんな中でも遁甲の技は精神力に頼るところがおおきい。

 それも、より大きな力を産む精神力は通常の物質運動を凌駕する。


 たとえば。


 たとえどれだけ修行をしようとも、人の身で水の上を走り抜けることは不可能だ。

 しかしそれを我ら伊賀の民は可能にする。

 ほんの少しの足場を心の力で形成する事で、空中を蹴り方向転換するなどというアクロバティックな動きも。


 それらは全て心の奥に潜り自身の精神力を力に変えることで可能となる。


 この力を代々受け継ぎ王を守ってきた。

 我らはそういう一族だった。



 智があの中大兄皇子であるなら、俺は智のためにこの力を使おう。

 そう誓う。

 俺が此処に生まれたことに意味があるのなら。

 それを全うする。


 飛鳥に到着しやかこを采女らに預け皇子との面会となった際、人払いを頼んでおいたがはたして。


「真人、此方へ」


 寶女王が内密に同席するらしい。

 今の大王おおきみがこっそりと?

 そう訝しんだが。


 人払いをし衝立のしてある間に入ると其処には懐かしい顔が。

 前世と寸分違わない、智の姿が其処にあった。


「ああ、真人。久しぶりだね」


 そう笑顔で話す智。以前よりも少し気品がある話方になっている?


「この方ですか。中大兄がどうしてもと言うので来てみましたが……」

 寶女王か。一見大王とは見えないな。そんな雰囲気の女性。

「対外的に僕の弟という事にしたいのです。実質は身辺警護として何時も側で助けてもらいたいのですよ」

「そこまで信用のおける方なのですか?」

「遁甲の達人であり僕の星が指し示す運命の人、といえば解ってもらえますか? 」

「貴方は昔からそうでした。全ては星が決めていると。いいでしょう。わたくしに異議はありません」


 寶女王は俺の目をじっと見ると、


「皇子を助けてあげてください。今回の蘇我の件でかなり敵を作ってしまいました。この子がこのまま穏便に過ごせるとはわたくしには思えないのです。どうか、お願いします。貴方の力をこのこに、どうか……」


 と、頭を下げた。


 大王に頭を下げさせるなんて、そう思うもののこれはもうどうしようもなく。


「もちろん。任せてください。 智は絶対守りますよ」


 そう、誓うように言葉にした。


 ☆



 暮に飛鳥を出、すでに三度目の夏をこの筑紫で迎えることとなった。

 暑い陽射しが照り返す中、蒸した屋内でイラついている様子の智に、俺は思わず声をかけた。


「思わしく無いのかい?」


「ああ、真人。戦況は良くないよ。鬼室福信が居ないのが致命的だね。豊璋もバカなことをしたものさ」


 福信は反乱軍の長だ。それを性格が合わないからと排除し処刑するなど。これでは兵の士気も上がろうはずがない。

 所詮は鳥籠育ちの世間知らず。戦というものをわかっていないのだ。

 福信が残忍で鬼畜な所業を好むとは聞こえていたが、それでもこの戦の間は何とか上手く使うべきだったのだろう。

 百済軍は今や烏合の衆だ。

 猪突猛進しかできない軍と成り果てている。


 しかし。


 こちらもすでに送れるだけの軍は送った。

 これ以上の人手もかけようがない状態でもある。

 それに、所詮こちらは“援軍“だ。

 仮に現場で意見があろうとも決定するのは百済側なのだ。

 いくら緻密な作戦を奏上しようとも、

「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」

 が全てな上層部ではどうにもならないというもの。



 とはいえ……。実は俺にもこの戦の行く末は分かる……。まさか智には教えていないのか? 鎌足よ。






 バタバタと伝令の走る音が縁側に響く。


「御報告! 只今白村江にて我が軍壊滅との報せが」


 飛び込んできた伝令が倒れこみながら奏上する。


 と、背後より、

「直ちに畿内に戻りましょう」

 そう鎌足の声。


「どういうことだ? 鎌足」


「ああ。ここ筑紫では危険だ。百済が完全に滅亡すれば此処も危うい。至急帰るべきだと進言するね」


 そう、涼しい顔でそうのたまった。


 流石に今それはないだろう? 味方の兵の心配も無いのか?


「まさかと思うが……。鎌足其方、この結末を知っていて教えてくれなかったのか?」

 ああ。智がいつに無くいかっている。


「ああ。もちろん俺は全て把握して行動してますよ? 殿下」


「壊滅するとわかっていれば別の手段もあったものを、みすみす死地においやったというのか!」


「それでは歴史が変わってしまいます」


「お前は人の命より歴史の方が大事だというのか!」


「当然、でしょう? 歴史が変わるということは我々の帰る場所が無くなるという事なのですよ? 貴方も戻りたいのではなかったのですか?」


 智の顔が歪む。


「しかし……、みすみす死なせる事は無かった。ボクは……、イヤ、だ……」


「真人だってこうなる事は知ってましたよ? 知っていてもどうしようもない事ですがね」


「真人も……」


「すまん……、智が知らないって事を知らなかったんだよ……」


 クシャッとした顔を拭うように抑え、智はそのまま立ち上がり奥の間に去ってしまった。




 白村江での惨敗はこの日本を変える原動力となる。

 それが歴史の必然だ。

 そうは理解しているものの、この世界に生きる身としては遣る瀬無い。



 ☆☆☆





「山科の紅葉は綺麗だったかい?」


「ああ。最後にあの紅葉が観れたのは良かったよ。あの場所は天智天皇陵になる場所だったからね」


 そういう鎌足。起き上がるのが苦痛なほどの怪我の筈なのに、今日は背に畳とワタを敷き座っている。


「最後だなんて言うなよ。まだ若いだろ?」


「生憎とね。俺は記憶力が良いんだよ。自分の没年を把握しているくらいにはね」


「そんな……」


「なぁ。俺たち死んだらどうなるのかな」


 どうって……。


「俺は……。ずっと考えてた。俺が未来で書いた本があるんだ、きっと未来に戻れるに違いない、って。そう……」


「だからきっと歴史を変えさえしなければ、此処での生が終わればあの場所に戻れるんじゃないかって。ずっとそれだけを寄り所にして今の生を頑張ってきた。しかしな……。気づいてしまったんだよ。俺は自分の性格をさ」


「どういうことだよ?」


「俺はあの本を隅々まで読んだんだよ? でも、何処にも俺が今の鎌足として生きた半生で経験してきた内容が反映されていなかった。新しく知った新事実が何も書かれていなかったんだよ」


「そんなの、歴史に配慮したって事なだけじゃないのか?」


「ああ。確かに今のこの状況をそのまま晒すと未来の歴史が変わりかねん。それは当然避けなけりゃいけないんだよ。でも、それにしても。あれは全く知らないとしか思えない書き方だった。知らないふりしてわざわざあんな本、何のために書いたとおもうのさ。本をわざわざ書くんだ、それなりに自説を展開したいって欲があったと思うだろう? 普通」


「俺がもしこの記憶を持ったままあの世界に帰ってたとしたら、俺の性格なら珍説としてでも良いから小説で書く方を選ぶね。わざわざ学説の範囲を超えない程度に加減して本にするまでもない。それで何が楽しいのか、って。そう気がついちまったんだよ」


 ああ、そうだな。

 柘植ならそうするだろう。

 事実がわかった事をわざわざ研究するとか何のために? って思うよな。


「俺は……。怖いよ。このまま無になる事が。消えてしまう事が怖い。記憶を失って帰るなら死んだも同じだ。どうしよう、助けてくれ、真人……」





 鎌足は……。最後まで柘植だった。


 この世界に生きていなかった。


 常に一歩引き、そして歴史を見守って。


「智はもう俺の言う事は聞かない。このままでは歴史が変わっちまうかもしれない。頼む真人。俺はやっぱりどうしても歴史を変えたくない。たとえ帰れないとしても、だ。お願いだ。智を止めてくれ……」



 ☆☆☆




 あれから2年。

 また年の瀬が迫る中、俺は智からある重要な相談を受けていた。


 最近では立場上何時も一緒にと言うわけにもいかず、今日の会も久方ぶりとなる。

 神宮への奉幣後五十鈴川を眺めながらの会食。

 大勢の供を人払いし、二人きりで。

 改めて見る智のその顔は、随分と疲労と困憊の色が見て取れる。

 お互いに歳を取った姿。しかし俺にとっての智は何時迄もあの刻のまま、魂は変わっていないとそう感じる。


 清流の流れを眺めながら目の前に並ぶ料理を頂く。野菜や魚が小さく彩り良く調理され並ぶ其れは、未来での懐石料理を思わせる。

 味も、まだ味噌や醤油のはっきりした味ではなく出汁も洗練されてはいないけれど、醤でゆったりと味付けされたそれらにここ伊勢の伝統を感じて。


 濁り梅酒を一口飲み、そして鮎の切り身を摘む。

 智が切り出した言葉は、

「唐と共同で新羅を打つ」

 と。

 それだった。


 ああ。お前はそう決断したのか。

 結論から言ってありえないそれを何と言って納得させれば良いのか。


「無理だ」

 俺はそう答え、用意されたどぶろくを仰ぐ。


「そもそも唐はそれ程甘くはないぞ?」

 お前は今まで唐から攻められるのを恐れていたのではないか?


「使者が来たのだ。冊封に甘んずれば良き同朋として接する、と。同盟を結び謀反を起こした新羅を共に倒そう、と」


 遠交近攻。『とほきにまじはりちかきをむ』だ。


「秦の時代からある手だ。そうやって順番に周りを侵略していく。まんまと乗れば新羅を滅ぼしたあと次はこの日本に攻めてくるぞ」


「どうせ攻められるのなら貸しを作っておいても良いだろ? 新羅だけは許せない。先祖の地、同胞の仇、裏切り者の新羅だけは……」


 そうか。


 此処にいる智は智であってやはり天智天皇なのだな。

 俺と同じ、前世の記憶はあるがそれでもこの時代に生まれ育った記憶もちゃんとある。


 新羅シルラ新羅シラギと読む感覚が俺には最初よくわからなかった。

 だいたい百済も新羅も加羅も大和も元を正せば同じ同胞ではなかったか。

 秦が大陸を統一した際に逃れ流れた人々の、その血がたどり着いた先がこの東の地であったはず。

 元々住んでいた人々と交わっては居るが、それでも元は。


 だからか。

 蘇我が討たれたのもそう。新羅をシラギと読み百済ペクチェをクンナラ《大国》と読むのもそう。全てはこの智と同じ感覚の所為なのかもしれない。





 そして。


 俺は今日。


 鎌足が落馬し怪我を負ったあの場所に智を呼び出して。



「どうして? 真人。 ボクを殺すの?」


「それが必要なんだ。歴史を変えたくないから。今ここで消えて貰わなきゃいけない。どうしても……」


「ああ。そっか。なら、いいよ。真人になら殺されてあげる」


 目の前で両手を広げこちらを向いて微笑むさとる



「どうせボクの命ももう長くない。身体のあちこちから悲鳴があがってるのもわかる。ただ……。この世界のボクって結局なんだったのかな……。鎌足の言うママに動く人形のような、そんな一生だった気がする。最後に自分で決めて行動しようとしたらこれだ。真人にまで見放されたんだね。ボクは……」


 ちがう! 違う違う!


「見放してなんかいない!」



 栗隈王から連絡によるともう一刻の猶予もないのだ。

 唐の使者が智に謁見した折に正式に同盟に調印する手筈であると。

 それは避けなければ。


 歴史上の話であれば、今、智は病床にある事になっている。

 俺が吉野に去る事になるあの逸話だ。


 しかし。


 智は確かに病気に違いない。先日よりも窶れて顔色も悪い。

 そもそもこの年の暮れか新年早々かそのあたりで没年の筈。

 そして此処がみささぎの場所だ。


 で、あれば。


 殺すつもりなんて無かった。今だって、ないさ。


 でも。


 このまま返すわけにはもういかない。


 だから俺は決めたのだ。


 智はもうこの世界にいちゃいけないのだ、と。




「お願いださとる、俺のものになってくれ。そして、帰ろう。俺たちの場所へ……」


 俺は智の手を握り、そう懇願した。








 背後に見える山々が琥珀色に煌めく。もう師走だというのにまだ紅葉がずいぶんと残り、夕焼けと相まって神秘的な光景に魅せていた。

 山から雲へと薄っすらと伸びる虹が天空への階段に見える。





 帰ろう。


 あの虹の橋を渡って……。




 ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎






 遁甲が心の力だという事に気がついてからと言うもの、俺は、いや、僕は、心の中にもう一人の自分を作り出す事に成功した。

 無限の空間世界の中に居てなお其処に干渉し得る力、理りのチカラを自在に使えるようになる為に。


 見えているものだけが真実ではなく、また見えて居なくても理りは其処にある。

 僕らが時空の異変に巻き込まれてこの時代に来てしまったのなら、その理由、謎を解き明かす為の時間が欲しい。

 最初はそれが全てではあったのだ。


 日常生活を送っている俺、と、精神世界に篭り思考実験を続けている僕。


 人の倍の時間を創出する手段としての選択だった。


 そして。


 最初の天武としての人生を終える時になってようやく、精神をタイムリープさせる事に成功した。


 そのまま、もうこれが何度目のリープだろうか。


 何度も人生をやり直した結果、やっと二人を助ける道も見つけ……。





 ……綺麗な山だね。


 そうだな。ここ吉野の紅葉は山科とはまた違った風情があるよな。


 ……壬申の乱が起きるんだよな? っていうか真人が起こすんだよな?


 それが必要だからね。


 ……なんか複雑……。


 智には見せないよ。僕たちはこのまま帰るんだから。


 ……そうだったね。


 後は俺に任せて置いてくれ。取り敢えず無事に天武を全うしてみせるさ。何せもう何十回も経験してるベテランだからな。




 僕は自分の精神世界に智を取り込んだ。

 智の身体がもう保たなかったのもある。死んでしまっては精神の回収も無理だしね。


 柘植も今一緒にいる。

 彼もまた、一緒に未来に帰る。


 未来に帰ってどうしようって?


 小説家にでもなろうよ。って、僕は柘植に提案した。


 自分の未来なら幾らでも変えていいじゃない。って。




 僕らの人生はこれからだから。



  Fin


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虹の彼方に。 友坂 悠 @tomoneko299

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