さくらさく

miyoshi

がんばれ、受験生!

 グラウンドから部活動に勤しむ下級生たちの声が聞こえなくなって数十分。

夕日が沈み、空は夜の色をまとい始めている。

教室内ではあちらこちらから、じゃあ帰るね、また明日、などの声が聞こえ始める。

ガタガタと椅子を引いて去ってゆく同窓生たちの様子を見ていると、まるで物質の状態変化を見ているようだ。机に向かっているときは固体、帰る準備をしている液体から教室外へと出てゆく気体、と粒子の様相をなぞっていると無意識のうちに受験脳になっているのかと慄いてしまった。

人がはけた後の教室には自分ともう一人しか残らなかった。

もはやいつもの顔ぶれである。

「なんだ、やっぱり僕らしか残らなかったな」

難しい数学の問題と格闘していたとは思えないほどの涼しい顔をしたメガネくんが窓際から教卓のそばへと移動してくる。

いつものように机を向かい合わせにくっつけ、両者の足元に温風があたるようにヒーターを近づける。

俺の手元をのぞきこみ、なんだお前も数学か、と言いながらノートに途中まで書いた答案を視線でなぞってゆく。

「互いに苦戦しているようだな」

「涼しい顔してよく言うよ。それに俺は文系だけどそっちは理系なんだからこの問題は解けるだろ」

まあね、と頷き黒板に向かう。どうやら解説してくれるらしい。ありがたいことだ。持つべきものは頭の良い友である。

「……と、まあこんな感じだ。この問題集の解説は大事なところが省略されているからわかりづらいんだろう」

静かにチョークを手放すメガネくん。だが彼自身の抱える疑問は解決しないままである。

「先生、まだいるかな。職員室に行ってくるかい? そろそろ小腹が減ったし、俺も

夕食の買い出しに行こうかな」

近所のコンビニに買い出しに行くなら何か温かい飲み物でも買ってきてくれ、とメガネくんが小銭を取り出したそのとき。

噂をすれば影が差したのか、ひょいと顔を出したのは今年で定年退職のわれらが学級担任のじいちゃん先生だ。

好々爺といった風体の先生は、この年代の男性にしては珍しく頭髪は豊かな白髪でおおわれている。

ガサゴソと音のするエコバッグには体積のあるものが詰め込まれているのだろう、ぼこぼこと膨らんでいる。これで赤い上下の服に身を包んでいたら髭なしサンタクロースの完成だ。

「頑張っているね。差し入れだよ」

大きさのわりに軽いエコバッグごとこちらに差し出されたものは。

「これは……カップ麺? 『赤いきつね』と『緑のたぬき』だ!」

「赤と緑でクリスマスカラーだろう。それに年末の年越しそばも兼ねている。いいアイデアだろう」

クリスマスも年末もそばにある麺類の代表ということか。

エコバッグとは逆の手で持ってきていたらしい電気ポットも一緒に手渡された。

いくらヒーターがついているとはいえ家庭用の小さなものなど威力がしれている。

そんな今、温かいものの差し入れは非常にありがたい。

先生は本当にサンタクロースなのかもしれない。

「ありがとうございます!」

俺たちは双子のようにそろって礼を言った。

メガネくんは先生も一緒に食べましょう、といって机を引き寄せ鼎談でも始めるようにセッティングし始めた。

めいめい好きなカップ麺を取り出し、規定量の湯を注いでタイマーをセットする。

先生は黒板に書かれた答案を見遣り、うんうんと頷きながらよくかけていますね、と赤チョークで花丸を書き足した。

カップ麺が完成するまでの間、メガネくんは行き詰っていた問題解決の約束を取り付け、俺は折角だからと先生の学生時代の話をしてくれと頼んだ。

どちらの要望にも二つ返事で了承した先生は、まずは俺の質問から片すべく自身の身の上話を始めた。

地方の高等学校を卒業した青年は一年間の浪人生活を経た後、めでたく大学入学が決まり上京することになった。そこまではよかった。

新生活に胸躍らせ、大好きな数学と戯れることを夢見ていた。

しかし。

実際にはそうはならなかった。

先生の学生時代は通学するのに一苦労であったのだ。

大学闘争が勃発していたためにヘルメット着用で降り注ぐレンガブロックから身を守っていたことや、入学試験が中止した年があったことなどを聞いた。

そんな大学生活の幕開けだったからこそ、自分の生徒たちには明るい新生活のスタートを切ってほしいとの希望をもっているのだ。

蓋を完全に取り外した『赤いきつね』と『緑のたぬき』からは薄いベールのような湯気が立ち上っている。

『緑のたぬき』を選んだ先生とメガネくんは推奨時刻よりも多めに待っていたようだが特に気にすることのない様子である。きっと、時間をオーバーしても美味いのだろう。

いただきます、と目の前の『赤いきつね』に向き合った。

甘さのちょうどよい油揚げは、一つのカップに五枚くらい入っていてもよいと思う。うまい。

『緑のたぬき』に眼鏡を曇らせた先生とメガネくんは各々服の裾でレンズをこすって視界を取り戻そうとしている。

ふと、こんな光景を見るのもあとわずかだと思った。

「先生、本当に今年で教員生活はおしまいなんですか?」

「いつも言っているだろう。私も君たちと一緒に卒業だよ。あと少しだけど悔いのない高校生活を送ろうね。私もみんなを送り出したら少し早めの老後生活を楽しむことにするからさ」


*****


 すでに進路が決まり新生活に思いをはせる者も結果待ちで心ここにあらずの者も一堂に会す卒業式。

式自体はつつがなく終わったが、最後のホームルームが始まる前に女子を中心に写真撮影会が始まった。

普段は事務的な会話程度にとどまる者たちとも、まるで昔からの大親友であるかのような雰囲気で被写体となる彼女たちを横目に在校生の手による黒板の飾りつけに目を向けた。

特段思い入れのない三年間だったためか、式の間も涙は一滴もこぼれなかった。

そんな自分と同様にメガネくんもつまらなさそうに胸元のコサージュをいじっている。

生花でできているから、あまりさわると崩れるのだが。

生徒と揃いのコサージュを身に着けたパールグレーのスーツの好々爺が教室に入ってきた。

「ホームルームを始めます」

はしゃいでいた女子生徒たちも神妙な顔つきで着席し、常と変わらない担任教師の言葉に従った。

「まずは、ご卒業おめでとうございます。皆さんの担任となった一年前にも言いましたが、私も今日を限りに教職を辞することとなりました。ともに卒業ですね。こんなおじいさんですが、私は皆さんとともに最後の高校生活を過ごせて幸せでした。卒業後の進路はそれぞれ別の道となりますが、若い皆さんの行く末が幸多きものとなるようお祈りしております」

短いですが、これを最後のホームルームといたします。

また逢う日まで、さようなら。


*****


 卒業式から一週間ほど経過した頃。

国公立大学の合否結果が続々と発表されていった。

交通費をケチったためにインターネットでの発表待ちをしていたが、ネットがあまりにつながらなくて回線の細さに苛立ち始めていたころ。

なんと郵送での合格通知のほうが先に到着してしまった。

合格したことはうれしいが、結果発表の緊張感が砂でできた城のように崩れてしまった。

メガネくんも同様の体であったらしく、電話で合格したので大学でもよろしく、の挨拶の後、やっと回線がつながったと報告された。

何はともあれ、我々は見事に桜を咲かせた。


 そしてその一年後。

地方紙の三面に大きな写真とともにこんな記事が掲載された。

『60代男性(元公立高校教諭)東大入学!』

学びなおしをすべく人生二度目の大学入学を果たした男性へのインタビューが中心となったページ。

じいちゃん先生も桜を咲かせたのだ。

あの日かみしめた油揚げの味が口中に広がった、ような気がした。


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