手をつないで下りていく

いぬかい

手をつないで下りていく

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。

 どこかで見覚えのある顔だった。落ち着いた声色に穏やかな微笑すら浮かべ、とても恐ろしいことを話しているようには見えない。

 私は目眩を覚え、窓を開けてふらふらとベランダに歩み出た。まだ暗い空には千切れ雲がいくつか浮かび、血のような朝焼けで深い紅に染まっている。

 違います――と、キャスターが耳元でささやいた。

――これはね、赤方偏移っていうんですよ。

 気がつくと、信じられないほど巨大な赤い満月が私たちを見下ろしていた。

 せきほう、へんい――

 私はただ鸚鵡返しにその奇妙な言葉を繰り返した。 吐き気を抑えながらベランダの手すりを握りしめると、眼下から魍魎たちがざわめく声が聞こえてきた。


1.接近

 結婚したのは私が三十歳の時だ。妻は一つ年上で、勤務先の営業所で事務をしていた先輩だった。

 いつから交際するようになったのか、詳しいことはあまり覚えていない。忘年会で隣に座ったのがきっかけで職場でも話すようになり、すぐに仕事終わりに時々飲みに誘うようになって、そのまま週末もどちらかのアパートに居つくようになった。よくある話だ。

 いわゆる美人という顔立ちではないが、愛嬌があり、笑うと細い目が更に細くなる。互いの実家がある県が近くで、たまに出る方言にも癒やされた。二人で迎えた二度目の七夕の夜に私からプロポーズした。

 子供はなかなか出来なかった。妻は焦っているようだったが、私は今の生活に特に不満はなく、多少の喧嘩と仲直りを繰り返しながら日々は淡々と過ぎていった。出世するつもりは全くなかったが、年を重ねるごとに次第に責任が重くなり、仕事にやりがいと苦痛の両方を覚えるようになった頃、妻の妊娠が分かった。

 それを聞いた時は嬉しかった。その年の冬に息子を――陸を始めて抱いた時は、何年かぶりの涙を流した。笑い顔が妻に似ていた。短い両足の間に小さな性器がちょこんとあるのを見つけた時は、自分が永遠の命を得たような気持ちになった。

 そして十年後の今、私は妻のために台所に立っている。

 少量のご飯とコップ一杯の水を鍋に入れて火にかけ、卵を溶いて塩胡椒で味を調えた。妻はあの日からもう何日も食べていない。せめて粥ぐらいは口にしなければ体が持たない。

 新婚旅行で買った九谷焼の茶碗に粥をよそい、盆に乗せて隣の和室まで運んだ。掛け布団はさっき見た時からほとんど形が変わっていない。

 妻は壁の方を向いたまま、肩の辺りがかすかに震えている。小さな、ほんの小さな嗚咽の声が聞こえた。傍らには白い布に包まれた木箱が置いてあり、妻の手がその隅をゆっくりゆっくり撫でているのが見えた。

「ザリガニ……」と低い声がした。「……行けなかったね、ザリガニ釣り」

 ああ、と私は答えた。

 近所の用水路でよくザリガニが釣れるのだと、友達の誰かから聞いてきたらしい。連れて行って欲しいとせがむ陸に、夏休みになったらな、と私は約束していた。ホームセンターで買った竹の棒に糸を巻いて作った簡素な竿を試し振りしながら、陸は餌は煮干しがいいらしいよと真剣な顔で言った。煮干しもいいけどな、父さんの子供の頃はその辺の田んぼで捕まえたカエルの足で釣ったもんだ。そう言うと、陸はうげえっと戯けたような声を出して笑った。つい最近のことだ。たったひと月前のことだ。

 陸を撥ねたトラックは脇見運転の信号無視で、スマホに気をとられて赤信号に気づかなかったという。

 玄関の床に頭を擦りつけて詫びるその若い男をかすれた声で罵りながら、私は陸のために時を戻すことすらできない自分自身をも呪っていた。怒りと哀しみと後悔が粘度の高い泥のように心の中に沈殿していき、生きている実感も、生きていこうとする気力も消え失せていた。

 会社に長期休暇を申請し、その期限が切れる頃、私は短いメールで退職の意思だけを告げた。世界が終わるかもしれないのに金や仕事にしがみつくのは滑稽だ。世界が終わらないとしても、もう生きている意味はないと思った。

 私はテレビをつけた。ニュースキャスターが快活な笑顔で朝の挨拶をしている。いつもの丸顔の女性アナウンサーではなく、目が細く痩せ気味の男性だ。

「世界の終わりまであと一ヶ月となりました」

 嬉しそうにアナウンサーが言い、軽快な音楽が鳴った。画面には真っ黒な点が猛スピードで動いて地球と交錯する動画が流れた。次いで子供向けアニメのような陳腐な爆発音がした。私はテレビを消した。

「もう全部終わっちゃえばいいのよ」

 向こうを向いたまま妻が押し殺すような声でそう言い、掛け布団を引き寄せた。

 私も同じ気持ちだった。

 でも本当にもうすぐ世界が終わるのなら、私はやはり、家族三人でその時を迎えたかったのだ。


 アリゾナのキットピーク国立天文台で撮影された膨大な星野画像の中から不自然な増光を示す星を見つけたのは、その年に採用されたばかりの若い観測助手だった。

 コンピュータより早かったのさ、と後日彼は自慢げに語った。だが彼に遅れて九十秒後、最新鋭のインド製画像処理AIが彼の自慢の天体を含む千個余りの変光天体を検出し、世界中の変光星観測ネットワークにそのデータを即時共有して以降、彼の業績は顧みられることはなかった。

 その天体――みなみのうお座十九番星はいわゆる赤色巨星として知られている。

 地球からの距離はおよそ600光年、視等級6.12等のごくありふれた恒星だ。増光はほんの僅かであり、老齢期の星が示す脈動運動の一つだろうと誰もが推測したが、超新星爆発の兆候を検証するために得たマルチスペクトル画像は、その星像に僅かな形の歪みがあることを示していた。増光はその歪みから生じた副作用だった。そのことで、十九番星は俄に天文学者たちの興味を引くこととなった。

 稼働したばかりの新型宇宙望遠鏡を動員し、更に詳細な画像を得た彼らは、光の歪みは重力レンズ効果によるものと結論づけた。十九番星と地球との間に何かがある。それも、非常に暗く、小さく、重い何かが。

 中性子星ではないかと、ある宇宙物理学者が発表したのは発見から約半年後のことだ。重力レンズの屈折率から算出されたその不明天体の質量が予想外に小さかったためだ。だがその後、別の天文学者が公開したエックス線観測データが中性子星ではありえないエネルギー曲線を描いた時、議論は決着した。それは、この天体が観測史上最小のブラックホールであることを明確に示していた。

 だが、異常なのはそれだけではないのだ、と国際天文学会の席上でその天文学者は語った。

 十九番星の歪みは日々刻々と変化しており、その様態はブラックホールが高速で移動していることを示唆している。それも非常に速く、おそらく光速の半分に近いスピードで。

 彼の発言は、世界中のネットニュースのコメント欄をおおいに賑わせた。だがそれからおよそ一年後、彼が検証可能な軌道計算結果を付記して学術誌に投稿した論文は、世界中の指導者たちを青ざめさせ、当時百億人に達しようとしていた地球人類全てを震撼させた。

 その論文の末尾にはこう書かれていた。

 このブラックホールの軌道は地球軌道と交差する。それまで、あと残り八年であると。


 僕はいつも歌っている。いつもあの歌を歌っている。生まれた時からそうだった。生まれたのはずっと前だ。あのころは数え切れないぐらい兄弟たちがいて、いっしょに歌って踊ってた。そばにはいつも母さんがいた。ビッグマザー、きれいな銀の光をまとった丸くて黒くてでっかい母さん。そのでっかい母さんが、同じぐらいでっかい父さんとがっつんこして僕たちが生まれた。でも僕たちはある日グッチャグッチャにシェイクされ、母さんの手につかまれて何回かぐるんぐるん回されてから、急に手を離されて放り出された。目がちかちかした。胸がきゅーんとした。でもふり返るともう母さんはどこにもいなくて、兄弟たちもどんどん遠くに離れてしまった。僕は母さんのところに戻りたかったけど、いっしょうけんめい手や足をもがいたけど、どうしても元の場所には戻れなかった。だからそれからずーっと一人きり。もうずいぶん長いこと一人きりで歌っている。たった一人で真っ暗な空を飛んでいる。


2.邂逅

 10%ぐらいなんだって、と陸が言った。そんなもんだったな、と私は返した。 ブラックホールが地球と干渉する確率は、何年か前に公表されて以来更新されていないはずだ。

 陸は去年の誕生日に買ってもらった6cm屈折望遠鏡をベランダに出して、南の方角に向けようとしていた。

 八月終わりの暑い夜だった。もう秋の虫が鳴いていて、西の空には薄い月が出ていた。私は小四の陸の目が接眼レンズに届くよう、三脚の長さを調整してやった。

「ぶつかるのかな」星座早見盤にライトを当てている陸の頬が白く光った。「やっぱり、みんな死んじゃうのかな」

 あの当時、何とか回避や迎撃ができないかと首脳たちが何度も話し合ったが、結局、有効な解決策は見つからなかった。各地で暴動や略奪が相次ぎ、世界中でたくさんの人々が死んだ。10%は大きな数字ではない、だから普段どおりの生活をするようにと指導者たちが必死に訴え、必要であれば武力行使も行ったが、あまり効果はなかった。時間がたち、多くの人々は不安を抱えながらも冷静さを取り戻したが、世界の一部ではそうした状況はまだ続いている。

「怖いのか」

「そりゃあ怖いよ。僕も死ぬのは嫌だもん」

「父さんも同じだ。お前が大人になるのを見られないのは困る」

「困りはしないでしょ」陸は少し照れたような声を出した。しばらく黙り込んで、唐突に口を開いた。「でもさ、ちょっと楽しみなんだよね」

「ん? 怖いのに楽しみってどういうこと?」

 陸は星座早見盤を団扇のようにしてぱたぱたと扇いだ。

「ブラックホールって、ものすごく重い星なんだよ」

「重いって、宇宙は無重力のはずだろ?」私は首を傾げた。

「んーっとさ」陸は扇ぐのを止め、言葉を探すような口調で慎重に説明を始めた。「つまり、小さいのにミツドやシツリョウがものすごく大っきいってことなんだ。それってものすごく重力が強いってことと同じ意味で、だから光も外に出られなくて真っ黒に見えるんだ」

 本当にこの子は誰に似たのだろう。私も妻も勉強が好きなタイプではなかったが、陸は他の子より明らかに好奇心が強く、就学前から子供用の学習図鑑ばかり読んでいた。だから特に興味がある宇宙や科学のことなら、そこらの大人には負けないぐらいの知識量がある。

「相対性理論っていってね」そう言いながら、陸は厚紙でできた星座早見盤をぐにゃりと曲げてみせた。

「重力が大きいと、いろいろ不思議なことが起こるんだ。こんなふうに空間がねじ曲がって遠い場所に一瞬でワープしたり、時間が伸び縮みしてタイムトラベルができるようになったり」

 私の本棚には確か古いSF小説が何冊か並んでいたはずだ。陸はあれを読んだのかもしれない。

「時間ってそんなお餅みたいに伸びたり縮んだりしないだろ」

「知らないよ、でもそう書いてあったんだ」陸は口を尖らせた。「ブラックホールの周りは重力がすごく強いから、時間の流れがとても遅いんだ。だからブラックホールから外を見ると、時間が早送りみたいにビュンビュン流れていくんだって」

「よく分かんないけど、ブラックホールって竜宮城みたいなもんなのか」

「……ちがうよ」

 陸は説明するのを諦めたようだ。

 私は立ち上がって東の空を見上げた。ペガサスの四角形からアンドロメダ座を辿り、その膝元にあるM31大星雲を見つけて双眼鏡に入れた。陸に教わった探し方だ。

 ふと、後ろから低い声が聞こえた。

――ブラックホールの中には全ての時間が詰まっているのです。宇宙の始まりから終わりまで、全部。

 私は双眼鏡から目を外した。それは陸の声ではなかった。

――ですから、私たちがあの中でいつの時代に連れて行かれるのか、ちょっと楽しみなんですよ。

 その時、頭の中でアラームが鳴った。

 七時の時報。気がつくと、窓の外に薄暮の空が覗いていた。慌てて体を起こしたベッドの横に、妻が立っていた。パジャマから外出着に着替えて、髪をきちんとシニヨンにまとめ、薄らと化粧をしている。

 目を擦り、何度か瞬きをした。いつもの、ひと月前の妻の姿だった。

「陸を送りに行ってくるから」

「え、どこに」

「――学校に決まってるでしょ」

 数秒、私は妻の顔をじっと見つめた。妻はじゃあねといって、冷蔵庫横のキーラックから車の鍵を取ると、バタバタと玄関から出て行った。テーブルにはサラダと目玉焼きが用意されている。

 私はもう一度瞬きをした。

 部屋の中は静かだった。陸はどこにもいない。妻が学校に送りに行ったからだ。子供だけで登下校するのはまだ危険だと、以前PTAで決めたと聞いている。

 窓の外は深い朝焼けに染まり、空の高いところを濃紫色の雲が動いていた。私はその様子をぼんやりと眺めていた。

 テレビをつけると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言った。

 さっき聞いた低い声だった。その顔にどことなく陸の面影があることに、私はふと気がついた。


 僕は一人で飛んでいる。たくさんの星が僕の周りに現れては消えたけど、みんな僕とは関係ないって顔をしてる。僕は寂しい。僕はサビしい。母さんはどこだろう。声が聞こえた気がする。僕を呼んでいる気がする。母さんに会いたい。兄弟に会いたい。だから僕は歌う。一人きりで歌う。歌いながら僕は気づく。これは何の歌だろう。忘れてしまった。忘れてしまった。でもこれは僕の歌だ、僕と母さんの歌だ。声が聞こえる。歌が聞こえる。暖かな池の底で、僕は大きなはさみをふりまわす……。池って何? はさみって何? 分からない。そう思った瞬間、ほんの少し、水素原子一個分だけ僕の進路が変わる。この先に母さんがいるような気がする。僕はふうと息を吐く。


 どこからか、ごうごうという音が響いている。私はまたベランダに出た。人気のない朝だった。朝焼けは空全体を覆い、空気までも濃い紅色に染めていた。

 そこに、あのニュースキャスターが立っていた。

 背の高い男だった。そこにいるのが当然といった顔でこちらを見ている。私は引き付けられるように歩み寄った。すごい朝焼けですねと声をかけると、痩せた頬に人懐っこい笑みを浮かべて、違います――と彼は言った。これはね、赤方偏移っていうんですよ。あまりに強い重力が作用すると、光は赤く見えるのです。

 私は喉の奥でその言葉を呟き、縋るようにベランダの手すりをつかんだ。

 男は望遠鏡の後ろに回り込んで鏡筒を東の空に向けた。手慣れた様子で赤道儀を操作し、ヘリコイドを回してピントを調節している。

 ブラックホールを見るのですか? と私は訊いた。

――ブラックホールは見えません。光を出していませんから。

 じゃあ、地球にぶつかるまで分からないでしょう?

――ぶつかることはありません。すぐ傍を通り過ぎるだけです。ブラックホールは地球とは何の関係もないのです。

 でも、きっと通り過ぎたことにも気がつきませんよね。光の半分の速さなんだから、あっという間でしょう。

 すると男は望遠鏡から顔を上げた。私は息を吞んだ。それは陸の顔だった。白いTシャツにデニムの短パン姿で、イオンで買った水色のリュックを背負っている。去年の夏休みにキャンプに行った時の格好だ。

――言ったじゃないか父さん。ブラックホールの周りでは時間がゆっくり流れるんだ。

 そう言って、陸は細い目で私を見上げた。

 りく――と名前を呼び、ふと我に返った。ああそうか、これは夢なんだ。陸はもう死んでしまったのだから。私は部屋の中を見渡して妻の姿を探した。どうせ夢なら、家族三人で見た方がきっと楽しい。

 陸が私の手をとった。

――母さんならこれからずっと一緒だから大丈夫だよ。それより父さん、僕と一緒に世界の終わりを見に行こうよ。ザリガニ釣りに行けなかったんだから、ねえ、それぐらいいいでしょ。

 月明かりが眩しかった。見たことのないほど巨大な満月が、真っ赤に燃えて真上から私たちを照らしている。

 世界の終わり――か。

 さっきまでベランダの向こうにあった隣家の屋根や町の風景は、いつのまにか老朽化した無人の廃墟に変わっていた。そこに生えた細く縮れた草の上を次第に灰褐色の木々が覆っていき、どこか遠くから得体の知れない生き物たちの悲鳴のような咆吼も聞こえてきた。

 いいぞ――と私は頷いた。世界の終わり見学ツアーか。楽しそうじゃないか。夏休みの日記に書くちょうどいいネタになりそうだな。

 陸はニッコリと笑った。その笑顔はめまぐるしく変幻し、子供のようにも、大人のようにも見えた。

 ごうごうという響きが空気全体を激しく震わせ、千切れ雲は凄まじい勢いで東から西へと過ぎていった。ベランダに突風が吹き寄せ、望遠鏡が倒れそうになって慌てて部屋に運び込んだ瞬間、空に稲妻が走った。雷雨が止んだ頃には赤い満月は更に大きさを増して、今や空の半分近くを覆うほどだった。

 いつのまにか、陸は私の隣に立っていた。陸は言った。――あれは月じゃないよ、年をとって真っ赤に膨らんだ太陽なんだ。それが地球のすぐ傍まで迫っているんだ。地球はね、今ちょうど死にかけているんだよ。

 私は手すりを握りしめた。

 大地はみるみるうちに墓標のような枯れ木が並ぶひび割れた荒野へと変わっていった。もはや生き物の気配は全くなかった。乾いた砂塵が舞い、大気が大きく震えてすすり泣くような音を出した。老いた地球はささくれだった地肌をさらしながら、静かに断末魔のひと時を過ごしていた。

 その様子を、私たちはベランダから茫然と眺めていた。

 突然、さざ波のような衝撃と灼熱が私たちを襲った。眼前で地殻が熱で溶け落ち、かつて太陽だった赤い巨星があっという間に地球を呑み込んだ。

 一瞬で辺りが暗くなった。気づくと、私と陸は二人で宇宙空間に浮かんでいた。

 ベランダも家も大地も消えて無くなり、二人の周りは星でいっぱいだった。ここがどこなのかも分からなかった。上下左右のない空間のそこかしこで、星が生まれては消えていった。

「世界の終わりまであと一日」と陸が言った。

「まだ終わりじゃないのか。もう地球も太陽もなくなっちゃったのに」

「まだだよ。まだ終わりじゃない」

 星々が早送りのように動いていた。無数の星が渦を巻いて銀河を作り、銀河どうしが絡みあいながら、泡に似た立体構造を作った。それは宝石を織り込んだ絹織物のようだった。宇宙は光り輝く編み目模様で埋め尽くされ、私たち二人を静かに照らしていた。

 近くにあった明るい星が、不安定に身動ぎをしたかと思うと、突然まばゆい閃光を放って破裂した。

 その後に、小さな黒い染みのようなものが残った。染みは独楽のように回転しながら周りの星々を吸い寄せ始めた。囚われとなった星は形を維持できずに砕け散り、銀色の衣に似たもやとなって染みの周囲に円盤のようにまとわりついた。それは何かに反応して、時々明るく光った。

「ブラックホールが生まれたよ」陸が嬉しそうに目を細めた。「星が死んだあとにはブラックホールが残るんだ」

 それは至る所で発生し、多くの星々を呑み込んでいった。やがて銀河が離散し始め、光の編み目模様は少しずつ解きほぐされていった。もう星は新たに生まれることはなく、ブラックホールどうしが互いに引きつけ合って更に巨大なブラックホールを生み出した。そこから伝わってきた音のない振動と波動が二人の体をもみくちゃに揺らすと、陸は赤ん坊のような声でけらけらと笑った。

「世界の終わりまであと一時間」陸は言った。「どんどん時間がゆっくりになる。宇宙の終わりが近づいてるんだ」

 宇宙は膨張するにつれて希薄化していき、もはやどこにも熱と力の営みは見当たらなかった。がらんどうのような死の静寂が緩やかに広がっていった。やがて私たちの周りに一粒の原子すら存在しなくなった時、地平線の彼方にとてつもなく大きなブラックホールがあることに気がついた。姿が見えないはずなのにそれは確かにそこに存在し、私と陸を含む宇宙の全てを吸い込もうとしていた。

「父さん」と陸が言った。「世界の終わりまであと一分」

 それは、宇宙そのものと同じ大きさをもつ深くて果てのない穴だった。虚無へと続くその深淵を目指して私たちは落ちていった。

 二人は手をつなぎ、時空の流れに身を任せた。宇宙の中心までもうあと少しだった。その時、穴の奥で何かが光った。それは蠢動し、回転し、急速に膨張を始めた。

「世界の終わりまであと一秒」

 それは誕生したばかりの宇宙だった。私と陸は今、宇宙の終焉と開闢を同時に見ていた。私は陸の手を強く握った。ブラックホールの中心で次元は反転し、空間は無限小に圧縮され、時間は永遠にまで引き延ばされた。私と陸の体は素粒子レベルに分解されてひとつに融合し、この宇宙の最初の星となって核融合を始めた。

「世界の終わりまであと0.00000001秒」

 私は目を閉じた。そして時間は完全に停止し、世界は光に包まれた。


3.別離

 テレビにはいつものニュースキャスターが映っていた。丸顔で豪快な食べっぷりが人気の女性アナウンサーが、ブラックホールが太陽系外に離脱したというニュースを読み上げていた。

 私は冷蔵庫からイカの切り身を取り出し、包丁で細かく刻んだ。少し贅沢だが、ネットで調べたところ非常に食いつきがいいと書いてあったので信用することにした。釣りに行って何も釣れないことほどつまらないことはない。イカぐらい安いものだ。

 外は良い天気で、幸いそこまで暑くなかった。半袖シャツにつば広の帽子をかぶって車に乗った。陸は助手席に座った。目指すは町外れにある用水路で、車で十分ほどの距離だ。

 駅前の商店街を過ぎて郵便局の角を曲がったところにあの交差点がある。なるべくなら通りたくないが、ここを通らないとだいぶ回り道だ。私は頭の中を空っぽにして、ただアクセルを踏んだ。

 あの電話が鳴った時、私は台所で洗い物をしていた。奥様ですか、ご主人が交差点で車に撥ねられたらしく意識不明の重体です。警察の人からの電話の内容はそれ以降ほとんど覚えていない。それから向かったはずの病室でみた彼のチューブだらけの姿も、葬儀でみた彼の白い顔も、焼き場で拾ったそれ以上に真っ白な骨も、今ではぼんやりとした記憶の断片でしかない。悲しいという気持ちは確かにある。でもそれを受け入れることを拒否して自我を保っている自分も確かにいた。

 水田脇の農道に車を停めた。陸の手を握り、雨蛙の鳴く草むらを踏み分けて土手を下りていった。用水路の流れは緩やかで、水面はきらきらと光り、背の高い水草が疎らに生えていた。陸は水辺でリュックを下ろし、草の横のちょっと淀んだところがいいんだと言って、その付近を目指して竿を振った。

 黄色い太陽に薄い雲がかかり、微風が頬を撫でた。急に竿がしなった。陸はテグスがぐっと水中に引き込まれたタイミングを見計らって竿を上げた。「母さんタモ!」と陸が叫んだ。水中から顔を出したその赤い影を逃すまいと、私は必死で腕を伸ばし、タモ網を振るった。

 午前中だけで三十匹近く捕れた。バケツの中は赤黒い甲羅でいっぱいだった。全部は持って帰れないよと言うと、陸は分かってるよと言っていちばんハサミの大きな奴だけを残して残りは放した。そいつの背中を持ちながら、まっかちんって言うんだよ、と陸は笑った。その呼び方を友達に聞いたのか、彼から聞いたのかは分からない。陸はプラスチックケースに水路の水を汲んできて、その中に石と水草とまっかちんを入れた。

 土手を上がり、草の上にケースを置いて、陸は寝そべった姿勢になってザリガニを眺めていた。真昼の太陽が上から照りつけて少し暑かった。汗を拭こうと車から新しいタオルを取って戻ってくると、陸は同じ姿勢のまま、奇妙な歌を歌っていた。

 暖かな池の底で、僕は大きなはさみをふりまわす……

 不思議なメロディの歌だった。陸がその歌を誰から聞いたのか、私には分からなかった。 <了>


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手をつないで下りていく いぬかい @skmt3104n

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ