第一夜 3

今日は屋根か。


 こんなに高いのに、怖くない。春の、ひんやりとした中に暖かさの感じられる空気は、好きだ。これも、夢なんだろうな。きっと。


「白い猫が真っ暗な中にいたら、目立つで」


 びっくりした。声をかけられたこと、自分が白い猫であると自覚していること、両方に、だ。そおっと振り返る。すると、同じ学校の制服を着た男が立っていた。確か……。


「まだ、名前覚えてへん? 竹屋銀次」


 そうだ。転校生だ。なぜこんなところに。


「こわがらんでもええよ」


 声を出したいが、声にならない。口だけがパクパク動く。


「そか。まだ慣れへんねんな。無理して声ださんでもええよ。そのうちできるようになるさかい。な、真名井さん」


名前を呼ばれて、意識を失った。


 その日の眠気は夕方になっても取れなかった。藤子が保健室を閉める時間までベッドを借り、ゆきはずっとごろごろしていた。

 重い体をひきずりながら保健室のドアを開け、思わず固まる。廊下にはのっぺりとした薄気味悪い顔が立っている。妙にヘラヘラ笑っているのが、そこはかとなく不気味だ。


「おはようさん。よう寝てたね」

「……何か、用?」


 ゆきはなるべくその場を早く離れたくて目をそらす。だが、銀次はかまわず口を開いた。


「昨日のこと、夢とちゃうで」


 図星をつかれて、目を丸くする。


「まだ、よう分かってへんねんな。今日も行くから」


 言いたいことだけを言い、銀次は、ひょろりとした高い背を少しかがめて、踵を返した。


「昨日のことって何? 竹屋君が転校してきたこと? それとも……」

「どっちもや」


 ほなな、と銀次はその場を後にした。



 急いで学校からアパートに戻ると、力任せに扉を叩きつけ、鍵をかけ、チェーンを下ろす。ゆきはその場にうずくまった。


「なんなの。気持ち悪い」


 額をつけた膝から見える物音一つない部屋に、カーテンからこぼれた夕日が差し込んでいた。


 ゆきの両親は、いない。

 

 高校に入学する直前、二人はこつ然と姿を消した。

 テーブルには「ごめん」と走り書きされたメモと、一冊の通帳が残されていた。その通帳に毎月振り込まれる仕送りで、ゆきは生活をしていた。

 ある日、方々調べ倒し、仕送りをしてくれている人に連絡を取ろうとした。が、代理の弁護士がやってきて、一枚の書類を差し出された。そこには、十八歳までは仕送りを続けるということ、その期間もそれ以後も、一切の連絡を取らない、という旨が書かれていた。――要は、わずらわしいのか。ゆきは、黙ってサインをした。

 普段は一人であることに不便を感じたことはない。が、こんなときは体の髄まで孤独が染み渡る。とりあえず、気を紛らわせようと、テーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばした。

 バラエティ。ドラマ。なるべく重くない内容のものを探して、見る。ひとしきり笑うと、ようやく気持ちがほぐれてきた。気持ちがほぐれるとお腹がすく。何か食べようと立ち上がった時だった。


「おーい」


 締めたカーテンの向こうから、かすかに男の声がする。気のせいかな、と一歩足を出そうとしたとき、また「おーい」と、今度ははっきり耳に届いてしまった。

 窓から目が離せない。部屋の中の温度がいく分下がる。床に足が張り付き、ひやり、と背に汗が伝う。立ったまま動けないゆきに、窓の外の人物がさらに追い打ちをかけた。


「開けて。ボクや。銀次やで~」


 ここは三階だぞ。


「む……無理」


 なんとか声を絞り出して、ゆきは答えた。


「無理ってそんな、無茶言わんといて。ボクも、ギリギリやから……」


 苦しそうな声に、若干緊張が解けたゆきは、カーテンを少し開けて外をのぞいた。そこには、ベランダの柵の土台に右手の指先だけでぶら下がっている、ヘラヘラした銀次がいた。


「なんで、そんなところにいるの?」

「着地に失敗してん。ひっぱってくれる?」

「……はぁ」


 とりあえず、差し出された左手をつかみ引っ張る。その勢いを使って、銀次が右手で柵をつかむと、足を横に振り上げて、軽やかに身が柵を乗り越えてきた。音もなく着地を果たすと、おおきにと言いながら、こちらのとまどいをかまわず、部屋に入ってきた。

 ベランダ近くにちゃっかりあぐらをかくと、ヘラヘラッと笑い、銀次は唐突に話し始めた。


「さて、話のつづきやな。昨日、屋根の上で会うたんは、ホンマやで」


 ゆきは目を見張る。


「その前の日も、塀の上歩いてたやろ? 見てたで。まだ初めやから危なっかしゅうて」


 クスクスと笑う銀次を、ゆきはキッとにらみ返した。


「初めって、なんなのよ」

「――覚醒」


 銀次の細い目がゆきを見据える。夢幻ゆめまぼろしでも、冗談でもないということは、その目が語っていた。


「キミはちょっと変わった人なんや。猫になれるねん。――ボクみたいに」


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