第3話 老将軍・エブの胸騒ぎ

「分かったでござる、見はしないでござるよ」

 バーツは苦り、それを片手で持ったまま、すたすたと姉に近づいた。再び花瓶に手をつっこんで、水を弾き出す。

「見はしないのでござるが、冷刃エツナブ!!」

 パッと浮かんだ水の塊は、こんどは複数。合計八つ、見えざる手によって持ちあがった澄んだ短剣が、透明この上ない軌跡を描いて、ザクザクザクッと切り裂いた。

「く……ぬ………ぬぬぬぬぬぬ………」

 老祖父はだらだらと汗をふきだし、両膝をドドン、と重たげに落とした。胃まで痛むらしく、片手で腹部を押さえ込む。地図の破片が無数にはらはらと舞い降りる中、

「バーツ……、き、きさま……」

 我が孫といえど、今日という今日は許しておけぬ。老いた祖父は腰の剣についに手を、かけなかった。這いずっていって、中庭の池の水面に腕を伸べる。それを見た召使いが、喉をひきつらせて叫んだ。

「バ、バーツ様、謝って、早く、は、早く謝って下さい!! エブ様とて、最強級の冷刃の戦士なのです!!」

 巨大な水の剣を形成して、バーツを殺してしまうのではないか。老将軍の形相に、

「バーツ、あ、あれでしょう、あなた、得意の手品なのでしょう? 今、書を破ったと見せかけて、実は本物はこちらに、なんていうことなのでしょう?」

 姉もひきつった笑顔で、必死のとりなし。

「まさか。手品などではないでござるよ」

「じゃ、本物を」

 うむ、とバーツは明朗にうなずいた。

「本物を、やっちゃったでござる」

「なーんて、バーツ様、そうやって信じ込ませておいて、実は本物はこっちに、って、やるつもりなんじゃないんですか?」

「あ、バレたでござるか~? 実は、本物はこっちに」

 と、バーツは服をはぐり、

「なんて、言うと思ったでござったか?」

 空のままの手のひらをひらひら。

 うわああああああ!と耐えきれず祖父が絶叫した。じりっとさらに水辺に這い寄り、

「他の将軍、重臣どのの皆の手前、そしてなんといっても国王の手前、いかんともしがたい!! お前を殺して、儂も死ぬ!!!」

「ま、待って下さい、死ぬなんてそんな、国王には償いをなさるとか!!そ、そうだ!」

 とんでもないところに居合わせてしまった少年貴族が、

「女摂政に相談してみたらいかがでしょう。何か、大変な仕事を授けていただくのは?!難事業を達成した暁には、この重罪を許していただくとか!!」

「おお!! なんと賢いのだ、カクパス殿は」

 老将軍エブが、少年貴族を見つめた。よいな、とバーツにギョロ目を剥いて、ついてこい、と身を翻してあたふた歩きだし、

「起死回生の一発じゃ。お前はすぐさま、わしと共に、王宮へ出向く!!」

「やだよ、でござる」

「は?」

「やだよ、でござる」

「は?」

「やだよ、でござる!!!」

「なななななな、なんと!!!!」

「だって、冷刃で破いたのはニセモノだもん。本物はここにござるでござる」

 ぱっと服の背中をはぐって、バーツは立派な装丁の書を。にこっと笑う。

 全員が、ばったりとその場に膝をついた。

「出て行けーーーーーーーー!!!!!」

 エブは絶叫し、バーツがカクパスと共に都の外の訓練所へ向かって出立すると、よろよろと私室へひきあげた。

「あれは、本当に儂の孫なのであろうか……」

「優れたところも、おありですよ」

 と、召使いが湯気のたつ茶碗を持ってきて慰めたが、エブは、白いものの混じったあごひげを、かきむしった。

「ふざけたところがありすぎやせんか。あの個性で、ヤツの望むような、信頼しあえる友人が軍でできるとは、とうてい思えん!」

「エブ様は、バーツ様のことをお好きで心配でたまらないってことですね」

 老将軍は、むむ、と口をへの字にして、床の敷物にどっかとあぐらをかき、盆の上から筒型の陶器を取り上げて、すする。茶色くとろりと泡だった液体に、唐辛子で味付けをしたその飲み物は、いつもなら少量で老将軍を元気にしてくれたものだが……

 突然、エブは、立ち上がった。

 あれからしばらく、王宮での御前会議に備え、思考にふけっていたが、

「今、強烈な胸騒ぎを覚えたぞ。バーツは? も、もう、精鋭部隊の訓練場へ着いた頃だろうか?」

 召使いは、広い開口部から中庭に目を向け、矩形の池の水面に映る太陽の位置から、ざっと時刻を計測して、

「はい、小一時間ほど、たちますからね」

 エブに言われた書物を、土の倉から何冊も揃えて抱えてきた召使いだったが、エブの顔色は、尋常ではなかった。

 いつも豪放磊落な老将軍が、おかしい。

 召使いがそれとなく側に控えていると、エブは竹ペンを取り落としたり、墨壺をひっくりかえしたり、サンダルの緒が突然切れたりと、笑うに笑えないことが立て続けに起こった。

 ついには、儂も年かのう、と涙ぐんでしまった。

「はらはらするのだ。胸騒ぎがひどい。思えば、あれは、昔からよく、誘拐の標的になる子供じゃった。なあ、フーンよ」

「そうですね……でも」

 と、召使いの少年が言いかけたとき、女の召使いが、隣室からうわずった声で、

「申し上げます!! 軍の精鋭部隊の駐屯所より、急使が……!!」

「や、やはり!!! バーツの身に何か!! す、すぐに通せ!!」

「落ち着いて下さいエブ様。きっといたずらが過ぎて精鋭部隊の先輩とケンカになったか何か、その程度のことですよ」

「失礼!!」

 深いバリトンの声とともに、垂れ幕が跳ねあがった。急いて入室した武人は、筋骨隆々の青年だ。波打つ髪が、がっしりした肩をふさふさと覆っている。

「わたくしは精鋭部隊総団長・アカブ将軍の報せの者です! 御嫡男、バーツ様が賊に襲われ、人質に!! 膠着状態です!! エブ将軍、あなたを脅すつもりなのですよ!! 人質を解放する条件を述べてやるから、呼んでこい、と……!」

 エブの赤ら顔が、動転の青に染まった。

 水の中をもがくように、ドタドタと駆け出す。

「バーツ!! バ、バ、バーツ!!」

 エブはこう見えて、国の重鎮の一人だった。

 屋敷も王の宮殿のごく間際に賜っているような大貴族である。

 そもそも、新たに貴族の中での序列、位を法律に定め、住まいも位によって割り当てるという事業じたい、ひとりエブが首を横に振れば頓挫しただろう。

 先の天下分け目の合戦以来、政権を握った女摂政と足下の盟友たちとに営まれる現在の王国で、潜伏中の敵がいるとすれば、彼らにとって、バーツ以上に人質にとるべきものが他にいようか?

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