取引30 謝罪アニバーサリー


「おはよー兄さん。今日はずいぶんゆっくりだねぇー」


 目を覚ますと、一コマの始業時間はとうに過ぎていた。傍らには制服姿の蛍が座っていて、妙に上機嫌な様子だった。


「お前の方こそ、学校は? 完全に遅刻の時間じゃないか?」

「……今日くらいいいじゃん。何せ、今日は謝罪の日なんだから!」

「……お前……記念日か何かと勘違いしてないか?」

「ううん。勘違いどころか、今日は記念日だよ。借金という井戸に囚われていたウチと兄さんが、自由という名の大海に飛び立つ、歴史的な日……!」

「……どうしよう。起きたら妹がポエマーになっていた件」

「――ァ! どうしよう。ここからウチと兄さんの新たな一ページが始まるんだね!?」


 朝からよくわからないハイテンションに見舞われた蛍を尻目に、米太はのそのそと起き上がり、支度をする。一応謝罪に行くのだからと、滅多に着ないスーツに身を包み、昨日の残ったおにぎりを温めなおして食べようとする。


(……どれくらい時間を要するのかわからないが、善は急げた。……せっかくだから今日中に全ての借金を返済できるように、まずは銀行に行って……)


 一日の予定を考えていると、ドアのチャイムが鳴った。ちょうどおにぎりを頬張った瞬間だ。あまりよくないタイミングに米太は顔をしかめるが、


「はーい! ウチに任せて兄さーん!」


 蛍が機転を利かせて、代わりに出てくれた。どうやら宅急便のようで配達員と思われる誰かと蛍のやりとりが聞こえる。バタンと、金属の扉が硬質な音を立てて閉まり、


「……兄さん、見て見てー、えへへ、すごいよー?」


 一層笑顔になった蛍が戻ってくる。その手には、蛍の上半身を隠せるほどの、大きな白いバラの花束が握られていた。


「……あ……」


 その瞬間、米太の脳裏に記憶がよみがえる。一週間ほど前、ミアの和室でフリマアプリを使った時に見つけた、あの花束。画像よりもはるかに増量しているが、間違いなかった。


「誰かからのプレゼントかなぁー。すっごく素敵な花束。しかもタイミングがいいね」

「…………」

「兄さん? あ、もしかして、兄さんが頼んだの? この花束?」


 蛍が目をキラキラさせながら、尋ねてくる。米太は無理やり笑顔を作り、


「いや……、なんというか……、知り合いがフリフリで買ったのを、ウチに届けることになってたんだ」

「なーんだ。残念。……でも、その人、なかなか個性的な人だね」

「……どうしてだ?」

「……だって、わざわざフリフリで花を買うなんて、よっぽどだもん……」


 蛍の言葉に、ミアの仕草がよぎる。出会った時の、怒った様子、急に土下座をされた時。挙句、次郎系ラーメンを頭から被りそうになったこともあった。


「…………あながち、間違いじゃないな。この花を購入する時も、『値上げ交渉がしたい』って。……でも、結果、出品者の方がこうして大量におまけをしてくれたみたいだ……。捨てたもんじゃないな、値上げ交渉……」

「………。……ねー、その人ってさ、……もしかして、女の人?」


 よみがえる、ミアとの距離。触れ合った時の体温と感触。相手が女性であることを意識させる、感覚の記憶が、全身を貫くように駆け巡り、


「……一応、そうだけど……」

「……ふーん。……仲良かったのー?」

「……どうかな。ほら、いつか電話で話した、フリフリの取引の人だ。実はあの後、同じ大学でバッタリ遭遇したんだが、……結局、取り引きは不成立になってしまった……」

「へええ! そうなんだ……! 残念だけど、不思議なこともあるんだねぇー」

「ああ。………ホントにな……」


 別れ際の涙が、目の奥に焼き付いている。胸の痛みに耐えきれず、どうにか振り払おうとするが、


「……あ、何これ?」

「…………どうした?」


「なんか挟まってるよ、手紙……?」


 はい、と手渡されたのは、シンプルな小型の便せんに包まれた手紙だった。おそらく出品者からのものだろう。米太自身は実行したことがないが、丁寧な出品者の中には、毎回律儀にお礼の手紙を書いて入れる人もいるのだ。今回はそういう人だったのかと、便せんを開ける。


『 この度は、お取引いただきまして、誠にありがとうございました。 』 


 綺麗な字で書かれた手紙は、そう書き出していた。


『  当方、地方で花屋を営んでいる者です。勝手ながら、少しだけ手紙を書かせていただきました。もし不快でしたら、すぐにでも捨ててください。  』


『  もともと、フリフリを始めたきっかけは、廃棄する花の行き先を探すためでした。そんな中でお店の業績がさらに悪化し、当方の体調不良も重なって、近々、店を閉める予定でした。購入者さまが買ってくださった花も、店頭に上るべく育てていたものですが、日の目を見る予定が無くなったので、こちらに出品させていただいたものでした。  』


『  正直、利益などありません。ただ、花を捨てるのが心苦しくて、0円でもいいから受け取ってくれる誰かにお譲りしたかった。閉店のこともあり、多少自暴自棄になっていた当方は、自分の育てた花の価値すら見失っておりました。……しかし、  』


 手紙を持つ手が、かすかに震えた。


『  購入者さまが取引メッセージでおっしゃったことが、ただただ、当方の心を打ちました。『この花は素敵です』『もっと価値があると思います』『どうしても、値上げしてもらえないでしょうか?』正直、涙が溢れて止まりませんでした。自分はまだ、もう少し頑張れるのではないか。当方の花にも、まだ価値があるのではないか。そう考えるようになりました。その結果、当方はもう少しの間、花屋を続けること決心ができました。  』



『  お聞き苦しいことを、綴ったことをお詫びいたします。しかし、そのお詫びとせめてもの感謝として、当方の店で一番綺麗な花を送りたいと思います。本当にありがとうございました。この花が、出品者さまの一日を彩ってくれることを願って。   ある花屋より  』


「…………………………」



(『……お金は人を喜ばせるために使うものだと、亡くなった祖母によく言われました。……それとも、値上げ交渉のコメントが来たら、ベイタなら迷惑だと思いますか?』)



(……ミアの想いは、ちゃんと、伝わっていた)


 ぱた、と何かが落ちる。


「にい、……さん?」


 異変に気付いた蛍が驚く。手紙を叩いたのは、小さな水滴だった。


(じゃあ、俺の、……俺のは?)


(俺が、ミアと会って、どれだけ驚いたか、どれだけ差を感じたか、でも、ミアがその差すら受け入れてくれたことに、どれだけ救われたか、憧れたか、あの時間の一分一秒が、どれだけ楽しかったか)


「…………ッ」


(……きっと、何も知らない。伝わってない。当然だ。目の前で裏切られて、自分よりもお金を選んだ相手なんだから。その代わり、俺は今、長年の借金をチャラにできるほどのお金を手に入れた。……でも)


「……っ、……れ、……おかしいな」


 ぽつ、ぽつ、と手紙をたたく水滴が、自分でも信じられないほどに、次々と米太の目から溢れてくる。


「……たくさんお金があって、借金も返せることになって……、何よりも、蛍がこんなにも楽しそうなのに……」


「…………何もかも、揃ってるのに、……それなのに、どうして、ッ……、……ッ」


「…………」


 はらはらと涙を流す米太を、神妙な面持ちで蛍が見つめる。しばらく無言が続いた後、 


「……にいさん、……初恋っていつ?」

「え? ……なんで、急に?」

「いいから、答えて。いつ?」

「……いや、特にそういう覚えは……」

「…………」


「……じゃあ、今じゃん」

「え?」


 思わず聞き返すと、蛍が瞳を揺らしながら、


「……それ、初恋っていうんだよ、兄さん」

「え……?」


 よみがえる、ミアの笑顔。本当の笑顔。


「……初……恋?」

「うん。……多分、兄さんはその人のこと、好きなんだよ。だから泣けるの」


「はは、冗談はよせ、俺は……」

「違うよ、冗談じゃない」


 なおも言い縋る蛍に向けて、


「いや」と米太は自分に言い聞かせるように、


「……俺はお前だけでいい。お前がいれば、それで十分だ。俺にはお前しか必要な……」


「――――嘘ッ!!」


 蛍が大声で喚く。


「そんなわけない! それくらいウチにもわかるよ!!」


「……! 何が……」

「わかるよ! だって、ウチ、――兄さんの、妹だから!」


「今までもずっと、ずっと! 何もかも自分のことは後回しで! 妹のためなら何でもしてくれる、兄さんの後ろにいつも隠れて! 庇ってもらって! 兄さんが目の前で何かを諦めるのを、何もできずにただずっと後ろで見てきた、見続けてきたッ、――最低な妹だから!」


 蛍の目には、涙が滲んでいた。


「……そんなこと……!」

「そんなことある!! ……でもね、兄さん、いい加減気付いてよ、ウチ、もう嫌なの! 耐えられないの! お願いだから兄さん、……もうこれ以上、ウチのために何もあきらめないでッ!!」


「――――っ!」


「……でも、できない。無理なんだ」

「なんで!」


「お金を貰ったから! その代わり、もう会わない約束なんだ」

「……!!」


 目を瞠った蛍が、


「……それが、取引? 兄さんが言ってたこのお金の?」

「ああ。だから、できな……」

「ふ……、」


「――ふざけないで兄さん! 兄さんの初恋を売って得たお金とか、そんなの嬉しくもなんともない!! 最悪だよ!! そんなお金を1円でも使った時点で、ウチはもう、二度とお母さんに顔向けなんてできない!」

「……蛍……、……っ!」


 お腹に衝撃を感じ、蛍の両腕が嘘みたいに優しく、米太の背中を包み込む。下から見上げる蛍が潤んだ瞳を向けてきて、


「……借金返済の方法なんて、いくらでもあるよ? でも、兄さんの初恋の相手は、たった一人しかいないんだよ? そんなお金に関わるくらいなら、違法就労の方がずっとましだよ……?」


「――だから、返しておいで、兄さん」

「……でも」

「たしかに、もう遅いかもしれない。でも、遅くないかもしれない。……もし遅かったらその時は……」

「……………慰めてくれる……か?」


 胸の中で蛍がうなずき、ほほ笑む。


「……だってそれが、妹の務め、でしょ?」





「いってきますッ!」


 勢いよく玄関を出て、スーツ姿のまま階段を下りる。手にはアタッシュケースが、もう片方には贈られてきたばかりのバラの花束があった。米太が階段を下り切る前に、ある人物が待っているのが見えた。


「……根尾……」


「……よぉ、米ちゃん……、その、昨日はなんていうか、ごめんな。……無神経だったって反省してる。……正直、俺には米ちゃんの苦労はわかんないけどさ、……でも、だからって、他人ごとには出来ない。どうしても……」

「……お前……」


 米太はその場で頭を下げる。


「こっちこそ、すまなかった! 疑うも何も、根尾がいなければ、俺は今ここにいないんだ。そんなことも忘れるくらい、俺、どうかしてたんだ。……でも」


 顔を上げ、見慣れたアパートを見上げる。


「たった今、妹から喝が入ったところだ。だから、行くぜこれから! ――ミアのところへ!」


「米ちゃん……」


 根尾は一瞬驚いた表情をしてからニヤリと笑い、


「じゃあ、俺の助けが必要だな?」


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