透明の祈り

尾八原ジュージ

ぼくと清海くん

 総合病院の横のだらだらと長い坂を上り、左手に折れると小さなスーパーがあって、そこの精肉売り場のおばさんはもうぼくの顔をすっかり覚えてしまっている。たぶん、高校の制服を着たまま買い物に来るからだろう。

 100グラム78円の鳥もも肉を700グラムと豚挽き肉を400グラム購入し、そのほか白菜二分の一やらキノコやら玉ねぎやらを買い込み、大きめのエコバッグふたつに詰めてスーパーを出ると、冬の短い日はもう終わりかけ、太陽が遠くのビル群の向こうに沈もうとしている。ぼくは少し急ぎ足になる。

 歩いているうちに首回りが暑くなってきて、ぼくはマフラーをしてきたことを後悔する。でも外すのも面倒なので、結局暑い暑いと心の中で唱えながら先を急ぐ。

 スーパーから徒歩八分のところに「ひよりみ荘」と看板を掲げたぼろぼろのアパートがあり、ぼくはチラシの束が飛び出したポストを横目で見つつ、錆の浮いた階段を上って201号室の前に立つ。チャイム(インターホンではない。そんな気の利いたものはついていない)を鳴らす。

清海きよみくーん」

 呼びかけても返事がない。またか、とぼくはため息をつく。エコバッグふたつを下ろして合い鍵を取り出し、塗装の剥げたドアを開ける。

 玄関には履き古したスニーカーが一足転がっている。短い廊下の片側に一口しかないコンロとシンク、反対側には狭苦しいユニットバスがあり、奥は六畳の和室になっている。すりガラスのついた引き戸を開けると、清海くんが天井から垂れ下がったロープの輪っかに首を入れ、炬燵の上で膝を折って首を吊っている。

 勝手知ったる部屋のなか、ぼくはすぐに隅に詰まれている古雑誌の上に鋏が載っているのを見つけ、清海くんがぶら下がっている梱包用ロープをそいつでチョキンと切ってやる。清海くんは前につんのめり、炬燵の上から毛羽だった畳の上へと顔から着地する。「ゴプッ」という息と声の混ざった音が聞こえる。

 やれやれだぜ。ぼくは咳き込んでいる清海くんの足を炬燵の上から押しやって、キッチンとは名ばかりの狭苦しいシンク下からまな板と包丁と耐熱ボウル、大小のタッパーを六畳間に運びこみ、炬燵の上で買ってきた食材を切り始める。あのものすごく狭いシンクには、食材を大量に切るだけのスペースがないのだ。


 清海くんはぼくの従兄で、一言でいうと変わったひとだ。難関大学をストレートで卒業後、父親の会社に就職したものの一年ももたずに辞め、幸い実家が金持ちなので特に何もせずブラブラしている。お金はあるはずだがなぜかボロボロのアパートを好み、量販店の服を破れるまで何年も着用し、当然ながら美容院にも行かずにウェーブのかかった長髪を肩に垂らし、無精ひげを生やしている。

 そして時々、天井の古めかしい照明器具にロープをひっかけ、首を吊る。といっても、本人に死ぬつもりはないらしい。実際足がしっかり下についているので死に至る可能性は低いのかもしれないが、それでも危険だと思うので、見かけたら中断させることにしている。実際訪ねてみたら意識が飛んでたなんてこともあったので、ただの趣味として放置しておくには危険すぎると思う。

 清海くんは放っておくとろくに食事もしない。ぼくは清海くんの父親、つまりぼくの伯父に経費とバイト代を出してもらって、このアパートに三日おきに通っているのだ。

 ベーコンと短冊切りのジャガイモに調味料をかけたものが、部屋の隅の電子レンジの中でゆっくりと回っている。ヴーーーンという稼働音を聞きながら、ぼくは鶏肉を一口大に切る。炬燵の向こうで、ようやく清海くんがむくっと起き上がってこちらを振り返る。

「唐揚げ?」

 と期待を込めて聞くので、ぼくは「唐揚げ」と返す。清海くんは嬉しそうに、そしてきまり悪げに笑う。ぼくに首吊りを見られたとき、彼はいつもこんな顔をする。


 清海くんちの古いコンロでなるべく効率よく揚げ物をするため、ぼくは小さめの天ぷら鍋をわざわざ購入した。油を切った唐揚げを刻みキャベツの上に盛り付け、ようやくコンロが空いたので、作っておいた味噌汁を温め直す。レンジで火を通した野菜は顆粒だしとマヨネーズで適当に味をつけ、刻んで塩でもんだだけの白菜も添えて、一応一汁三菜ができあがる。炊飯器の中には、すでに炊き上がった白米が待機している。

 清海くんは粛々とロープを片付け、炬燵の天板を拭いて大人しく待っている。百円均一で揃えた食器を炬燵に並べて、時計を見るとちょうど七時。夕食どきだ。

「いただきます」

 ぼくが手を合わせると、それを待っていたように清海くんも「いただきます」と言って軽く頭を下げる。

 ぼくたちは食事を始める。冷蔵庫の中には作り置きのおかずがぎっちり詰まっている。清海くんは痩せているし、放置しておくとなかなか食事をとらないけれど、一旦食べ始めるとばかみたいに食べるのだ。高校生のぼくよりも早いペースで食事を平らげていくのを見ていると、ぼくは不思議とあたたかい満足感を覚える。もしバイト代が出なかったとしても、ぼくは清海くんに料理を作りに来るんじゃないかなという気が、こんな時だけはしなくもない。


 なんで清海くんは首を吊るの? なんて質問はもう、今更しないと決めている。答えられてもよくわからないからだ。

 以前、一回だけ尋ねたことがある。その頃ぼくはこのバイトを始めたばかりで、例の首吊りにも初々しく驚いてしまった。慌てて清海くんの体を抱きとめようとしたら間違って下に引っ張ってしまい、後で「死ぬかと思った」と文句を言われたがそれはこっちの台詞だ。あのときは生きた心地がしなかった。

「別に死にたいわけじゃないよ。ただ、ああ生きてるなって実感できるから」

 清海くんはものすごく恥ずかしそうに白状した。首を吊って適当に苦しい思いをすると、その後で吸う空気がうまいのだそうだ。頭がジンジンして、首の太い血管がドクドクと脈打って、心臓の音が聞こえて、ああ生きてるなと感じる。それがいいのだそうだ。

「なんだそれ。やめた方がよくない? マジで」

 ぼくがそう言うと、清海くんは頭を掻きながら「うーん……」と唸った。ぼくより十歳上なのに、やけに子供っぽい表情をしていた。

「いくら足ついてるっていってもさ、弾みでほんとに吊っちゃうかもしれないでしょ。ドアノブでだって自殺できるんだから」

「うーん」

 清海くんは散々うんうん唸り、ぼくはその間餃子のタネをひたすら皮に包んでいた。こういう作業は無心になれていい。きれいな餃子を作ることに熱中していると、清海くんの奇行にイライラするのを忘れてしまう。

 清海くんがいつまでも唸っているだけなので、ぼくは半ば返答を諦めて、手元の餃子に集中しようとした。そのとき突然清海くんが「なんていうか、自分の命そのものに触ってるって感じがするんだよね」と呟いた。

「なにそれ」

「いや、命って触れないじゃん」

「首吊ると触れるわけ?」

「いや、うん、そんな感じ。全然うまく言えないんだけど、つまり生きてる実感がほしいというか」

「清海くん、話がループしてるよ」

 呆れる。これが本当に高偏差値の大学を出た大人の言うことなのだろうか。

 ぼくに突っ込まれた清海くんは、もうなにもしゃべらない。無精ひげの生えた顎を手持無沙汰な感じで撫でている。自分の従兄だから手前味噌というのかもしれないけれど、顔だけ見ればかっこいいんだよなぁ、と思う。ただ伸ばしているだけの長髪が結構はまって見えるくらいだから、地が相当いいのだろう。よれよれの服を着替えて、ぺったんこになったスニーカーも取り替えて、美容院に行って見た目を整えたらさぞかしモテるだろうし、そのための時間もお金もあるはずなのだけど、清海くんは一向にそういうことをしない。清海くんが黙っているので、ぼくも黙って餃子を包む。以来、首吊りのことについては何も聞いていない。

 こうして四日に一回、温かい食事をとったり、作り置きのおかずのタッパーを入れ替えたりしながら、ぼくたちのさもない日々は過ぎていった。


 ある日、総合病院の横のだらだらと長い坂を上り、左手に折れたところにある小さなスーパーの前で、ぼくはアクセルとブレーキを間違えて突っ込んできた自動車に撥ねられた。

 いつもはただ通り過ぎるだけの病院に担ぎ込まれながら、どこも痛くないのに皆が大騒ぎしてるのは何でだろう、などと考えているうちにふっと何もわからなくなって、気がついたらぼくは「ひよりみ荘」の201号室の前に立っていた。チャイムを何度押しても音がしないし手ごたえがないので、ドアをノックしようとすると、右手がスッとドアを通り抜けた。そのままぼくはまるで手品みたいに、清海くんの部屋の中に入り込んでしまった。

 例によってロープのぶら下がった照明は、あらためて見るとちょっと斜めに傾いでいて、日頃の酷使の痕が伺える。清海くんは炬燵の上に伏して、眠っているのか起きているのかわからないけれど、とにかくじっとしている。清海くーんと呼びかけても返事はない。

 ぼくの脳裏に突然、車に撥ねられた瞬間の映像が蘇る。手に持ったエコバッグから食材が飛び散る光景、それをスローモーションで見ていたことを鮮明に思い出す。

 近づいてもう一度「清海くん」と呼びかけても、反応はなかった。清海くんは長い髪を後ろできちんとまとめ、黒いスーツを着て黒いネクタイを締めている。ひげもきちんと剃っている。やっぱりちゃんとした格好するとかっこいいじゃん、どうして普段からやらないんだよ、と声をかけたいけれど、ぼくの口から出た声は全部空気の中に溶けてしまう。このときぼくは初めて、自分が死んでしまったことに気づいたのだった。

 悲しい出来事のはずなのに、いざこうなってしまうとまるで他人事のようだ。これが死んでしまうってことなのかもしれない。ぼくが死んでから何日経っているのだろう。その間清海くんの食事はどうなっていたんだろう。ぼくはふと心配になる。

 日が暮れていく。部屋が真っ暗になっても清海くんは伏したままで動かない。ご飯食べなよ、とかけた声もやっぱり空気に溶けてしまう。

 こうやって化けて出るほど、ぼくは彼のことが気がかりだったんだろうか。他に何かもっと大事なことがあったはずなんだけどな……と思い出そうとしても、うまくいかない。生前の記憶というものが霞がかったように不確かで、ピンとこない。ただぼくは、清海くんの食事が気がかりで仕方なかった。

 清海くんは結局スーツのまま炬燵で寝てしまい、夜が明けて、朝が来た。清海くんのお腹からギュウーっという音が聞こえて、ようやく彼は瞼を開き、ずるずると炬燵を抜け出す。冷蔵庫を開けると、ぼくが作った作り置きのおかずが一パック残っている。えのきだけをレンチンして作ったなめたけで、たぶんそろそろ賞味期限が近いやつだ。それ、ご飯にのせるなりしてさっさと消費してくれよと言いたいけれど、ぼくにはそれを伝える声がない。

 清海くんはまるで雛鳥でも拾ったみたいに小サイズのタッパーをそーっと手にとり、冷蔵庫から取り出す。それをまじまじと眺めて、開けもせずにまた冷蔵庫に戻す。閉めた扉に手をかけたまま、清海くんは泣き始める。ごめん、ごめんと言いながら子供みたいにわんわん泣く。謝ることなんか何もないのに、ぼくの名前を何度も呼んでごめんを繰り返す。

 ぼくは清海くんのことを恨んでなんかいない。ぼくがここに通っていたことと、あの日事故に遭ったことに関連性があったとしても、それは清海くんのせいではない。それよりも食事をとってほしい。とにかくそのなめたけは早く食べなきゃ駄目だ。というか、今日が何日かによっては食べずに捨てた方がいい。でも清海くんは食べないし、捨てもしなかった。

 結局清海くんは、そのタッパーをずっと冷蔵庫で保管している。ぼくの四十九日が終わってもタッパーはそのままで、今はもう誰も食材やおかずを補充せず、ほとんど空っぽになった冷蔵庫の隅に仕舞われている。ぼくはあれ以来ずっと清海くんの部屋にいるのだが、例のタッパーを見ると、ぼく自身が冷蔵庫の中に保管されているような気分になる。

 最近、清海くんは首を吊らない。吊らずに命のことを考えているらしい。たぶん、あっけなく消えてしまったぼくの命のことを。一方で幽霊のぼくはといえば、日に日に存在が希薄になって、自分が透明になっていくのを感じる。そのうち完全に消えてしまうのだということが、理屈ではなくわかる。

 ぼくがいなくなってしまう前に、誰かがこの部屋にやってきて、おとぎ話の王子様みたいに清海くんを連れ出してほしい。その場合、無精ひげの清海くんがお姫様ということになってしまうのだけど、そんなことを気にしない誰かがどこかにいないかなと、ぼくは祈っている。そして少しずつ消えていく。

 毎日同じカップ麺ばかり食べるようになってしまった清海くんを見ると、ああ、もう一度ご飯を作りたいな、と思う。それはたぶん、今は存在しない場所にもう一度行きたいな、と願うのと同じ気持ちなのだろう。

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