第17話




 二月に入っても、私と春子は相変わらず同居関係を続けていた。

 珍しく東京にも雪の降る日だった。学校前の坂道に、雪を溶かすための湯を撒く当番として、私は通常より一時間以上早く出勤しなければならない。そんな日でも、春子は嫌な顔ひとつ見せずにお弁当を持たせてくれる。


「ここ最近は、あまり仕事が遅くならないのね」

「うん、問題になってたことが一段落したから。今日の早朝出勤も、ただの雪かきだし」

「気をつけて。……はい、お弁当」

「ありがとう」


 ふと思った。――智輝と一緒に住み始めたら、二度とこのお弁当を食べることはできない。智輝は優しいから、頼めば作ってくれるような気もしなくはないし、実家がレトロな洋食屋だから、春子に負けず劣らず料理はうまい気もするけれど、当然ながら弁護士としてフルタイムで働く予定の彼にそんな負担は負わせられない。

 どんなに名残惜しかろうと彼を永遠に待たせるわけにはいかない。ついでに言えば、そもそも私の意思でどうにかなるものでもない。


「ねえ、春子ってやっぱり、料理上手だよね。いつも美味しいよ、ありがとう」

「ええ? そんなこと言っても、ご飯の量は増やさないよ! まったく、美雨ったら食い意地がすごいんだから」


 ナチュラルに米をおかわりしようとする私を春子はいつも全力で阻止する。実は最近、牧野先生に痩せたかと問われた。おそらく仕事のストレスを心配されているのだと思うけれど、心配ご無用。単純に春子にカロリーに関する権利を握られており、ジムにも通い続けているというだけの話だ。自分でも最近、少しずつ身体が軽くなっている気がする。

 春子は厳しい。自分にも他人にも厳しい。しかし、春子と一緒に居ると可愛くなれるし、色々と成長できるのも事実なのだ。


* * *


 高校一年生の頃に訪れた豊桜男子部の文化祭で、私と春子は智輝とイケメンくんに再会する。少し気後れし、言葉数が少なくなっていた私とは裏腹に、春子はイケメンくんとの会話を楽しんでいた。はじめこそどこを回ろうとか、何を見たいだとか、そういったその場限りの楽しい話にとどまっていたものの、徐々に話題は尽きてくる。

 そんな中、将来の話を始めたのは、春子だった。休憩室で、屋台で購入した焼きそばを食べている最中だった。


「大学受験のための塾とか通ってるの? 私、高二になったら通い始めようと思ってるんだけど」


 それまで、受験について考えたことがなかった。わが校の生徒は、その半数程度が外部の大学を受験するが、もう半分は系列の大学に進学する。その頃、なにかを一生懸命行うという概念を持たなかった私は、当然、できる限り楽な道を選ぶつもりでいたのだ。


「やだ、春子。こんなに楽しいときに、受験の話なんてする? 私らまだ高一よ」


 「一生懸命」とか、「全力」みたいな言葉を恥ずかしいものだと捉えていた当時、私はそんな野暮な返しをした記憶がある。


「だって、美雨はたいして勉強しなくても、いつも成績上位じゃん。私は、――」

「俺は、中学生の頃から通ってるよ」

「そうなの? もしよければ、なんてところか教えてよ」

「いいよ。でも、途中入塾テストがめちゃくちゃムズいっていう話を聞いたことがあるけどそれでもいいなら」


 私のしょうもない煽りなんて無視して、二人は塾や予備校の話題で盛り上がっていた。そのときの妙な空気感は、今でも覚えている。自分が突然、くだらない女だと突きつけられたような、お前は物語の脇役だと見せつけられたかのような、そういう空気。努力をする子をバカにすることしかできない、惨めな存在。それが私。


「大丈夫だよ」


 こそり、と智輝が私にささやいた。


「僕もまだ、塾通ってない。それで成績に問題がないならそれでいいし、大学だってどんなレベルのところを狙うかは本人の自由なんだから」


 この子は私のことを、お嬢様育ちのただのバカだと思っているのだ、となんとなく察した。

 その日、私は豊桜学園の文化祭から帰るなり、勉強をした。二学期の中間テストが近いというのもあったけれど、それ以上に、全員を見返してやるという気持ちが強かった。塾だのなんだの、勝手にみんなでほざいていればいい。私は私で、自分にできることを淡々とやるだけだ。私は、物語の脇役にしかなれない人種だった、そのことは春子に出会うよりもずっと前から気づいていた。――しかし、同じ脇役なら、とんだ厄介なヒール役にでもなってやろうか。可愛くて健気に努力する主人公を、圧倒的な性格の悪さと圧倒的な実力でねじ伏せる、そういうタイプの悪役だ。


 こうした変なきっかけで私の成績はみるみるうちに上昇し、当初はせいぜい上位三割程度だった成績が、高一の三学期の期末テストでは、五位にまで到達した。楽しいはずの文化祭で味わった負の感情は、奇しくもその後の人生に役立っているといえる。そして、そのような惨めな嫉妬心は、春子のような正真正銘の「ヒロイン」に出会うことがなければ抱くことのなかったものである。


* * *





 昼休み、ふと斜め前の席に目をやると、三島先生が昼御飯も食べずに頭を抱えていた。


「三島先生、早く食べないと昼休みなくなるよ」

「ああ、原田先生……」

「何か買ってきてる?」

「いえ、まだです」

「もう……私、近くのコンビニで買ってくるよ?」


 そう言って、私はその場を立ち去ろうとした。そして、振り返る。


「……もしかして、クラス替え?」

「そうです、もう、制約条件が多すぎて……」


 わが校では代々、新人が全学年のクラス替えを担当させられる。この委員の人は各クラスにバラけさせる、とか、この人とこの人は親御さんから別クラスにするよう要請があったから……というような細かい決まりがあって、それを頭の中で整理するのは結構難しい。

 でも、大丈夫。


「竹下先生が一年目の頃に作ったマクロがあるの、知らされてない?」

「マクロ? 知らないです。不勉強で申し訳ないです」

「いや、そんなもん『あるよ』って言われなきゃ誰も気づかんし。……『新学期関連』っていうフォルダ見てみて」


 誰だよ、三島先生にクラス替えの仕事を頼んだの。マクロの存在くらい、教えてやれよ。


「んで、こことここに、同じクラスにしちゃいけないメンツを入れて、この欄に委員の子の名前を入れて、このボタンを押すといい感じに五クラスに分かれるって訳」

「へえ! こりゃ便利ですね、ありがとうございます」

「いえ、作ったのは竹下先生だから……当時、『楽しようとするな』ってめちゃくちゃ怒られたらしいんだけど、楽できてるのは私以降の新人であって、竹下先生はむしろ面倒だっただろうなって」


 そっか、三島先生に楽をさせたくなくて、マクロの存在を教えてあげなかったのかな。


「原田先生……あの、ごめんなさい」

「え?」

「ここのところ、ちょっと原田先生と話しづらくて……正直少し、避けてしまっていて」

「えー?」


 やはり私、避けられていたか。


「冷静に考えてみれば、原田先生には何も非がないんですもん。……本当にすみませんでした」

「……いえ」


 私には非がないのに、避けられる。私以外の誰かのせいで、私のことを避けざるを得ない。どのパターンだろう、江本先生辺りの先輩教師の指示だろうか。それにしては牧野先生や竹下先生等の他の若手教職員はフレンドリー過ぎるし、三島先生だっていじめ問題発覚当初はむしろ私の行動に堂々と賛成してくれていた。むしろ逆に、若手の先生からの影響? ……いや、それもなんだかおかしい。

 そうすると、残る影響はジムでうっかり遭遇した際に一緒に居た春子くらいなのだが。――あり得ないとは思うが、仮にあの短時間で春子と三島先生が連絡先を交換していたとしたら。春子が三島先生を狙っていたとして、彼の近くに居る私を徹底的に排除したいと思ったら、私の悪口を言うくらいのことはするかもしれない。そういう想像をしたら、妙にその様子が明確に浮かんできて、ちょっとだけ嫌な気持ちになる。


 春子はそのくらいのことはするような女の子だ。はっきりと、そう言える。



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