第16話



 冬休み明けの土曜日、私の両親と智輝、そして私は、我が家で共に食事をしていた。母の作る料理はどれも美味しいはずなのに、イマイチそう感じられない。このときばかりは「実家のような安心感」という言葉に、とても共感できない状況だった。私ですら居心地が悪く感じているのだから、智輝はかなり緊張していたはずだ。

 事前に、智輝とは色々と打ち合わせをしていた。親からの想定問答集を作り、予め共有する。出会いについて訊かれたらなんと答えるか。入籍はいつ頃か、住まいはどこにする予定か。智輝はバカ正直なところがあるので、ナンパという言葉だけは間違っても使うな、と釘を刺しておいた。高校の頃から交流が有ったことも秘密にしてもらおうとしたが、嘘をつくのはよくないと断られてしまった。まあ、過ぎたことだし良いかと開き直る。


 私の緊張に反し、両親と智輝の対面は、和やかなムードで進められた。今も現役で大企業の法務部でバリバリ働く父親とは、仕事の話で盛り上がれば良いとインフォームしておいたのが功を奏したのだろうか。

 そもそも、あれやこれやと心配すること自体が間違いだったのかもしれない。智輝の、一体何に文句をつけることができるというのか。司法修習生とはいえ、すでに大手の弁護士事務所から声がかかっている彼との結婚を許さないのであれば、それはもう誰であってもダメ、という意味になる。


「智輝くんみたいな人を採用する事務所は将来安泰だね」


 案の定、智輝がお手洗いに行った隙に父は顔を綻ばせた。大丈夫か、今選んでいるのは新入社員ではなく、娘の結婚相手だぞ。母も、智輝くんは賢いのに穏やかで、こんなにいい子なかなか居ないわぁ、と喜んでいた。

 やはり、両親は私の幸せを願ってくれている。学生時代にほんのり感じたことのある杞憂が、杞憂でしかなかったことに、私は心の底から安心したのだ。


* * *


 高校一年生の秋、私たちの文化祭が終わって一週間後、私と春子は智輝とイケメンくんに誘われて豊桜学園男子部の文化祭に行くこととなった。当時、同級生と外に遊びに行くことが少なかった私は、春子という新しい友人と週末に出掛けられることが純粋に嬉しかったのをとてもよく覚えている。


「いい? 遊びに行くだけじゃないんだからね。ちゃんとお洒落して行かなきゃ」

「お洒落って制服じゃだめなの」

「何言ってるの、うちらの学校の制服じゃダサすぎるでしょ? なんちゃって制服でもいいけど、ないなら美雨が持ってる一番可愛い服で来てよね」


 当時の春子はかなり恋愛に対して積極的で、イケメンくんを落としたかったのか、それとも単に出会いの機会を逃したくなかったのか分からないけれど、とにかく二人でお洒落をすることにこだわっていた。――かくして私の誕生日プレゼントに、春子は例のコーラルピンクのチークを買ってくれたし、高校生向けのファッション雑誌に載っていたヘアアレンジの記事の切り抜きも共有してくれたのだ。

 さて、私は春子からのプレゼントを大切にしまっていた。当時、両親から派手な格好や短いスカート、メイクやヘアアレンジを禁止されていた私は、机の上に無防備に置いておくなんてことはせずに、鞄の中のペンケースに隠し持っていた。しかし、案外それはあっさりと発見されてしまう。


 外に遊びに行く際に、私は必ず、親に行き先と同行者の名前を告げるよう言われていた。


「今週末、春子と一緒に他校の文化祭に行く約束をした」

「他校って?」

「男子部。豊桜の」


 当時の私にとって、男子校の文化祭に遊びに行くことは、それ以上もそれ以下の意味も持たなかった。行き先は、男子校。私は春子と遊ぶ。本当に、ただそれだけ。しかし当然ながら、親はそのように好意的な解釈はしてくれなかったのだ。


「え? 男子部の文化祭?」


 あからさまに嫌な顔をした母は、良いとも悪いとも言わずに、私の前から姿を消し、父の居る書斎へと向かった。しばらく父と話した後、再びリビングに戻ってくると、母はこう言ったのだ。


「高校生で色気付くなんて」


 あまりにデリケートだと笑われるかもしれないが、私はその言葉に衝撃を受けた。春子と遊びに行くという、ただそれだけのことが、汚らわしいものであるかのように言われる理由が分からなかった。


「……ごめん、とにかく春子と約束しちゃったから」

「まあ、別に文化祭くらい良いけれど……彼氏を作ろうなんて考えちゃダメだからね」

「考えないよ。春子しか、知り合い居ないし」


 なるべく普通に、なんの感情も出さないように応対しながら、私はとても気持ち悪く感じていた。自分はただ、春子と遊んでみたかっただけなのに、そこに性的な意味を見出だされるのが単純に不快だったのだ。


 春子と遊びに行く旨、無理やり許可を得た翌日のことだった。学校から帰宅して、しばらくのんびりした後、そろそろ宿題でもしようかと自室に向かった私の前に、鬼のような形相で母が立ちはだかったのだ。


「これ、どういうこと」


 彼女が手に持っていたのは、春子からもらったチーク。私のペンケースを漁ったのか、と一瞬激昂しそうになったが、そもそも誰がそのペンケースを私のものだと決めたのだろう、と思い直す。当時高校生で、アルバイトも禁止されていた私は、持ち物を親のお金で買って貰っていたから。


「……ごめん、春子からもらったの」

「化粧はダメって、普段から言っているでしょう」

「でも、貰ってしまったものはどうしようもないでしょ? 学校では使っていないし、返すわけにもいかない」


 ただ、禁忌を犯したことを咎められるいわれはない、と思った。それはただの勘違いであり、濡れ衣だ。


「そんな様子じゃあ、今度の文化祭に行かせることはできない」

「でも、約束しちゃったんだって。……春子になんて言えばいいの? 『男子校の文化祭に行くなんて破廉恥だから、お母さんに禁止された』とでも言う?」

「そんなの、用事ができたって言えば良いでしょ」

「友人との約束以上の用事って葬式以外にある? ……私、言うから。このまま行かせてくれないようなら、春子にこのやり取りそのまま報告する。そうじゃないと、まるで私が平気でダブルブッキングするような失礼な人みたいじゃない」


 私はあまり、親に言い返したりはしない。大人になって振り返ってみても、ここまではっきりと反抗の意思を表明したのは、前にも後にもこのときだけだった。


「……もういい、勝手にしなさい。その代わり、文化祭が終わるまでこのチークは返さないから。彼氏なんて作ろうもんなら、学校もやめさせるからね。一生、家で勉強だけしていたらいい」


 好きにすればいい、と思った。本当は、春子にもらったそのチークでお洒落をして、春子と一緒に見知らぬ街を歩くことが楽しみだったけれど、背に腹は代えられない。彼氏を作る気なんてさらさら無かったから、学校をやめさせられる心配はしていなかった。




 春子と出掛ける日の朝、着ていこうと思ったワンピースは洗濯機の中だった。前回洗濯して以来、一度も着ていないのに、だ。その日着ていく予定の服をいつもかけている場所に置いていたにもかかわらず、そのようなことになったのは、おそらく母の意向だと思う。私が当時持っていた数少ないスカートは全部同様に洗濯されていたし、少しよれ始めたTシャツと、デニムのズボンしか残されていなかったから、私はやむなくそれを着ていった。やる気はあるのか、と春子に問われたのは言うまでもない。


* * *


 両親共に、どちらかというと私には甘かった。私立の中高に通わせてもらったのもそう、習い事だって、自分がやりたいと言えば、ほとんど二つ返事でOKしてもらっていた。それなのに、こういったことに関してだけは非常に厳格だったのは、娘がお洒落に興味をもって、大人に近づくことが寂しかったのかもしれない。扶養されている分際で、お洒落だの恋だのに現を抜かす娘の姿がバカみたいに見えて気持ちが悪かったのかもしれないし、恋愛は勉学の邪魔になると本気で思っていたのかもしれない。はたまた、中学を共学ですごし、派手な性格をした春子という新しい友人を、ヤンキーか何かと勘違いしていたのかもしれない。大学生になった瞬間、私がお洒落をすることに対する両親の拒否感はだいぶん弱まった(初めて髪を染めたときは怒られた)し、就職が決まると恋愛も解禁になった。しかし、いまだにあの日のことを思い出すと、心がきゅっとなる。親の行動を好意的にとることはいくらでもできたけれど、母に投げ掛けられた言葉に対する拒絶反応は大きかった。その日以来私は、この家にずっといたら一生結婚できない、と思っていた。社会人になった瞬間、一人暮らしを決意したのは、そのせいもある。


「智輝くんと一緒に、幸せになってね」


 母の言葉を聴いて、十年越しの安心感を得たのは、そういうことだった。


 翌週の土日は智輝の家にお邪魔した。彼のご両親はとてもフランクな人で、智輝自身も「こっちは放任主義だから。今日入籍するって言っても怒らないと思うよ」なんて冗談を言っていた。

 将来義実家となり得る場所でくつろげるわけもないと私はさんざん準備して乗り込んだものの、実際、智輝の両親による夫婦漫才のようなエピソードトークを聴かされた挙げ句、美味しい食事でめちゃくちゃにもてなされて、「そういうわけで智輝をよろしく!」みたいな勢いで帰されて終わり。正直、緊張する間もなかった。智輝には「親は、美雨さんは穏やかで優しそうな子だねって言ってたよ」なんて言われたけれど、そんなジャッジをする間もなくしゃべりまくってただろ、と思って笑ってしまった。少し安心した。智輝のような勤勉な息子を持つ親は、往々にして几帳面で、子離れできていないパターンが多いと聞いていただけに、かなり警戒していたけれど、杞憂だったようだ。





 思い返すに、この頃の私は人生で一番幸せで、そういうときは往々にして、一瞬だけ不安になる。しかしその後は不安など忘れ、今ある幸せを当然のものと思うようになるのだ。

 春子はというと、土日に頻繁に家を空けるようになった私のことを詮索するような真似はしなかった。帰宅すると、一生懸命パソコンを叩いていることが増えており、もしかすると転職活動が本格化しているのかもしれないな、なんて思っている。幸せの絶頂にいる自分と、人生のどん底から這い上がろうとしている春子が同じ部屋で過ごしていることに、最近ではあまり罪悪感を覚えないようになっていた。


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