第12話

「お帰りなさーい!」


 ひと悶着の後は、牧野先生がテンション高めに出迎えてくれた。


「どうでした? 本田さんのお母様。……あれ、原田先生、めちゃくちゃ顔色が悪いですね」


 牧野先生に指摘されて、びっくりしてしまった。別にあんな騒動、なんてことはないと思っていたはずなのに。疲れが顔に出ていたか。


「そんなことないよ。……ただ、強烈な人だったなって。やっぱりいじめをするような子の親は、それなりにくせ者だな」

「原田先生、それは偏見ですよ」


 教頭のお叱りの言葉に、私はふんと鼻をならした。

 教職員用の化粧室で、リップを引き直す。セミマットの桜ベージュのリップを軽く拭き落とし、上からこの間購入したローズピンクのキラキラで染め上げる。やはり、いつ見ても綺麗な色だ。このピンクをもっと深い色にしたら、春子に似合うだろう。そう思うと、なんだか無敵だった頃の春子の力を借りているような気分になる。

 職員室に戻ったら、牧野先生に爆笑された。


「顔色が悪いって、そういう意味ではなかったです。……ふふっ、ごめんなさい」


 そ、そうか。





 帰宅すると、春子はいなかった。その日は午前中に転職のための面接を受けに行き、午後はいつもの本屋でバイトだと聞いていた。私だって午後八時頃までは中三の対応をし、その後二時間ほどは普段の担任業務や、授業の準備をしていたのだ。こうしてそれなりに遅い時間に帰宅したというのに、いったい春子は何をやっているんだ。大丈夫か。

 バイト初日に直属の先輩の愚痴を聞かされた後も、彼女のバイト先への不満は絶えなかった。とにかく頭の固い店長。プライベートに踏み込もうとする先輩に、長い労働時間。春子の話を聴いていると、なんだかとんでもなくブラックな職場に勤めているような気がする。――一方で、彼女の話を一方的に信じてはいけないということも知っている。大学生時代、私と春子は一緒に学習塾で短期のアルバイトをしたことがある。夏期講習の人員が足りないからと、ちょっとした紹介を受けて講師を勤めたのだ。私は数学、春子は英語担当で、教科は違えどもお互いに臨時講師。責任も業務量もほぼ一緒だったと思う。そのときも春子はずっと、給料や人間関係、そして業務時間の長さに不満を漏らしていた。一方で私は、夏季限定という責任の軽さと、短期間でそれなりの給料が手に入ることから、そんなに悪いバイトではないと感じていた。

 なんというか、悪い言い方をすれば、どんなことにでも文句をつけたがる人間っている。春子は結構、その傾向がある。しかし、今日は明らかに遅い。春子の捉え方の問題でもないようだ。


「ただいま、遅くなった」

「お帰り、忙し――」

「今日はバイト先の飲み会だったー」


 春子は私の言葉に被せて、話し続ける。


「○○駅から歩いて十分くらいだから、ちょっと遠いけれど、すごく良い店があるの。海鮮が美味しい居酒屋さんなんだけど、すごく立派な御造りがかなり安かった。なんか、毎月十八日は海鮮メニューが全部三十パーセントオフらしいから、来月、一緒に行こうよ」

「へえ。いいね」


 私は曖昧に微笑んだ。そう、結局春子の不満や愚痴なんて、あまりあてにはならない。だって、あんなに悪口ばかり言っていたバイト先の仲間と飲み会に行って、しかもとても楽しそうに帰ってきた。彼女の愚痴にはそこまで大きな意味はなくて、おそらくガス抜きみたいなものだろうと思っている。本当は好きになりたいものを、嫌いになってしまわないためのガス抜き。

 しかし、だ。仮に春子の自殺未遂の原因が前職だとして、彼女がそこまでストレスを溜め込むことがあり得るのだろうか。その一点だけが、いまだに疑問である。彼女の性格的に、不満があったら間違いなく友人や家族に相談する。一人でひっそりと死を選ぶというのが、私の知っている春子の姿とはかけ離れているのだ。

 春子はまだ話し続けている。彼女は、それなりにお酒を飲むから少々機嫌がよくなっているのかもしれない。四十を越えるが、まだ独身でいる店長の恋愛遍歴を聴かされながら、普段さんざん悪口を言っておいて、よくそんなに楽しそうにその人のことを話せるな、なんて思ってしまった。


「……楽しそうでなにより」

「そうだ、美雨。夜ご飯食べた?」

「うん、簡単にすませた」


 嘘をついた。なんだかどす黒い気持ちに飲まれてしまって、珍しく食欲が出なかったのだ。


「そう、よかった」


 他人と暮らすのは、楽しい。しかし同時に、とてもしんどい。






 土曜日は本来休みのはずだったが、例の中学三年生の保護者面談が続いているので、午後から登校した。授業自体は午前中に終わるので、校内は静かで、下手な金管楽器の音だけが響いていた。


「原田先生。――今日の面談は、同席しないでください」

「ああ。江本先生から詳しく聞かれたんですね」


 教頭の指示に、妙に納得する。


「ええ。報告してくれた生徒を守ったおつもりでしょうけど……学校側には、働く先生自身を守る義務もあるので」

「はあ、それはどうも」


 正直、どうして余計なことを言うのかと怒られるのではないかとヒヤヒヤしていた。


「えっと、じゃあ私は一体何のために学校に」

「保護者からの電話は続いているので……」


 そういう話をしている間にも、電話が鳴る。三島先生が、素早く受話器を取り上げた。


「電話応対で困ることがあったら、私や江本先生に投げていいから」


 教頭が言いたいことは分かる。悪気がないのも分かるし、状況が特殊だということも理解はしている。――しかし、新人に対してかけるような言葉をいただいてしまったことが、ちょっぴり寂しかった。あのとき本田母に、私がいじめを発見したと白状したのは間違いだったのだろうか。いまだに正解が分からない。自分自身を守ることも社会人のたしなみなのだとしたら、おそらく私の行動は間違っていた。一時の気まずさに流されて軽率な行動を取ってしまった。私が一番嫌いな、感情論で仕事をする人間のすることだな、と一人反省する。


「原田先生、中二C組の保護者の田中さんからお電話です」

「田中さん? 分かった、ありがと」


 自分自身のクラスの生徒の保護者から、欠席連絡以外の電話がかかってくることは珍しい。私は自席に戻り、受話器を上げた。


「お電話代わりました、原田です」

「あ、原田先生、お忙しい中失礼します。田中七海の母です」

「ご無沙汰しております」

「すみません、お仕事中に……。いえ、全然大した用ではなくて、さっさと終わらせますけど。あの、私中三にも娘がいまして、田中桃乃っていうんですけど」

「ああ、A組の田中桃乃さん。姉妹でいらっしゃるというのは伺っておりました」

「あ、ご存じでした? 桃乃の方から伺ったことなんですけど、……中三のいじめの件? 発見してくださったのって、原田先生なんですってね」


 どきりとした。自クラスの保護者から、その件について問い合わせが来る日のことは、頭の中で何度もシミュレーションしていたものの、本当にそういうことがあるとは。


「……本当にありがとうございます、お陰でクラスの雰囲気が良くなったって、うちの子が申しております」


 田中桃乃さんは比較的おとなしい少女で、どちらかというと、いじめっ子に怯える側の生徒。藤井にいやがらせをしていた生徒たちが学校に来なくなって、気が楽になったのかもしれない。


「そんなに一生懸命、生徒のことを観察してくださるような先生が下の娘の担任だなんて、本当に心強いです」

「そんな、とんでもない」


 何を言われるのかとひやひやしていたものの、どうやら私を攻撃する意図はなかったと見て、ほっとする。それからしばらくの間、私を称賛するような文句を聞かされた後、和やかに電話を切った。


「原田先生、よかったじゃないですか。なんか、誉められていませんでした?」


 三島先生がにこにこ顔で訊いてくる。


「まあねえ。……いるのよ、そういう保護者の方。自分の娘がなにかしら恩恵にあずかれるといいなって、教師にお世辞するの」

「そんな、素直に受けとればいいのに」

「社会人になって、仕事上の関係で近づいてくる人なんてそんなもんでしょう。いちいちまともに一喜一憂してたら、心が忙しくて仕方がない」

「……それって、俺らにも言えます?」


 座っていた三島先生が、ちょっぴり上目遣いで私のことを見る。


「え?」

「だから、若手会メンバーのこと。全員、仕事で出会ったじゃないですか。おべっかしてんな、なんて思ってます?」


 そうだ、と思うことができたら、ある意味気が楽なのかもしれない。


「……正直、プライベートで会ったとしても、あくまで仕事仲間だという意識は忘れないようにしてるよ。まあ、そういうことも話せてしまうくらいには信頼している仕事仲間、だけどね」


 春子や智輝には、仕事の話はできない。しかし、三島先生や牧野先生、竹下先生には仕事の話ができるし、相談だってできる。教師としての顔。恋人としての顔。大人の女性としての顔。私は毎日、いろんな顔を使い分けて生きている。それぞれの自分にとって、それぞれの人間関係はなくてはならないもの。だからやはり、若手会のメンバーたちは、間違いなく私にとって大切なものだし、彼らに見られても恥ずかしくない仕事をしなければ、と思っている。


「それは嬉しいです。でも、原田先生。万が一、プライベートのことで誰にも相談できないってことがあったら、僕たちを頼ってくださって大丈夫なんで。……いろんなこと、割り切りすぎなくてもいいと思います」


 言葉を選ぶ三島先生の様子を見て、ピンと来たことがある。――彼は、春子に何かしらの感情を抱いている。恋心とか好意とか、そういう甘いものじゃない。警戒心? いずれにしても、ここで彼が私のプライベートを気にするのは非常に不自然で、思い当たる原因がそこにしかないのだった。




登場人物紹介ページを追記しました↓

https://kakuyomu.jp/works/16816700429409739740/episodes/16816700429416437796

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