第10話


 トレーニングルームには、ランニングマシーンに、ウェイトリフティング、それに見たこともないような筋トレマシーンがズラリと並んでいた。


「いやあ、これで私も自分磨きキラキラOLの仲間入り」


 そう言ってにやにやする私を横目に、春子はさっさとランニングマシーンに向かう。私もおとなしく、彼女の後に続いた。

 このジムは、決して女性率は高いわけではなく――むしろ、大学生くらいと見られる若い男性が多く、なんだか場違いな雰囲気。筋骨隆々なマッチョたちの間に、「ちょっと運動してみたくて」というノリの私なんかが乱入してよろしいのかしら。何せ、このような場所に来るのが初めてなのだから、マシーンの使い方もままならない。説明書きを読めばまあ、理解はできるのだけれど、例えばランニングマシーンのスピードをどれくらいに合わせればいいのかとか、ウェイトをどれくらいの重さに設定すればいいのか、といったことがまるで見当がつかないのだ。横をちらっと見ると、春子はすでに走り始めていた。ワークアウトモードB、時速九キロメートル。私も春子と同じ値に設定し、走り始める。十分もしないうちに、なんだか長距離走特有の血の味がしてきたので、一時停止ボタンを押してしまった。


 ランニングは飽きたので、筋トレでもするか。ウェイトリフティングコーナーに行こうとしたら、周囲があまりにもマッチョすぎて、ちょっと遠慮する。気を取り直して、背筋を鍛える器械に座り、説明書通りに器具を動かす。初めて触れる筋トレ道具に、結構興奮している。

 そんなこんなで、何個かの器具を渡り歩いているうちに、ようやくランニングを終えた春子が足の筋肉を鍛える器械にまたがる。あんなスピードで三十分以上走ったあとに、ほぼ休みなく次の運動ができる体力は、あの細い身体のどこから湧いているのだろう。


「……あれ、原田先生?」


 聞き覚えのある声がして、振り返る。


「あ、三島先生!」

「お疲れさまです。原田先生も運動されるんですね? 意外です」

「今日は初めて。友だちに連れられて来たのよ」

「はあ、だから今日急いで学校出られたんですね」


 女子高のオアシス、三島先生――やはりイケメンはしっかり運動もするのか。


「こんにちは」

「えっと」

「私、永野春子と申します。美雨の、豊桜学園時代の同級生です」

「ああ、どうも」


 少々困ったような顔で春子に挨拶をする三島先生。さすが春子、初対面の人間に臆することなく話しかけていく。――そして確信した、春子は三島先生を気に入ったのだろう。彼女は基本的に、狙った男性を落とせないことはない。ただひとつ誤算があるとすれば、三島先生は見かけに依らず相当シャイな性格をしているということ。いきなり話しかけられたことに驚いてしまい、自己紹介すら忘れている。


「こちらは三島先生。同じ学校で働いていて、私の二つ下」

「そんなところです」


 下を向き、早くこの時間が終わらないかなあといった様子を見せる三島先生。彼の大きな欠点は、感情がそのまま顔に出てしまうこと。しかし、意外だった。春子のような可愛らしい女性を目の前にして、いくら人見知りだからといえ、こんなにもイヤそうな表情を見せる男性がいるなんて。


「それでは僕はこの辺で」

「ごめんね、貴重な二時間四百円を……」

「いえ、こちらこそ、素敵なお友だちとの時間をごめんなさい」


 そう言って彼は、ウェイトリフティングコーナーへと向かった。






「ねえ、春子。うちの学校の三島が、ごめんね」


 帰り道、春子に連れられてやってきたパンケーキの店で、私は彼女に謝罪する。


「なんで?」

「……ほら、あからさまに不機嫌な顔してたでしょう。いつもはあんなんじゃないし、生徒の人気も高いし、変な人なんかじゃないから。……あ、きっとオフの時間に仕事仲間と出会って、気まずかったんだよ」

「そんなんだったっけ? いずれにしても、すっごくイケメンね、あの人。最近ドラマに出てた俳優にちょっと似てる」


 やはり春子は三島先生にぞっこん、というか彼の顔を気に入っていたようだった。しかし、春子が彼の不機嫌さに気づかなかったのは意外だった。あんなにも他人を観察し、どうでもいいことばかりに気づく春子が、三島先生の分かりやすい表情の変化を察知できないなんて。まあ、知らなければ知らないでいいのだけれど。


「ねえ見て、あの人お化粧初心者って感じ? 顔と首の色の差がすごすぎて……」


 そう言って春子はクスクスと笑った。春子の視線の先には、大学生のアルバイトのような店員さんがいて、言われてみればたしかに、春子の指摘したことは正しかった。


「ああ……若いしね。そうかもしれない」

「自分でファンデの色を選べないのなら、店員さんに選んでもらったらいいのに」

「いやあ、あの若さでデパコスは緊張しちゃうよ。私も学生時代は全部ドラッグストアで買ってたし……そもそもいまだに私、正解の色ってわからんよ」


 別にその子をかばったわけでもないし、悪口を言うのが嫌いなわけでもない。むしろ、女子同士の悪口や軽いディスりみたいなものは、好物と言ってもよいくらいに、私は性格が悪かった。そういうことではなく、ただ単純に、面白いポイントが見出だせなかったのだ。例えばその人が、見た目を売りにしている女優やアナウンサーなら、「おいおい、メイク担当者どうしたよ」という面白さを感じることができるが、相手はただの一般人だ。


「……ごめんね、こういう話、好きじゃないのね」

「いや? マウントとディスりは大好物だが?」

「そんな大袈裟なもんでもないでしょう」


 春子が気まずそうな顔をする。


「しかし、やっぱり春子はいろんな人のことをよく見てるなー! 私、気づかないもん。他の人のファンデーションの色なんて」


 自分に似合う色を当てられたり、自分にぴったりのデザインの服を選んでもらったりしたとき、私は本当に嬉しくなった。こんなにも私の事を見てくれているのだ。同時に、少し緊張もする。春子に見られているのだから、ちゃんとしてなくちゃ。高校時代の私は、常にそう感じていた。


「見てないよ、全然」

「えー?」

「美雨より全然」


 なんで私? そう言って吹き出すと、春子は真面目なトーンで語った。


「私が見てるのは、あくまで視覚情報だけ」

「当たり前じゃん、目でものを見るんだからさ」

「私は、美雨のようにもっと他人の心が分かるようになりたい。……あの人がどんなものが好きなのか、どんなことを言えば喜ぶのか。何が嫌いで、どんなことをすると怒りを買ってしまうのか。そういうの、なにも分からない。私は人に似合うものを当てることはできるかもしれないけれど、その人の好きなものを買ってくることはできないんだ」


 へえ、と相槌をうちながらも、私は内心納得していた。私は私で、他人の事をよく見ている。それは行動だったり、思考パターンだったり、彼らの内面に纏わる部分。これは教師一年目の頃、竹下先生に指摘されたことでもある。「原田先生はよく他人のことを観察している。その力は学校だけじゃなくて、どんなところでも使える」と言われて以来、自分の長所として認識している。お陰で他人の名前は覚えやすいし、余計なことで相手を苛立たせることも少ない。しかし一部、どうしても理解できない人間がいるのだ。

 それが、春子だった。


「さっきだって、美雨は三島さんが不機嫌そうだって気づいていたのに、私はそんなことそっちのけで喋り続けてしまった」

「三島先生は、毎日会っている同僚だから……」

「私はそういうふうになりたいんだよ」


 春子の甘く、ふわふわとした声質。そこにほんの少しだけ重みが加わり、きっとこのことで数年来悩んでいるのだろうな、ということが感じ取れた。

 同時にまたひとつ、学生時代に自分が放った言葉を後悔した。――誰彼構わず、相手の立場も思いも考慮しないまま、自分の意見を押し付けて強い言い方をする春子のことを、私は「当たり屋」と揶揄していた。本当は、こんなことを言えば相手を怒らせるとか、そういうの分かっているくせにどうして我慢しないんだよ。そういう怒りを込めてそう呼んでいたのだが、もしかしたら違っていたのかもしれない。

 彼女は本当に、相手の気持ちが理解できないままに、自分の信じる正解を押し付けることしかできなかった。そういう不器用さを抱えていたのかもしれない。春子と不器用という言葉は、どうしても馴染みが悪い気がしてしまうのだが、そう考えざるを得ない気がした。


「ごちそうさま、美味しかった」


 春子のベリーパンケーキは、既に跡形もなく消えていた。


「……ああ、ごめん。私も急いで食べる」

「大丈夫、ゆっくりしてて」


 春子の言葉に甘えて、私は私のペースでオレンジパンケーキを食べる。甘ったるいクリームの中で、柑橘類の酸味がはじける。なんだか、「女子」をしている気分になる。

 そして、改めて実感する。――春子と暮らすのは、やっぱり楽しいんだ。

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