第9話


 本田たちが去ったあと、私はその下駄箱の前に立った。藤井千嘉、と名前の貼ってあるボックスに、どろどろの靴が入っていた。私は江本先生に、校内用スマホで電話をかけた。





「そういうわけで、一応これでご対応いただけるかと」

「ふうん。本田さんたちがやった、と」

「そうですね」

「原田先生、まさかとは思いますけど……証拠探しに躍起になって、原田先生ご自身が、なんてバカなことはないですよね」


 江本先生の下卑た笑みが絶妙にキモくて、露骨に嫌悪感を示してしまったかもしれない。


「ないですねえ」

「そう? でもそんなの分からないじゃない」


 分かるんだよなあ。下駄箱付近には不審者対策で、防犯カメラが設置されている。正直、ここでいたずらをすれば、その姿は全てカメラに撮られてしまっているのだ。そういう意味では、本田たち生徒は本当に愚かなことをしている。


「貴方たち、そこで何を」

「あ、ちょうどよかった。教頭先生がおっしゃっていた『中三A組にいじめがあるという証拠』、ありましたよ」

「でもこれ、原田先生がやったっていう可能性はありませんか?」


 江本先生の言葉を無視して、佐伯教頭は私の指差す下駄箱の中身を確認した。


「……そうですね。原田先生、大変お手間をかけましたね。ありがとう、これから校長と相談して、いじめ対策委員会を設置します」


 教頭が味方に回った瞬間だった。防犯カメラの存在を知っていて、江本先生の戯れ言が戯れ言でしかないと判断したのかもしれない。あるいは教師の不祥事と学級のいじめ問題を天秤にかけたのかもしれない。――名門校の教師が、自己保身のために生徒の靴を台無しにするのと、いじめの一環として生徒がいたずらを行ったのと、どちらの方がより問題となるか。前者ならニュース沙汰だ。教頭が江本先生を見る冷たい視線は、裏切りの色を帯びていた。


「……すみません、そこ、少々どいていただけますか」


 声がして、三人の教師は振り返る。そこには藤井が居た。――正直に言うと、それまでの私は本当にスッキリとした気持ちでいた。このくだらない担任教師に一泡吹かせ、教頭を味方に付けた。お陰で学校は委員会まで設置して動き出す。たった三年目のひよっこ教師なのに学校を動かそうとしている私って、なんてすごいんだろうって。

 ひとつ、反省しなければならないと思っている。あのいやがらせ行為を、未然に食い止めることはできたはずだった。本当に被害があるかどうかなんて確認しなくてよいし、たしかにあのとき、藤井の靴が汚されることは予見できなかったものの、すぐに本田たちの目の前に姿を現せばよかったのだ。そうすれば、こんなことは起きなかった。私がそうしなかったのは、おそらく「証拠探し」に固執していたから。結局のところ、我が身は可愛い。

 数秒間下駄箱を見つめた後、上履きのまま泣きながら駆けていった藤井の背中を見て、初めて自分自身のことをキモいなって思った。


「まあ、上履きで外に出るなんて……」


 そう呟く江本先生をその場に残し、私と教頭は職員室に戻る。






 それから数日は忙しかった。いじめの存在を証明して、残りは江本先生に投げて終わりとはいかず、いじめ対策の委員会に私も参加することになってしまったのだ。冷静に考えてみれば当たり前の話で、東から相談を受けたのは私、いじめの第一発見者も私となると、当然解決に向けて動くよう指示されるのは仕方のない話だ。学級会や保護者説明会、その他委員会の話し合いの日程を組むのは私、会議の書記も私、事実関係の確認や藤井、東の心のケアも私の仕事。保護者への説明それ自体といじめっ子たちの対応は、江本先生の仕事。私なんぞが本田たちに関わろうものなら、正義感ばかりが暴走してろくなことにならないだろう、という教頭たちの判断。まあ、ことなかれ主義は、相手を刺激しないという点においては非常に役に立つ。江本先生が適任なのは分かる。


「原田先生、えらい面倒なことに巻き込まれちまったね」

「まあ、そうですね……正直、自分の担任業務もあるのにこれはキツいっす」

「しかも担任一年目なのに、他のクラスのことで働かないといけないなんてね。本当にお疲れ、はいコーヒー」

「ありがとうございます」


 竹下先生や牧野先生、三島先生が労いという名のちょっかいをかけてくるのは正直嬉しい。一方で、いまだに藤井の泣き顔を忘れられない自分がいる。

 度々、自問自答する。――下駄箱での事件があったとき、どんな気持ちだった? 嘘つきじゃないと証明されて、ほっとした? 江本先生をギャフンと言わせることができて嬉しくなかった? 大丈夫? 倫理観、息してる? 脳汁ドバドバ出てたよね?

 三島先生や牧野先生が「私も、いじめを見たらそんな風に向き合いたい」と言ってくれる度に、心が痛む。彼らには下駄箱で起きた件について、あまり詳しく話さないようにしている。私のとった行動が一番の正解とはいえないから。


「原田先生は、教師としての義務と、教頭からの命令をきちんとこなして偉い。そういう当たり前のことを積み重ねたから、今、上手いこと回ってるんじゃないか。……なるほど、今の教育界はシステムがうまくできているんだ、生徒の心を守り、先生も安心して働くことができるようなシステムがね」


 おそらく竹下先生は気づいている。――私がいじめの存在を証明するために、少々残念な手を使ったことに。まあ、状況を想像してみれば、容易に分かることではあるが。

 基本的に、私は私を守るようにしか動いていない。相談を受けたら共有、上からの命令を忠実に守り、結果を出し、課題解決に向けて言われたように動く。その結果が、これから先の藤井の生活を少しでも守ることに繋がるのなら、それはそれでいいか。





「ただいま」

「ねえ、最近マジで遅すぎない」

「うん、ごめん」

「別に謝ってほしいわけでもないけどさ。あの学校、そんなに忙しいわけ? そんなことないでしょう。美雨の仕事が遅いとかそういうんじゃないでしょうね」


 委員会が設置されてから、いよいよ忙しくなった私に対して、春子は少々文句を言うようになっていた。正直、そのくらい態度がでかい方が春子らしいというか、遠慮がなくてちょっと安心する。


「いや、ほんと悪いと思っている」

「悪いとかじゃなくて。なんか、まずいことになっているんじゃないかと」

「大丈夫、まずい局面は脱した」

「まずかったんじゃん!」


 もちろん、相手が春子のような友人であっても、恋人の智輝であっても、家族であっても、外部の人間に細かい仕事の話はできない。しかし、事は好転しているわけで、そのことだけは伝えた方がいいかなと思ったのだ。


「明日は早く帰れるよ」

「そう。……あ、でも明日は用事があって。ジムの見学に行こうと思ってるんだけど」

「なにそれ楽しそう」


 私の食いつきがあまりによかったので、春子は面食らったようだ。


「……美雨も行く?」

「行ってみたい」

「そうかあ」

「なんだか、意識の高いOLみたいでワクワクする」


 そう言ってから、よくよく考えてみると春子は数ヵ月前までまさにその「意識高いOL」だったんだよなあと思い直す。


「そうだ、明日運動するんならお弁当多めに入れてよ」


 春子は私の要求を華麗に無視した。





 翌日。なんとあの藤井にお礼を言われた。


「……ありがとうございます。原田先生が動いてくれたお陰で、少しずつ学校に通いやすくなっています」


 藤井の予想外の素直な言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。困ったときに黙ってしまうのは、私の悪いくせだ。


「でも、こんなに助けていただいて良かったんですかね。……正直、嫌がらせをされる側にも理由はあるっていうじゃないですか」

「知らない。そんなこと、誰が言ったの」


 私は何気なく聞き返す。


「……文化祭前日準備の日、私、クラスの出し物の準備が残っているのに帰っちゃったんですよね、『塾があるから』って」


 ああ、と声が出る。周りと行事に対する温度感が違う子は、ハブられやすいのだ。


* * *


 春子との出会いは高校一年生、芸術の授業だった。音楽、書道、美術の中からひとつを選ぶことができ、私と春子は音楽の授業を選んだのだ。

 高校一年生は、中学部からの生徒と高等部からの生徒が別クラスに分かれており、普段の数学や国語等の授業で春子と出会うことは無かったが、唯一その芸術の時間だけはクラス合同で行われた。私と春子はあいうえお順で前から後ろへと席を並べたときに、ちょうど折り返して隣同士になる位置関係だった。初回授業のときに、「よろしくね」と笑顔で声をかけられたが、こういう明るいタイプの女の子は、誰が隣であっても同じように挨拶をしてくれるんだろうなと思い、特に気に留めることもなかった。

 問題は、芸術発表会の練習時間に起きた。毎年二学期始めに、わが校の高校一年生は芸術の授業の一環として発表会を開くのだが、私たちの年は器楽合奏を行うことになったのだ。

 当時文化祭が近く、芸術発表会に手間を割くことのできる生徒は少なく、そもそもモチベーションが維持できない者が大半であった。そんな中指揮者となった春子は、たいへん張り切っていた。


「ねえ、木琴。最初の小節、全く叩けてないけど」

「アコーディオン、音小さすぎ! もっと自信持って弾いてくれない?」

「そもそもみんな練習不足! せっかく練習時間も与えられてるのにどうしてちゃんとやってくれないの」


 春子が熱くなれば熱くなるほどに、周りの生徒たちは引いてしまう。そんな春子の姿を眺めながら、不憫な人っているよなあと私はのんきに木琴の棒をくるくる回していた。

 放課後、練習のために音楽室を借りていても、残って練習している人なんて居やしない。静かな音楽室は自分だけの音が響いて心地いいやと一人木琴を叩いていたところに、春子が現れた。

 私たちの関係はそこからだったように記憶している。指揮と木琴、それぞれについてお互いに意見を言い合い、少しずつ改善した。雑談だってたくさんした。春子がバイオリン少女であることは、その頃教えてもらった。あとでこっそり名前をインターネット検索してみたら、小さなコンクールで小さな賞を取っていたことが分かった。

 その日の帰り道、春子の提案でプリクラを取りに行った。寄り道は禁止されているため、内心ビクビクしていたけれど、「バレたって怒られるだけじゃん」という春子の言葉が新鮮で、私は彼女の提案に乗った。プリクラ機が勝手にメイクを施してくれるので、私が完全なすっぴんだろうと、春子が色つきリップを塗り、ビューラーで睫をあげ、細いアイラインを引いていようと、ふたりがちゃんと友だちであると分かるように、平等に可愛らしく仕上げてくれる。

 春子がかなりの甘党だということは、その日に知った。プリクラからの帰り道のカフェで、大盛りパフェを一人で平らげる姿を見て、どうしてこの子はこんなに細いのだろうと思っていた。


 結局のところ、発表会はかなりイマイチだった気がする。難しいところは皆がミスり、簡単なところはすぐに演奏が走る。ガタガタの出来に、春子はまともに悔しがった。私は別に悔しくはなかった。皆で一緒に間違えれば、安心。しかし、皆が間違える中、私だけが正解なのは、気持ちがいい。それだけの話だ。指揮者であれば、また違う気持ちになれるのだろうか。



 春子は常に熱い少女で、その温度差は周りと比較して歴然としていた。春子はそうやって、周りから少々浮いてしまうのだった。


* * *


「皆でひとつのものを作ろう、とか、力を合わせて、とか。――そういうの、本当に嫌いで。なんか、キモくて」

「そうか」

「それから、アイツは自分勝手な奴だからって、皆に嫌われるようになったんです」


 もちろん、どんなに嫌なことだってやらなければならないことはある。それは学校行事だったり、勉強だったり、その他のいろんな授業を受けて単位を取ることだったりする。それはたしかにそうなのだけれど、だからといってそれを他の生徒が勝手に断罪し、好き放題嫌がらせをしていいかというとそれは違う。特に今回の場合、文化祭から既に三ヶ月程度経過しており、本田たちの行為はもはや制裁の域から外れている。


「行事はちゃんとやったらいいとは思うけど、それと嫌がらせの件は別だからねぇ。ちなみに、誰が言ったの? 被害者側にも理由があるだなんて」

「江本先生が、『貴方も周りと仲良くする努力をしなさいよ、そんなんだから問題が起きるのよ』って……」


 そこまでのクソ教師がおるんか、と私は面食らってしまった。





 さて、放課後の私はちょっとワクワク気分で、スポーツウェアを片手に学校を後にした。仕事を定時で終わらせて、業務外の時間を自分磨きにあてる有能OLの気分。雑務はさくっと片付け、生徒にはお礼を言われ、江本先生の失言を教頭にチクり、やるべきことはすべてやった状態で駆け抜ける下り坂は爽快だった。

 春子と待ち合わせをしたジムは、私の家の最寄り駅から三駅ほど乗ったところにある、公立のスポーツセンター。当初、春子はパーソナルトレーナーをつけて、値段が三倍以上もするジムに通う予定で居たのだけれど、私が全力で止めた。正直、他人と話すのはダルい。高いのもイヤ。


「お待たせ」

「私も今来たところ。じゃあ、行こうか」


 春子は私に背を向けて、ジムのある建物の中に入っていった。

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