「ぶン」か「ぶぶぶぶン」か「ぶぶぶぶぶぶン」か

志賀直哉の『城の崎にて』に斯様な一文がある。

──直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。

この「ぶーん」──谷崎潤一郎著『文章読本』の中でやたらと褒めちぎられている。

──殊に「ぶーん」を「ブーン」と書いたのでは、「虎斑の大きな肥つた蜂」が空気を震動させながら飛んで行く羽音の感じが出ない。また「ぶうん」でもいけない、「ぶーん」でなければ真直ぐに飛んで行く様子が見えない。

「もしや谷崎は志賀に弱みでも握られていたのでは?」と勘繰ってしまうほどの褒めっぷりだが、まあ云わんとしていることはわかる。何より「最適な言葉はたゞ一つあるのみ」を信条とする谷崎のこと。彼の感性に従えば、ここは「ブーン」でも「ぶうん」でもなく、「ぶーん」でなければならなかったのだろう。

さて、件の作品に登場するケバエだが、その羽音は「ぶン」である。もしくは「ぶぶぶぶン」か「ぶぶぶぶぶぶン」である。

──潔い。

ここでテキトーな比喩に逃げないところが、実に潔い。

戦争の最中、「だって、こうとしか聞こえなかったのだから仕方がないではないか」「比喩などと悠長なことを云ってられるか」という書き手の熱量がありありと伝わってくるかのようである。

ケバエの羽音を表すのに(幾分心にゆとりがあれば)それらしき比喩を用いる書き手もいるだろう。前後の文脈を意に介さず、隙あらば「擬音=稚拙」の方程式を振りかざす、通称「擬音警察」もいるだろう。

しかし、件のエッセイにおいて──羽音は「ぶン」か「ぶぶぶぶン」か「ぶぶぶぶぶぶン」でなければならないのである。

その"事実"こそが、戦争の苛烈さとむなしさを如実に表しているのである。

戦争が激化するにつれて、小気味よく作者の私生活が露わになってゆくのが面白い。

物語冒頭、初めて訪れる空間ならまだしも、慣れ親しんだ空間であるにも関わらず「椅子がいくつあって、テーブルがいくつあって、観葉植物があって、床の材質は──」みたく情景描写ならぬ「ナゾの状況説明」をしてしまう書き手はぜひ参考にされたし。生きている(活き活きとしている)人とは、こう動くのである。