第8話 クリスマスの過ごし方

 昼休憩の時に、同僚たちがクリスマスや、年末の予定を盛んに話しあうようになった。私の働く経理部では女性が多数派。彼女たちの会話の端々には、女性社会にありがちな闘争の気配、やれ予定している旅行の計画、ホテルの食事、そんなようなこと。私は彼女たちの会話に片足を突っ込んでいるようなスタンスで、本格的に闘う意思を見せはしないが、時々こちらにも静電気が飛ぶ。不快にならないわけでもないが、気に病むほどではない。概ね無邪気な自慢であることが分かるから。

 たった一人の私の同期は根暗な女の子で、明らかに人間関係が得意ではない。特別資格があるわけでもなく、私が見ている限り、際だって経理の適正があるわけでもない。ただ、仕事に対する姿勢そのものが真摯なことは伝り、けれど伝わるだけで、特別仕事が速いわけでもない。昼食が終わって女性社会が霧散した後、彼女と少し話をした。彼女は、年末は実家の家族と過ごすのだと、ほのぼのとした声色で言うのだった。さっきまでは俯いて、自分のデスクで弁当を食べていた。「親と過ごす」のは全然悪いことではないけれど、多分、さっきの会話の中では嘲笑の対象になった。

 私は笑われた。クリスマスも、年末も、特に予定が無かった。彼女にそのことを言うと、「それじゃあ、ゆっくりできますね」何の裏もないように言う。私は彼女が羨ましかった。いや、本当は私にマウントを取ってきた女性たちにも羨望していた。どうして私は彼女達のようになりきれないんだろう。


 十二月二十四日、河南は女友達と夕食を食べると、朝からバイトに出て行った。今年のクリスマスはたまたま土曜日、食卓に載っていたのは河南が用意した、ご飯、味噌汁、目玉焼き。それらを食べた朝八時から、さっそく手持ち無沙汰になった。いつもの休日であれば日がな一日動画配信サイトでも眺めている。しかし、今日は何かをしなければいけない焦燥感、人と会うのでも良い、仕事があれば、せめて言い訳が出来る。このままでは、世間に「寂しい女」として認定されてしまう気がしている。だからといって、迂闊に街に出ようものなら、擦れ違うカップルに私の正体を見透かされる恐怖。

 テレビを点けて、朝のローカル番組で街の様子を流しながら、河南が自慰をしている動画を見た。彼女の心はここにあるのに、実体が遠い所へ行ったような気がした。それでも、それは少しの慰めにはなった。

 もうすぐ十一時になる頃、意を決して地下鉄に乗る。予想通り、外には二人連れの人間が溢れている。茶化すつもりもなく、私は河南が働いているという純喫茶へ向かった。ただ、働いている彼女を遠くから見たくなったのだ。

 河南が働く店は、大通り公園から一つ南へ行った通りにあった。入り口は二つあって、一つは人通りの少ない道、もう一つはコンビニが近くにある道、そちらには店のメニューがブラックボードに書かれていた。私は敢えて人通りの少ない方から店に入り、そうすれば、河南が自分を見つけてくれると思ったのだ。けれど、淡い幻想だった。二人がけのテーブルに一人で座った私、水を運んできたのは河南よりもう少し若い女の子だった。他のテーブル席には若いカップルは座っていない。四人連れのおばさんが、テーブルをくっつけて楽しそうにお喋りをしているのと、私のように一人の男が、落ち着いた雰囲気でコーヒーを啜りながら文庫本を読む。実働している店員は二人で、接客しているのは河南では無い。六百円のマンデリンを頼むと、店員はクリスマス限定らしいケーキをおすすめしてきた。甘い物は大して好きでもないけれど、マンデリンだけでは机が寂しいかと思ってついでに注文した。店員がカウンターへ戻ると、奥でコーヒーを注いでいた河南にあれこれオーダーを読み上げていた。河南は、通されたオーダーが私のものだとも気が付かないで、真面目に頷いて、マンデリンを注ぐ。

 今、目が合った。驚き、喜び、羞恥、彼女の反応は、どの予想とも違う、知らぬ顔。注文したものは、結局河南じゃない方の店員が運んできた。河南は俯いて、粛々とカップを洗っている。テーブルに並んだ、河南の用意したマンデリンも、限定のケーキも禄に味わえないで、そそくさと店を出てしまった。……こんなことなら限定のケーキなんて頼まなければ良かった。季節の限定物に、安易に手を出した自分自身が、浅ましく思えて仕方がなかった。

 大通りの純喫茶から出たあとは、行く当てもなく、膨大な昼の時間を余して過ごす。結局、大手の本屋で近代文学を一冊買い、地下街のコーヒーチェーン店で読むことにした。文字の流れを眼で辿っても、ついさっきの出来事が頭に一々過り、意味を掴めない。溜め息を吐いて、本を閉じ、しばらく天井を眺めてから、また本を開く、そんなことを続けているうちに、ようやく本の内容が呑み込めるようになった。

 すると今度は、以前書いた脚本の台詞が頭に思い浮かぶようになった。三夜悩んで、結局挿入することのなかった、思春期の街のこと。想像の中ではシーンの繋がりも、テーマの絡ませ方も、今読んでいるこの本のように上手くいくのだ。空想の世界を行き来する。今読んでいる夏の景色を入り口として、私は自分の世界に入り込むことが出来る。

 一時間と少しが経ったところで、スマートフォンが震えた。木元からの着信だった。「相羽、暇?」時節を問わない彼の誘いが聞こえてくる。「うん」素直に答えると、「どこおる?」と聞いてくるから、自分の現在地を教えた。木元の住まいからは、多分十五分くらい歩けばここに辿り着く。

 予想通り、家から歩いて来たという木元は、ジーンズと黒いセーターの上に、よれた濃緑のダウンコートを着ていた。着ている服は昔と同じなのに、こまめに散髪するようになった彼を見ると、中身がすげ替えられたかのような違和感があった。彼は私よりも長身で、二重で、喉仏ががつんと出ている。健康的な顔色をしていると、よほどマトモな男に見えてくる。店の入り口から顔を出して、「おう」口だけ動かした。そして、俯いて店の前をうろうろしている。

 私が出て行くと、「じゃ、行くべ」と先に歩き出した。木元の方が歩幅が広いから、ペースを合わせるのが大変だった。先導している割に、特に目的地があるわけでもなく、突然地下歩行空間の出店で立ち止まって品物を眺め、大きなモニターで流されている広告をじっと眺め、地上に出たかと思えば「さみっ」と呟いて地下に取って返し、躾の付いていない大型犬のような振る舞いをする。

 

「今日な、サクラさんとこのバーで、パーティーやるんだと」

 階段を下りながら彼は言う。

「けど、夜からだから暇でな」

「そうなんだ」

「びっくりしたべ、この間来たとき」

「うん、まあね」

 あの時は面喰らった。男だというサクラさんのこと、奥に居座る女装の三人。

「女装バーなんだってよ。まあ、客が勝手に拡大解釈して、色んなマイノリティの人が来るらしいんだけどさ」

「よく分からないけど、それでトラブルは起きないの?」

「たまーに変な客が来ることもある。そんときゃ、サクラさんが何とかするさ。あの人、空手の段持ってるからさ」

「頼りになるね」

「ああ。相羽も来ん?」

「どこに?」

「今夜、バーに。俺も、実は暇しそう。知り合いサクラさんしかいねえんだよな」

 不安そうに、顔から突き出た高い鼻を指で掻く。

「そうか。……どうせ私も暇だし」

 呟きながら、私は内心安堵している。木元に情けをかけられたのだろうか、という考えが一瞬湧き、いや、木元は多分、私にそんな気を回さない。

 寂しい女、寂しい女と、さっきまでは一人で歩いていた。ギリギリで踏みとどまったような安堵感、他人に着飾られた木元が、周りの男よりましな顔をしているからだろうか。そう思うと、他人のネックレスを飾って街を歩く気分になって、ズルい女、ズルい女だと方向の変わった自己嫌悪。けれど、彼の影を追う足取りは軽い。

「それじゃあ、どっかで時間潰そうか」

「昼から飲み屋?」

「いや、喫茶店でも飲み屋でもいいんだけど」

 前を歩いていた木元が立ち止まる。振り向いて、「じゃあ、神様んとこ行くべ」狸小路の居酒屋に向かって歩き始めた。目的が定まった彼の歩幅はもっと広くなった。私は殆ど小走りで彼に付いていった。

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