第21話 忌避の遺風
三人は階段を上がって地下を脱出しようとしていた。
「あの猪は逃げたのか?」
「そうらしいな」
「まあ、普通に考えて人間がいる所にからは逃げるわな」
猪はとても臆病であり、人間に出会った場合には一刻も早く安全な所まで逃げようとする。人間が襲われるのは彼らを興奮させてしまった結果なのだ。なので、目の前に人間が現れたのなら、彼らは当然逃げていると考えたのだった。
「あの部屋は隔離病室と書かれていたな」
「そうなのか?」
「部屋の入口に書かれていた」
「じゃあ、そういう患者の部屋だったんだろ……」
「ああ……」
三人は階段先と足元を照らしながら慎重に階段を登って行く。
再び猪に出くわしたりしないようにだ。階段で突撃されるとは思えないが、この場所では逃げ場が階段下しか無い。しかも、駆け下りるには足元が暗すぎて危険なのだ。
そのためなのか会話の声も大きめだ。
「なあ、さっきの心霊現象は脳の勘違いって話だけどさ」
豊平が咲きを行く川崎に質問した。
「ん?」
「あれって独りっきりだったらそうかもなって思ったけど……」
「三人一緒に見てたから違うとでも?」
「そうそう」
「俺は在ると思っている」
「集団ヒステリーって事もあるだろ」
「夢ジジィ?」
「そうそう」
中学生の時。塾に通っていた所で不思議な『夢ジジィ』の話を聞いた。
なんでも夢の中に初老の男が出てきて『お前は○月✕日に死ぬ』と予言されるのだそうだ。それを聞いた他の生徒たちも夢で見たと言い出し始めた。中には彼らの住所と夢を見た日を地図に書き込んで、『夢ジジィ』は南下していると騒いだりしていた。
「誰も死んだりしなかったけどな……」
「集団ヒステリーは、みんなが経験したいと思っていることが噂になってると考えてるよ」
「実際には無いって事なのか?」
「正解なんか誰にも分からないよ」
「ああ、だから合理的に考えようと俺は務めてるのさ」
川崎は中学時代から群れの中に埋没しないように、冷静さを身に着けたいと言っていた。彼らしい考え方だなと敦は思った。
敦はちょっとした事でも頭が真っ白になってしまう。パニックになりやすいのだと自分では思っている。
だから、そんな川崎を羨ましく思っていたのだ。
「流石だね」
「いや、俺の考えってだけで強制はしないよ」
「それも分かってる」
「それにしても、見えるだけじゃなくて声が聞こえたりとかはビックリしたな……」
「ああ……」
「声?」
ここで、川崎は振り返って怪訝な声を出した。
「でも、叫び声が聞こえていたじゃん?」
「そうなのか?」
「敦も聞こえていたろ?」
「うん」
「俺には聞こえなかった……」
「え?」
「結構でかい声だったぞ」
「耳を塞ぎたく成るぐらいに不愉快な絶叫だった」
「……」
川崎は立ち止まって暫し考え込んだ。
「真っ黒い目したヤツラが大きな口を開けてこっち見てたとしか……」
どうやら、川崎には声が聞こえていなかったらしい。
「声が聞こえてたから逃げようって言い出したんじゃなかったのか」
「いや、二人が顔を歪めて不愉快そうにしてたから逃げようと思っただけだよ」
「そうなのか……」
「まあ、個人差が有るんじゃないのか?」
「そうかもな」
「……」
川崎は何にでも説明を求める性分のようだ。そうしないと不安になってしまうのであろう。
敦も同じく物事の理由を探すが、どうにも理解できないものはそういうモノだと納得してしまう性格だった。諦めが早いと言うのかも知れない。
三人は一階に辿り着いた。心配した猪が居なかったので足取りも軽かったようだ。
だが、三人とも一階の様子に違和感を覚えた。不安という泥を捏ねて薄く広げた感じだ。
それは三人を押し包むように取り囲んでいる印象があった。
「あれ?」
「え?」
「?……」
廊下を見渡して違和感の正体が解った。全体的に薄暗いのだ。
廃墟なので天井の照明が点いていないのは承知だ。建物に入ってきた時も薄暗いような印象が有ったが、今度のは印象では無く実際に暗い。
「?」
三人は不思議に思いながらも、気のせいかと思い歩いた。
だが、最初に入ったエントランスに辿り着くと薄暗さの原因に気が付いた。
外が薄っすらと赤くなっていて窓から差し込む陽の光が弱々しいのだ。
「夕方?」
「そうみたいだな……」
「え?」
三人とも窓の外の景色に見入ってしまった。見とれているので無く唖然としているが正しいのかもしれない。
「ちょ、確か廃病院に入ったのは昼前だったよな」
「ああ……渓流釣りを始めた時には昼飯用の魚を釣ってやろうって話をしていたし……」
「建物に入る前に時計を見たから覚えている」
どうやら三人は廃墟の探検に五時間以上掛けていたようだ。
「いやいや、ありえない」
「普通、そんなに時間が立っていたら気が付くだろ」
「じゃあ、外の風景は間違いだとでも……」
「まあ、俺達の時間感覚が間違ってるんだろうな」
様々な怪異に遭遇して逃げるのに夢中になりすぎたのかも知れない。人は物事に集中すると時間の経過に気が付かない事が多いのだ。
「時空が歪んだ?」
「くそ……」
「訳が分からねぇ」
「……」
「なあ、この廃病院を出たほうが良くないか?」
「そうするか……」
「賛成」
敦は喜んでしまった。最早、薄気味悪い建物としか思えない建物から出ていけるので嬉しいのだ。
「あの門を反対方向に真っすぐ行けば道路にぶち当たるんじゃない?」
「それを辿れば車の所まで行けるやろ」
「……」
ここで敦は異変に気が付いた。
「なあ……」
「なんだ?」
「何だか臭くねぇ?」
奥の廊下から異臭を伴った忌避の遺風が吹いてきた。それは地下で遭遇した猪を思い出させるのに十分だった。
陽が沈みかけているので奥の廊下は、もはや暗闇の中に没しようとしていた。
「奥からだよな……」
「ああ……」
「猪だと厄介だぞ」
敦は携帯ライトを向けようとした。すると廊下の奥に光る黄色い点が現れた。野生の動物の目は僅かな光を捉えるために、入った光をもう一度反射させて知覚する仕組みになっている。その反射が光って見える原因だと聞いたことがある。
(やっぱり、アイツラは一階に上がっていたのか……)
すわ、猪かと身構えるが光る点の位置がやけに低い。そして、じっとしていると光る点が増えていく事に気が付いた。
床がうぞうぞと波打っているような感覚も覚える。不気味であった。
(え? 何で??)
その光る点が廊下を埋め尽くそうとしていた時に、気を取り直して携帯ライトを向けて見た。暗闇の中を切り裂くように光が走った。
すると、廊下を埋め尽くす程の無数の鼠が居たのだ。
「なんじゃコイツラ!」
「多すぎる」
「……」
いきなりの人間の登場にビックリしたのかウゾウゾと蠢いている。或いは携帯ライトの光に反応したのかも知れない。
鼠たちはきぃきぃと鳴き声を上げながら三人を見上げていた。
「ヤバイ、逃げるぞ」
「あんな数に襲われたら死んでしまう」
「噛まれたら病気になっちまうしな」
鼠は不衛生な場所を徘徊したり、住処にしていたりするため身体中にたくさんの病原菌を持っている。
もちろん、人間にも悪影響を与える病原菌を持っているので放置をしたりしてはいけない。家の中を歩き回って病原菌を撒き散らしたりするし、噛まれたりすると厄介な病気に感染させられてしまうのだ。
「……」
「……」
「……」
敦たち三人は刺激を与えないようにそっと動こうとした。
だが、三人が動こうとするのを待っていたかのように、鼠たちは一斉に此方に向かってきた。それは、先頭の一匹が此方に向かって走り出した為だ。群れ全体が恐慌状態に陥ってしまったのだろう。
「ひゃあ」
「ああ、踏んじまった」
「構うな、走れ走れ」
鼠のスタンピード(大群の突撃行動)に恐れをなした三人は走り出した。
「うごぉ」
「コイツラ邪魔クセェー」
「……」
今更、地下に逃げることは出来ない。あそこには違った異変が待ち構えているのは知っているからだ。
身体によじ登ろうとする鼠を振り払い、申し合わせをするまでもなく自然と外に出ることを選択する事になる。
三人は足元の鼠を何匹も踏みながら、建物に入ってきた時に使った扉を抜けて森の中へと逃げ出した。
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