スーパーカブ二次創作『ベトナムカブ』

織部庵

第1話 ベトナムカブ



 ――カブのようでカブでない、でもやっぱりこれはカブ。


 それが今、小熊が跨っているスクーターとスーパーカブを合体させたようなバイク――WAVE110αに抱いた印象だった。


 ◎=◎


 東京都は南大沢駅近くの大学キャンパス内、四月に履修登録した午前中の講義を受け終え、学食で鶏唐揚げとたっぷりの千切り野菜、麦飯と味噌汁の定食で腹を満たし。

 午後一番に入っていた三限目の講義が急遽休講になったと学内の液晶掲示板で知った後。

 履修登録してある四限目までどこかを走って時間を潰そうかとカブ90の駐めてある駐輪場へと小熊は向かった。

 小熊が一台のバイクと一人の男に遭遇したのは、そんな時だった。

 

 学生達が通学で乗り付けて駐めている原付オートバイや自転車が並ぶ駐輪場の中。

 先日、事故で廃車になったカブ50の代わりに小熊が手に入れたグリーン系のカブ90の何台か隣。

 丸みを帯びたシルバーのリアボックスが取り付けられている紺色の車体のバイクの横で、学生と思しき背の高い若い男がどうしたものかと言うように困った表情で頭を掻いていた。

 彼の手が掻く、癖っ毛を短めに切った鴉色の黒髪には小鳥でも棲みつきそうな野暮ったさがある。

 スポーツメーカーのロゴが入ったパーカーにインディゴの褪せたジーンズを合わせた姿は、服越しでも細身なのが見て取れた。

 小熊は男を重厚、あるいは鈍重という言葉と反対の意味で軽薄な人間だと思った。ひどく背高で肉付きが薄く、強い風が吹けば流されていきそうな雰囲気を纏った青年。

 無論、小熊の目を惹いたのは青年ではない。バイクの方である。


 小熊はバイクと青年のところへ不自然にならない程度のゆったりとした歩速で近づき、観察した。

 二人乗りできるロングシートにどことなくスクーターを思わせるシルエットでありながら、黒塗りのエンジン近くにカブと同じシーソー式のギアペダルが備わっている。

 左ハンドルにはクラッチレバーがなく、あるのは右ハンドルのハンドブレーキレバーと右足元のフットブレーキ。カブと同じ。

 通常、ハンドルの幅より飛び出るはずのミラーは短く据え付けられている。車の間のすり抜け用だろうか?

 リアボックスの下には、テールランプとウインカーが一体となったビルトインデザインのライト。

『HONDA』の公式ロゴがシールで車体のそこここに貼られている中、ロングシートの下、車体横に『WAVEα』と派手な流れ字がまたもやシールで示されている。

 そしてホンダスーパーカブを思わせる要素を打ち消すように短く突き出ていたのが車体前方、ヘッドライトを覆うスクーター式のフロントカウルだった。

 スーパーカブとはいわゆる「顔」が違う。

 一しきり観察を終え、青年とバイクの傍に立った小熊は単刀直入に青年に問うた。

「パンクですか?」

 バイクの持ち主が困った顔で突っ立っている時の理由は、小熊の経験上、タイヤのパンクかエンジンがかからないかで大別される。


「はい? はぁ、まあ後輪が多分……」

 突然話しかけてきたおかっぱ頭にリンゴ色のほっぺをした、デニム上下に赤いライディングジャケットを羽織った女子学生に、日本人的な鳶色の瞳を瞬かせた背高の青年が視線をやった。

「良ければ修理しましょうか」

 どうせ休講で一時間半ほどやることがない身である。それなら、と小熊は見慣れないバイクを触る名目が転がっていたので拾うことにした。

 青年から誰何される前に、

「人文学部一年の」

 小熊です、と名乗ろうとした矢先。

「あや、えぇと……そうそう!」

 初対面のはずの彼は胸の前で得心の拍手を一つ打つ。そして難読のはずの苗字を含めた小熊の本名を、さん付けで一息に呼んだ。

 瞬間、小熊の身が硬くなる。脳が警戒の指令を全身に飛ばしたのだ。

 知らない相手に自分の顔と名前を知られている、という言い知れぬ気味悪さが背の後ろから這ってきたが、ここで退かない。

 何故呼べたのかを問うような訝しむ視線で、小熊が頭一つ分以上は高い男の顔をめ上げる。

 するとふにゃりとした笑みを浮かべた彼はあっけらかんと答えた。

「必修の英語の授業、おんなじクラスですよ、ぼくらぁ。んーで一回目の授業の時、全員順番に英語で自己紹介させられたでしょぉ?」

 そんな尻下がりの語尾に、尾張三河のやや強い訛り。「珍しい名前と苗字しとらしたでよう覚えとるよ」


 同級生と説明しても未だ不審の目をやめない小熊に、青年は苦笑いしながら「ぼかぁ本田です」と名乗り、ジーンズのポケットからパスケースに入った学生証を取り出し、小熊に提示した。

 念のため、小熊はじっくりと学生証を眺めて検めた。

「……まーえぇかね?」

「結構」

 丁寧語をやめた小熊からの許しに、本田と名乗った青年はやれやれといった風に吐息し、パスケースを元通りポケットにしまう。

 小熊は彼の下の名を、美術館に絵画を飾られている芸術家のような名前だと思った。あるいは女みたいな名前だな、とも。

「下宿から大学まで初めてカブで来てみたけんど、やってまったでかんわ。朝、普通に来て午後の講義が休みになったで大学周りでも走ってみょうかと思ったら空気抜けとってこれだもん」

 センタースタンドを立てた状態の紺色のバイク、その後輪の一点を本田が憎たらしそうに長い指でつついた。

 まだ新しいタイヤの表面には銀色の曲がった釘らしき物がめり込んでいる。

「道具を出すからちょっと待って」

 そう言い置き、自分のカブに積載してある予備チューブやタイヤレバー、ボンベ式瞬間パンク材などを取り出す小熊の背中に「てりゃ!」と本田が釘を指で引っこ抜く気合の声が届いた。


 ◎=◎


 まずはリアタイヤを外すべく、工具を手にどかりと尻を地面に着けて胡坐をかく小熊。

 その両手には滑り止め付き軍手が嵌まっている。

「手が汚れるで使いん」

 と、本田がマルシンのオープンフェイスヘルメットと一緒にリアボックスにしまっていたのを貸してくれた物だ。

 本田はバイクの傍、小熊の邪魔にならない位置で尻を着地させずにしゃがんで作業を眺めようとする。

「……その姿勢はやめた方がいい。後ろに転ぶ」

 小熊からのぶっきらぼうな指摘に、本田はわざわざ尻を着けた後にころりと背中側に軽く転んだかと思うと、勢いよく達磨のように跳ね戻った。

「なるほど」

 うん、と納得の頷きを一つし、本田は小熊と同じく胡坐をかく姿勢を取った。

 変わった人間だ、と小熊は思った。

 竹千代とは方向性が大いに異なるが、大学という場所にはこういう変わった人間が多いのかもしれない。

 自分のように普通の人間には理解しがたいことを、連中は平気でするからなかなかに気疲れする。

 本田は興味津々と言った様子で小熊の手元と己のバイクを見つめる。


 手始めにタイヤとブレーキ周りのボルトを外して車体からタイヤを外していく。

 パンクを幾度も経験した中で培われた小熊の作業の手は迷いなく、淀みなく進む。

 そんな中で、小熊に聞かせるようでもなく、風に流すような調子で本田が口を開いた。

「自己紹介の時、バイクは『趣味hobby』とは言わんかったねぇ」

 英語の講義での自己紹介で、私の趣味はラジオを聴くことですとかなんとか、適当に喋った覚えがある。

 昔の自分なら「気が散るから黙れ」とでも言っていただろうけれど、作業のこと以外の雑音が多少入っても今では手に狂いは生まれないし、本田の話しかけるでもない言葉は特に耳に障るでもなかった。

 だから小熊も言葉を風に流した。

「私のカブは遊びでも趣味でもない」

「そう」本田が頷き。

「そう」小熊が頷いた。


 ◎=◎


「おお、すーごい! 完璧だがね!」

 感嘆した本田の声が、スクーターとスーパーカブを合体させたような自らのバイクに向けて放たれる。

 パンク修理は恙なく完了した。

「このバイクの正式名称って何?」

 センタースタンドからサイドスタンドに切り替え、軽く後輪の空気圧を握って確かめた後、小熊は軍手を外しながら本田に訊ねる。

WAVEウェーブ110αアルファ。ベトナムで作っとってベトナムでよう走っとるから『ベトナムカブ』とか呼ばれとるらしい」

 軍手を受け取ってリアボックスに放り込んだ本田は、パーカーの腹ポケットに手を突っ込んだかと思うと、財布を取り出した。

 小熊も身延に行った際に土産物屋でガラスケースの中に展示されていたのを見たことがある、甲州印伝の鹿革財布だった。

「パンク、直してくれてありがとう。お礼においくらはろうたらいい?」

「……三千円」

「三千円ね。ちょぉ待ってなー」

 小熊からすれば結構な出費を、躊躇うことなく財布を開いて支払おうとする本田に小熊は少し面食らった気持ちになる。

 急に胸に重い物が落ちてきたような気がして、言い直すことにした。

「やっぱり八百円でいい」

 自分がカブの整備や修理を仕事にするプロだったなら三千円受け取ってもいいと思った。

 でも、自分はカブのプロではない。自分をプロとしていない。

 だからチューブ代の実費を請求するに留めた。

「そ。ほうだら千円で。手間賃には足りんだろうけどお釣りは取っといて」

 大幅値引きに疑問を差し挟むことなく、本田は一枚の千円札を小熊へ差し出した。

「……足りないと思ってくれるなら、一つお願いしたいことがある」

 千円札を受け取ると、パンクを直している間に思っていたことを小熊は告げることにした。

「このカブに乗せてほしい」

「……ぼくの後ろに乗るん?」

 ややあって僅かに首を傾げた本田の疑問。

 それを小熊は目を細めた微笑を添えて一蹴する。

「笑えない冗談」

「そう」

 どうやら助平心の類でなく、喫茶店の店員が「コーヒーにミルクはお付けしますか」とでも聞くような調子で本田は確認の応答をしたらしかった。

 そうして、先ほど三枚の千円札を差し出そうとした時と同じようにあっさりと小熊にキーを渡す。

「事故らない程度にどうぞ」

「弁えている」

 小熊は受け取ったキーを掌の上で軽く転がして見る。

 黒い持ち手にホンダのロゴマークの入ったキーとリアボックスの鍵を括っているのは、バイクショップの平べったい楕円形のキーホルダー。

 そこには店名や電話番号、住所が記載されていた。

 このバイクを輸入販売したのはどうやら京都の店らしい。

「自賠責は入ってて任意保険は車のファミリー特約が付いとるけど……家族以外が乗っとった場合の事故補償はどうだったかはわからんで気ぃ付けて乗ってちょ」

「わかった」

 小熊が紺色の車体の周りを軽く一周して検めたところ、およそ目に見える傷がない。

 その代わりというように土埃の汚れが表面に均一かつそこら中に薄い膜のように付着している。

 きっとこのバイクは購入され、引き渡されてから一度も拭き掃除をされていない。

「仕様は?」

「セルスイッチと、シフトインジケータが付いとるの以外はほとんど君のスーパーカブと変わらん、はず。エンジンは四速ギアでシーソー式の自動クラッチだし」

 レッグシールドの部分は上部から下部に向かってかなり絞られたラインを描いており、風防としての役割は薄そうだ。

 小熊が右ハンドルに取り付けられているセルスイッチを押すとWAVEのエンジンは低い排気音と共に、少しも愚図ることなく始動した。

 シフトインジケータでギアがニュートラルに入っていることを示す緑のNランプが点灯していることを確認し、何度かアクセルを吹かすと、小熊は車体の右側へとしゃがみこんだ。

 小熊はそのままエンジンのオイルキャップを外して引き抜き、キャップのレベルゲージに付着しているオイルを注視する。

 エンジンオイルはどうやら適量で、粘度も良く、過度に黒ずんでもいない様子。

「オイルは500キロで一回換えたとこだで全然大丈夫だとは思う」

 本田がそう付け足す。

 メーターが示している走行距離の数字は700キロメートルと少し。

 燃料メーターはほぼ満タン。

 左右のウインカーやヘッドライトも点検する。

 車体を見て回る内に小熊の目に入った、彼が地元で取得したのであろう黄色のナンバープレートに表記された数字は、古式ゆかしい見方に則れば縁起の良い代物だった。

 小熊はパンク修理の役目を果たした工具をしまい、代わりに自分のカブのリアボックスからヘルメットとグローブを取り出す。

 ヘルメットを被ったところで、小熊の目は自分のカブに引き寄せられた。

 盗難防止用のワイヤーロックは勿論付けてある。

 自分の愛車を置いて他人のバイクに少し乗ることに、気負うところなどない。そのはずだ。

 だが、万が一このWAVE110αの運転の最中にカブ90が盗まれるようなことがあったら。

 若干の強迫的妄想が小熊の頭の中で芽生え、気付けば奥歯を浅く噛んでいた。

 そんな小熊の何が面白いのか、飄とした笑みを浮かべた本田が言った。

「ホンダ純正のカブは人気でよー盗られるげなで、ぼくが見張っとるで走ってきん」


 ◎=◎


 ――カブのようでカブでない、でもやっぱりこれはカブ。


 それが今、小熊が跨っているスクーターとスーパーカブを合体させたようなバイク――WAVE110αに抱いた印象だった。

 駐輪場を後にし、徐行で構内を走り抜け、校門で一時停止してから公道へと繰り出す。

 シフトペダルを踏み込み、一速から二速。

 二速から三速。

 三速から四速へと滞りなくギアチェンジさせて加速していく。

 本田から借り受けたWAVEは以前乗っていたスーパーカブ50とも、現在乗っているスーパーカブ90とも違った乗り心地。

 中型二輪よりも効く小回りに、110ccの排気量のパワー。カーブも坂道も滑らかに走ることができる。

 海外のカブについては、小熊は以前少しインターネットで調べたことがある。

 世界で最も優れたバイクであるホンダスーパーカブは、東南アジアや中南米などに大規模な生産工場を持っており、各地で派生型製品が製造販売されて普及している。


『ホンダ』


 それはベトナムでは、バイク全般のことを指す言葉だという。

 本田からキーを渡されてから、WAVE110αに跨る前に小熊はスマートフォンでWAVEについて検索をかけた。

 WAVEシリーズはタイのホンダ工場で生まれ、東南アジアで成長したスーパーカブシリーズであるらしい。

 ベトナムはバイク人口が非常に多く、かつてベトナムを走る二輪車の90%近くがスーパーカブ・シリーズで、一家に一台のモビリティであったとホンダのHPホームページには書かれていた。

 やがてベトナムの人々は、二輪車を「ホンダ」と呼ぶようになり。

 オートバイもスクーターもモペッドも、メーカーを問わず、あらゆる二輪車が「ホンダ」になった、と。

「Honda Wave α」は海外生産工場での現地調達部品の低コスト化やグローバル調達ネットワークの採用により、高い品質と信頼性を維持しながら、大幅な低価格化を実現したファッショナブルカブタイプの二輪車で、日本では輸入販売かその中古売買でしか手に入らないが、日本式のスーパーカブよりも非常に廉価なのだそうだ。

 ベトナムやタイなどではバイクの二人乗りがデフォルトで、二人どころか三人や四人かそれ以上の人数を乗せて道路一杯にたくさんのバイクが走っていくという。

 現代日本ではきっと見ることのない光景だろう。

 大陸方面へと旅立った礼子ならば、東南アジア諸国に立ち寄ってその中に混じってハンターカブに跨っているかもしれない。

 いや、きっと嬉々として突っ込んでいるだろう。そういう女だ。


 ◎=◎


 三十分ほど大学の周りや南大沢駅前、町田周辺市街をWAVE110αで走り、小熊は大学の駐輪場へと戻ってきた。

 パンク修理した後輪は異常なく、他の部分も申し分ない性能を発揮してくれた。

 故にこそ、小熊にはあの薄っぺらい男に少々思うところができた。


「や、お帰りぃ」

 長身の本田が小熊の出発前と変わらぬ場所で立っていた。足元には口の開いた缶コーヒーがある。

「悪くないバイクだった」

 本田がWAVEを駐めていたコンクリートに覆われた駐輪スペースに緩やかに乗り上げ、ギアをニュートラルに落としてからキーを回してエンジンを切る。

「そらぁ良かった」

 本田の相槌に小熊が言うべきと思っていた口を開こうとした時、

「カブってのはほんとに人気なんだねぇ……。ほんとに泥棒屋さん達が来たよ」

 耳に入った泥棒という言葉に小熊の首と目は即座に自分のカブを確かめに機敏に動いた。

 ――ある。自分のカブはWAVE110αに乗っていく前と変わらぬ位置と姿で存在している。

 素早くヘルメットを外し、WAVEの右ミラーに臨時で被せる。

 小熊の首は次に確かめるべきことを問うべく本田へと向き直った。

「そいつらは?」

「盗みは悪いことだってお話したら帰ってったわ」

 目尻の下がったふにゃりとした笑みの本田。

 駐輪場に駐められた小熊のカブの近く、アスファルトの上で赤黒い染みが数滴生乾きになっているのに小熊は気付いた。

 地面の染みはそれなりの高さから垂れ落ちたと思しきものや、少し引き摺ったように延びたものもあり、小熊は『お話』の顛末に若干の興味を惹かれたが、追及の声は腹に飲み込んだ。

 己のカブは不届き者どもの手による盗難被害に遭わなかった。この場で知るべきことはそれだけで良い。

 パーカーの袖口から覗く本田の手首はほっそりとしているのに、そこから先は身長相応にデカい。バスケットボール、あるいは人の頭を掴むのも余裕だろう。


 一つ、借りができてしまっただろうか。

 とりあえずの安堵の一息を吐き、小熊は一度咳払いをして唇を動かした。

「一つ言っておくことがある」

「何かな?」

 小熊よりも随分高い位置にある鳶色の瞳が瞬く。

「あなたはこのバイクにあまりにも関心がない。ただ利用しているだけだ」

 小熊の侮蔑ともとれる上段からの物言いに、本田は怒るでもなく怯むでもなく、芯のない笑みのままただ受け止めた。

「だねぇ。利用して、利用されたりしとるだけ。腹が減ったらガソリン飲ませて、タイヤがパンクしたら修理せぇってなもんだわ」

「…………カブの面倒を見るのは難しいことじゃない。色々教えてやる」

 結構な間を置いて、唇を僅かにへの字に曲げた小熊の申し出に、本田の目が丸くなる。

「えぇんかね? 貴女は……そういうことを言うタイプじゃないと思ったけど」

 薄い笑みがほどけ、困惑と訝しみを綯い交ぜにした表情になった本田が問いかけた。

「このカブはいいバイクだ。こいつがこのままパンクも直せない持ち主に擦り切れて使い潰されるのは可哀想。せめて持ち主としてあなたが責任を果たせるようにするだけ」

「そらぁ……教えてくれるなら有り難いけんど、ぼくんとこじゃ場所も道具もなゃぁよ?」

「場所ならある。道具もそこそこ」

 気持ちだけ胸を張り、小熊は努めて落ち着き払った声音となるよう意識して述べた。

「うちのガレージに来ればいい」


 ◎=◎


 大学からカブで数分。

 そんな好立地と呼べる土地でありながらも、小熊が借りている木造平屋建ての一軒家以外に近隣に民家はない。

 代わりに家の背後にあるのが東京の都心では見られないような大規模な斎場、そして霊園である。

 わざわざここに家を現状から新築しようという輩は、相当な変わり者に類するだろう。

 小熊にとっては財布の許す範囲内の家賃で、周辺住民から苦情を受ける心配なくカブの整備や改造などが行える良好な立地なのだけれど。

 家に近づくにつれて目を惹くのが、小熊が家と一緒に賃貸契約した敷地内にあるISO規格コンテナ。

 初めは空っぽだったが、小熊の手によってカブの保管や整備などに必要な照明や道具が配置され、今では立派なガレージとなっている。

 ISO規格コンテナの内部を改造したマイガレージを、バイクに乗る誰かに見せて自慢したかった気持ちが欠片もなかったかと問われれば、なきにしもあらずと言えなくもないのではないか。

 などと、言葉を捏ね回す程度にはちょっとした葛藤が小熊の中であったのだけれど、結局本田とWAVE110αを案内してきてしまった。

 コンテナの扉を守る番人となっている南京錠を開錠して扉を開け、カブ90をコンテナ内に引き入れ、本田のWAVEは表通りから見えにくいコンテナの傍に駐めさせた。

「……ああ、うん、実家の車庫とおんなじ匂いがする」犬や猫が他者の縄張りを確かめるように首を振り振り、すんすんと鼻を鳴らす本田。「ちょっと土の匂いが足りんけど」

 小熊の家の周りには公園に加えて畑もあるが、それでは少し足りないくらい土の匂いのする場所から本田は東京までやってきたのかもしれない。

「車庫ってどれくらいの大きさ?」

 何とはなしに訊ねた小熊に、髭のないつるりとした顎を撫でながら本田が答えた。

「車庫は……二階建ての家が二つくらい建つくらいの大きさかねぇ」

「ブルジョワ……」

 半目になり思わずと言った風に呟いた小熊に「どっちかってーと地方の独立農民ヨーマン?」と本田が返す。

「地元の実家はまぁ……田舎だわなぁ」

 しみじみとした声音で本田は呟いた。


 小熊にも地元はある。

 山梨県北杜市、通っていた高校、毎月奨学金のやり取りをした信用金庫、カブを買ってから世話になっているシノさんの中古バイク屋、食料品なんかを買っていたスーパーマーケット、礼子とよく品揃えを見に行ったリサイクルショップ、椎の両親が経営するパン屋ブール、他にも色々。

 そういう記憶と思い出が降り積もっている地。

 でも実家はない。

 駆け落ちに近い形で結婚した両親はそれぞれの実家と疎遠で、祖父母はとうに没しており、頼れる身寄りとなる親族もいなかった結果だ。

 強いて言うなら高校入学まで母と暮らし、入学後は一人で生きたあの集合住宅の一室が小熊の実家だが、あの部屋ももう高校卒業と共に賃貸契約を解除している。ひょっとしたらもう別の人間が入居しているかもしれない。

 地縁、血縁に基づく土地に建つ、多くの人が持っているだろう帰ることのできる家というものを小熊は知らず、持たず、あまり考えたこともなかった。

 考えても詮ないことだ。ないものはない。それで終わり。

 そう思考を打ち切った小熊は照明を点灯したガレージの内部に本田を招き入れ、四つ足の簡素な合皮張りの丸椅子を勧めた。

 椅子に座ってなお興味深そうにガレージの内部を見回す本田の姿に、小熊の自尊心が少し満たされていくような気がする。


「あなたはどうしてあのバイクを買ったの?」

「大学受験が終わった後、父親が家でカブに乗った女の子が主人公のテレビアニメを見とってね、『お前もカブなら乗れるだら』って。んで、調べたらあのバイクが新車で一番安かった。新車のスーパーカブ一台買う金でWAVEが二、三台買えるでね」

 背筋の伸びた座り方をする背高の青年は、気恥ずかしそうに語った。

「……昔はカブを知らんかったのよ。正確には、クラッチ操作なしでギアシフトして運転できるマニュアル車のバイクがあるってことを」

 長い手指が鴉色の黒髪を掻く。

「うちは兄姉きょうだい多いでね。服も自転車もバイクもみぃんなお下がり。十六で二輪車免許取ってから実家で初めて乗ったのが兄貴の250のセローだった」

 セロー250。ヤマハが長年販売していたオフロードバイクの代名詞的車種だ。

「初めて運転しに行って、交差点で右折する時にクラッチ操作焦ってミスってエンストして立ち往生、ぼくが行くと思って見越し運転で直進してきとった対向車にぶっ飛ばされた」

 自動車との事故。小熊にとっても経験のあることだった。当時は右足を骨折し、全身麻酔手術と一ヵ月の入院を強いられた。

「セローが車とぼくの間に挟まって、ぼく自身は吹っ飛ばされて転がっただけで済んだけど、セローはお釈迦」

 恥じ入るように本田の声のトーンが下がっていく。

「そっから、バイクに乗るのはやめてまったわ……怖なってまって」

 でも、今は乗っている。

「でも、今は乗ってる」

 小熊の詰めるような確認に、本田はあっけらかんと答えた。

「東京での足は必要だったし、エンストしないカブの運転をしてみたら、怖さは薄れてったでね」

 噛んだ上下の歯の隙間を通すような堪え切れない笑いと共に、本田は続けた。

「タイの恋人達みたいにさ、可愛い女の子と二人乗りデートでもいつかしてみたいと思ったら、乗ってみたくなったの!」

 そこまで言って、ついに本田は笑い声を上げた。自分でも馬鹿らしい、と思っているらしい。

 WAVE110αには二人乗り用の折り畳み式タンデムステップがデフォルトで付いている。予備のヘルメットと相手さえいれば、いつだって二人乗りデートができるバイクだ。

 

 カブに関して困ったことがあれば力になってもいい。

 本田にそう言って、小熊はコンテナを閉めて再び大学へと戻ることになった。

 小熊がガレージを見せびらかす内、四限目の講義の時間が迫っていることに本田が気付いたのだ。

 小熊は大学には給付型奨学金で通っているが、本田は親に払ってもらっている学費で入学と日々の勉学を果たしている。

 学費から言えば一回の授業が数千円に匹敵すると言って聞かない本田に、小熊はいい気分に少々水を差されたような気持ちになりながら二台のカブで足早に大学へとひた走った。

 小熊のカブ90が前を行き、本田のWAVE110αがその後ろを行く。


 町田市の小熊の住居からの短い通学時間の最中。

 ガレージでの話題に上った、タイのバンコク、あるいは台湾の恋人達のような、バイクに二人乗りデート。

 卑近な例として本田や知り合いを使って小熊は想定を開始した。

 まずは礼子。駄目だ。

 あの女は自分のハンターカブで、気に入った人間を後ろに乗せてぶっ飛ばすだろう。次。

 椎は……ハンドルを握るのがセリエAのイケメンでないと駄目なのではないだろうか。次。

 自分はどうだろう?

 小熊はカブ90に合わせた速度で後ろを走る本田とWAVEをミラー越しにちらりと見た。

 本田が前に座り、自分がシート後部に座って腰に手を回して二人乗り。

 知り合い以上友人未満の人物にハンドルを預ける自分の姿がしっくり来ない。

 反対に自分がハンドルを握り、長身の本田がちょっと窮屈そうにシート後部に跨る。

 これはまあ、前の例より悪くない……ように思う。



 そうして大学に辿り着き、目当ての教室へと駆けていった小熊と本田。

 揃って授業にぎりぎり遅刻した二人は、出席に厳しい教授にたっぷり叱られることとなった。

 

                                   (終)



参考文献

『スーパーカブ』シリーズ(トネ・コーケン著 博絵 角川スニーカー文庫)

『まほうのかぜ』(熊田茜音)

『HONDA SUPER CUB FANSITE』(https://www.honda.co.jp/supercub-anniv/)

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スーパーカブ二次創作『ベトナムカブ』 織部庵 @oribeiori

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