幕間|敵陣

 その音は春風と共にやってきた。耳を澄まさなければ聞こえない程の予兆だ。


「何か聞こえないか?」


 焼き焦げた戦場の塹壕ざんごうでひっそりと疑問はこぼれた。

 今は久方ぶりの停戦中だ。兵士の声や銃弾を撃つ音とはかけ離れた物悲しい音が静寂の中をさまよっていた。

 死線を潜り抜けてきた男達の顔が曇る。


「誰か見てこいよ」


 誰かが呟いた言葉に返事をない。

 煤で白い顔と明るい髪を染め、砂埃で汚れた鉛色の軍服がざわめく。

 繰り返される音はしだいにはっきりとしてきた。軽やかな音で低い音階を奏でる音は魂に響く。子供の聞かせる子守唄のようで、物悲しくもあった。

 痺れを切らした一人がわざと銃身を高く上げ、一発の銃弾を天高く放った。敵に場所を教える行為だが、すぐに死ぬわけではない。

 その考えは間違いだった。

 白い揺らめきが目の前に現れる。それが炎とわかる前に塹壕は囲われた。

 誰もが死を覚悟するが、身が焼ける臭いは上がらない。恐る恐る見上げると、白い炎が大人の背丈と同等の壁を作っているだけだった。近寄らなければ害はない。まことしやかに噂される死神の白炎とはいえ、止まっていれば亀でも逃げられる。


「やる気あんのか?」


 誰かが小馬鹿にしたように吐き捨てた。

 何もない場所から炎や水が現れ、大地を割るなど多種多様な力は異能と呼ばれる。海を隔てた島国から来た異能は千人殺しと詠われ、瞬く間に仲間の命は散っていった。

 しかし、それを扱うのは所詮、人間だ。大規模な異能が長く持たないことは一年続く戦闘の中で判明していた。

 炎の檻は一軒家が入りそうな広さだ。塹壕に取り残された兵士は火力切れを期待してじっと耐える。

 聞こえてくる音を反芻できるぐらいには時間がたった。焦れた時間に誰もが苛立ち、足をゆすったり、銃のセーフティーを無駄に扱う。

 一人の頭に音の正体が思い出された。


「これ、鎮魂歌レクイエムじゃないか」


 西の大国で奏でられる重厚な調べ。それが火種となり、恐怖が充満する。


「このまま一晩越すのか?」

「何だか息がしづらいぞ」

「水はあるか?」

「このままだと死ぬぞ」


 高かった太陽は燃えるような夕陽に変わっていた。


⊹ ❅ ⊹


 戦場で流れる鎮魂歌レクイエムの噂はすぐに広まった。暗闇の中、夜営地に戻った兵が震えながら語ったからだ。彼らがする軽やかで厳かな音と白炎の話を他の兵士は話し半分に聞いていた。

 その日から音と共に奇怪なことが起こる。滝壺のような水流を浴び嵐のように揉まれた者もいれば、草に足を取られ頭だけ出して土に埋められた者もいた。次の瞬間に命を取られるかもしれない。それがいつまで続くかわからない。気まぐれで解放されるが、命は敵の掌に乗ったままのようだ。音と形容しがたい恐怖が繋がる。音を聞けば夜営地と言えども、身を縮め見えないものに叫ぶ者さえ現れた。

 音が鳴る法則はない。戦場であったり、夜営地であったり。朝の時もあれば、眠りについた深夜にも死へ誘う調べは流れる。ひどいときは一日二回、何が起こるかもわからない。

 寝不足が続き、食欲が落ち、床から起き上がれない者も出てきた。

 いくら戦場で兵士を殺しても状況は変わらなかった。見えない敵を殺せるわけがない。

 また、死へ誘う調べが戦場を駆け抜けていく。

 今日は、一人の兵士が足を取られ、弾丸が隙間なく飛ぶ場所で逆さまに吊り上げられた。兵士に銃口が向けられる。目を見開く間もなく兵士は地面に叩き落とされた。足に銃弾がかすり、血が吹き出す。怪我よりも心臓の方が重症だ。口からも耳からも心臓が飛び出しそうな程にばく進した。

 次は砲兵が狙われる。砲身の後ろに転がされ、発射の反動で頭を砕かる、寸前で見えない何かで横に引きづられ事なきを得たが、そのことに気付くこともなく意識を手放していた。

 士気を削られた兵は捕虜として捕まり、脱走兵が続出した。指揮官自身も寝不足を強いられ、頭が回らない日々が続く。

 兵は敵ではなく、気まぐれで弄ぶ何者かに恐怖を募らせていった。



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