陸   不屈

 女中に頼まれた秋人は、母の部屋まで炭を運んでいた。

 初夏に入ったとはいえ、夜半は冷える。今夜は満月。蝋燭の火を頼りにしなくても、十分に足元が見えた。虫の声はささやかなもので、遠くの音も拾えそうだ。頬をなでる風は軽く、見通せる暗闇に臆することなく進む。

 秋人は足を冷やす廊下を渡り、目的の部屋の前についた。声をかけようとする前に襖の向こうから声が漏れてくる。


「あの子、おかしいわよ」


 はばかることのない伯母の声に余計な飾りはない。

 その言葉を聞いた秋人の心臓は大きく波打った。あの子とは自分のことだろうか。とっさに、影が映らないよう壁に隠れる。

 返事をするのは母の声だ。


「そうねぇ、美冬は甘えん坊だから」

「貴方にだけ、とわかって言っているのよね? 親ばかもいい加減になさい」


 伯母の追い討ちに母はさえずりのような笑い声を上げている。

 床を突き抜けていきそうな深いため息。伯母のものだろうと簡単に予想がついた。

 一拍置いて、伯母が切り込む。


「あんなに聞き分けのいい子ではなかったと思うけど?」


 妙な間が空く。

 確かに最近の美冬は様子がおかしかった。

 短気で癇癪持ち、気分屋で嫌なことはとことん避ける。そんな美冬が母の前では大人しくしているのだ。前々から母には甘えたな節があるが、その比ではなかった。模範的ないい子、と言えば聞こえは良い。だが、瞳に宿った炎をくすぶらせる姿を秋人は何度も目にしていた。


「あの子は根はいい子なのよ。ただ、我慢がきかないだけ。私と一緒で筋が通らないことが大っ嫌い。元気な分、周りを困らせてくれるのが難しいところね」

「そういうことじゃないわ」

「そうかしら?」

「では、こう言えばよろしいのかしら。貴方達、おかしいわよ」


 音は何も聞こえない。それなのに、秋人は母が凪いだ瞳で微笑んでいるような気がした。

 しびれを切らした伯母が口火を切る。


「こんな全身を押し潰されるような痛みに耐えているから、気でもふれたの? 観音様のように何もかもわかってる、みたいな顔をしないで。昔からの付き合いでしょう。本音をさらけ出しなさい」


 冷静さで無理に押しつけられたような声がまくし立てるようにぶつけられた。

 母は何も返さず、無言の応酬がなされているような緊迫した空気が流れてくる。


「貴方達は、どうして……そんなに我慢をしているの」


 地を這うような声から一転して、伯母の声音は呆れたものになった。

 秋人も知りたいことだ。息苦しいだろうのに、どうして自分を殺す必要があるのか。ほとんどのことに熱を持てない秋人にはわからない。

 聞き取りづらい静かな声を拾うため、全神経を耳に集中させる。


「私は大丈夫よ。静江さんにも私のわがままに付き合わせてしまって、申し訳ない気持ちもあるけれど、とても感謝してるの。どうか、美冬を見守ってやって。図々しいお願いだけど、頼める人が限られているのよ」


 そう言った顔はどういったものなのか、襖越しの秋人は知ることができなかった。

 炭が静かにはぜる。

 落ち込んだ空気に秋人は声をかけることができない。しばらくしてから声をかけよう、と踵を返した。


⊹ ❅ ⊹


 父が外地へ出陣する日が来た。門前で、家族と使用人全員で見送る。

 常日頃からまとう父の豪快な様子は鳴りをひそめ、行儀のいい笑みを浮かべているのは秋人の気のせいではないだろう。

 美冬を抱えた父は目元を綻ばせ、子供扱いしないでと頬をふくらます姿に皺を深くした。そばで穏やかに笑う母と合わせれば、一枚の絵のようだ。

 今生の別れになるかもしれない。誰も口にはしなかったが、皆の笑顔の裏に薄暗い何かが潜んでいた。

 少し離れた場所で秋人は存在を消すことに徹する。

 場に入ろうとしない秋人に声をかけたのは伯母だ。


「あなたは美冬のこと、どう見ているの?」


 秋人は伯母を見上げた。

 低く聞こえた声とは裏腹に、静かな横顔が映る。完璧な面をかぶる伯母は花を愛でるように微笑んでいた。

 確認しなくとも、目線の先には理想の親子がいることがわかる。秋人は何も答えずに笑い合う彼らに視線を戻した。


「相変わらず、話さないわね」


 諦めた物言いに秋人は反応を示さない。


「どうして美冬には懐いたのかしら」


 伯母のぼやきに秋人は答えなかった。

 抱擁を終えた父が伯母に近づき頭を下げ、頼むとだけ告げた。伯母は、御武運をと礼を取る。険しい顔を上げた父は何か言いたそうに口元を歪めたが、それで止めた。秋人に向き直り、大きな手でやわらかい黒髪を乱す。

 秋人は成されるがままにされていた。頼んだぞと降ってきた言葉に頷きで返す。

 名残を惜しむように、もう一度美冬の頭を撫で、母の頬を撫でた父は執事の運転する車で旅立っていった。

 体にさわるからと伯母に急かされて母は屋敷に入る。

 秋人と美冬はエンジン音が聞こえなくなるまで見送った。

 使用人たちも各々の仕事に戻っていく。

 車が消えた道を睨むように見ていた美冬は弾かれたように動き出した。

 秋人は表情ひとつ変えず、走り出した背を追う。思い付くままに行動する美冬にいちいち驚いていたら身が持たない。慣れとは恐ろしいものだ。

 美冬は動き出した時と同様に急に足を止めた。

 丘の上に立つ屋敷の庭からは街を見下ろすことができる。

 帝都の中心のようにレンガが敷き詰められた道はない。舗装されていない道が気ままに街を区切り、太い道には馬車と人力車、たまに車が行き交う。蟻が列を揃えて餌を運ぶ姿のようで、どれが父の車か判断するには難しい。

 垣根の前で横に並んだ二人は雲が視界の端から端に移る間、何も話さなかった。

 代わりとばかりに、蝉が命の限り叫んでいる。

 美冬が何を考えているか、いつも通りわからない秋人が息づく街を無感動に眺めた。


「自分が男だったらよかった、ていう考え、男のお前にはわからないでしょうね」


 ぽつりと落ちた言葉に秋人は何も言えなかった。男女の違いなど考えたこともない。


「男だったら戦に行けて、父様を助けることもできる。何をやっても、女だからと無駄に叱られることはないもの」


 女は家を守る、なんて誰が決めたの、なんで男に従うの。良妻賢母りょうさいけんぼてなんなのかしら。投票も政治も男だけじゃない。

 つらつらと美冬の口から熱のない言葉が溢れ出る。

 秋人が美冬を見れば、街を眺める瞳は凪いでいた。凪いでいるのに、深淵をのぞけば何かがくすぶっている予感がする。蝉と美冬の言葉が耳の奥で渦を巻き、鈍器で殴られるように頭がにぶく痛んだ。秋人は思考を投げ出したくなる。


「女でもやりたいことを、やりたいようにやっていいじゃない」


 美冬は感情を削ぎ落とした顔でこともなげに言葉を転がし、口を閉ざした。かつて見た、瞳を燃やし大人顔負けの気迫をふるった人とは思えない。

 やっと息を吸えた秋人は何もしていないというのに、体が重くなった気がした。守石のように何かを吸ったのだろうか。

 そうと思うのも束の間、美冬は顔を歪め、呻き声のように言葉を絞りだす。


「でもね。母様を困らせるようなことは、したくないのよ」


 その心を秋人は理解できなかった。

 今までの不可解な行動は母を安心させるためのものなのだろうか。意図が掴めない秋人は固まった表情のままで考える。

 母は美冬の健康を心配こそすれ、美冬の考えを頭から否定することはない。木登りも川遊びも笑顔で眺め、危ないからと怒ることはあっても、何処までもあたたかい人だ。

 遠くで空気を裂くような音が聞こえた。

 秋人の思考は止まり、音が聞こえた方へ顔を向ける。

 横に細長い屋根の下から黒い車体が顔を出した。汽車は街並みを縫うように進んでいく。戦に勇むつわものを乗せた黒い塊は止まることはない。

 唸るような音と煙のなごりを残して、汽車は彼方に消えた。

 美冬の顔色は長い髪に隠れて、見ることはできない。

 いつまでこうしているのだろうか。美冬と駆け抜ける時間では極めてまれな静寂が過ぎていく。


「せめて異能が使えればいいのに」


 美冬が呟いた言葉に秋人は激しく瞠目した。息をつめ、溢れだしそうになる言葉を寸前の所で飲み込む。蠢く何かが暴れださないよう、ぐっと腹の底に力をこめた。


⊹ ❅ ⊹


 鈴虫の声が聞こえなくなり、木枯らしが落葉をさらった。

 戦争をしている国とは思えないほど、岩蕗邸では穏やかな日々が過ぎている。近所の噂になるぐらいには美冬の無鉄砲さは姿を消していた。

 蕾もない木の枝を眺めながた母は縁側に並んで座った娘に問いかける。


「美冬。梅が『花の兄』と言われているのを知ってる?」


 美冬は首を振る。

 母は子供のように得意な顔で笑った。

 伯母は餅を取りに行き、深まる寒さを忘れるほどのあたたかい日差しが親子と秋人を照らす。

 秋人は火鉢の炭起こしをしながら、会話を小耳に挟む。


「春一番に咲く花だから、そう呼ぶんですって。梅が咲いたら、もう春になるのね」


 まだまだ先ね、と区切り、母は娘に肩を寄せた。髪が混ざり合うように頭をくっつける。


「じゃあ、花言葉は?」


 美冬はもう一度首を振った。二人の髪がわずかに乱れる。

 くすぐったそうに母から吐息がこぼれ、小さな手はか細い手に包み込まれた。


「いろいろあるけれど、私がいっちばん好きなのは『不屈』よ」

「ふくつ」

「何事にもくじけない、て意味ね」


 微笑む母を間近で見た美冬はもう一度、口の中で言葉を繰り返した。

 眉間にしわを寄せ、真剣に考え始めた我が子に母は愛おしそうに目を細め優しい声を紡ぐ。


「転んでも、倒れても、泣いてもいいの。自分に負けなければいいと母様は思っているのよ」

「……どうやって自分に負けるの?」


 娘の言葉に、なんて言えばいいかしらねぇと楽しそうな母は言葉を探す。


「自分が正しいと思うことを曲げることよ。自分に負けるっていうのは、信念を曲げるってことだと思うわ」

「あら、静江さん。いい答えね」


 伯母は毛糸でできた肩掛けショールを母にかけ、餅を秋人に渡した。

 まだ美冬は難しい顔をしているが、構わずに母は続ける。


「母様はね、美冬に自分らしく生きてほしいのよ」


 日差しよりも穏やかな声に異を唱える者はいなかった。



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