赤いきつねが食べたい。どうしても食べたい、今、ここで。

高羽慧

赤いきつねが食べたい。どうしても食べたい、今、ここで。

 階段から転げ落ちる夢に跳び起きた午前二時過ぎ、目覚まし時計を見つめて感じたのは空腹だった。

 ああ、小腹がへったなあって。


 スイーツ女子の小腹には洋菓子が収容される。

 そろそろオッサンのウェブデザイナーなら麺類だ。

 晩飯にカレーを食っていようが小腹は胃と別。入るところが違う。


 のそのそと蒲団をめくり、部屋の真ん中にぶらさがる照明のコードを引っ張った。

 眩しさに目を細めつつ、シンクの脇に置かれたビニール袋へ向かう。

 中味はこういう非常事態に備えて買った即席麺、赤いきつねである。


「我ながら準備万端だ。腹が減ると思ったんだよ」


 アパートでのボッチ暮らしには、独り言が必須だと思う。

 会社でも日がな一日、画面と睨めっこしていることが多く、意図して声を出すようにしないと声帯が退化してしまう。

 レジで声がかすれるなんてしょっちゅうだもんな。


 何となくラーメンより和食、緑より赤と決めて選んだきつねうどん。

 クタクタに疲れた金曜の深夜、ピリッと唐辛子を効かせたうどんが似合う。

 理屈じゃない。


 包装を力任せに破り、蓋を中ほどまで開けて薬味を取り出す。

 深夜食はメタボる?

 大丈夫だ、太らない程度には腹が減っているから。

 理屈じゃねえんですよ。


 まだ寝ぼけていたのだろう、パッケージを先に開けるのは悪手だった。

 湯を沸かさなければ。


 片手鍋を用意して、水道のハンドルをパンッと弾き上げる。

 蛇口から勢いよく水が……出ないな。

 ちょろちょろ垂れた水道水は、鍋の底を濡らしただけで止まった。


「なんでよ」


 これじゃジジイの小――。

 下品な喩えを頭から振り払う。およそ飯を食おうとする人間の発想じゃない。


 ハンドルをいくら上下に動かしても反応は無く、洗面所へ移動して別の蛇口を試しても同じだった。

 断水、そう判断せざるを得ないだろう。


「えぇ? そんな告知あったか? 水無しじゃ食えねえよ……」


 大家へ電話、それが普段なら正解でも、今は丑三つ時。

 修繕は明日になるだろうし、怒鳴られるのがオチだろうよ。


“水回りのトラブルならここへ!”


 ポップ体で書かれた宣伝文句が、冷蔵庫に貼られたマグネットの表面に踊る。

 念のために捨てずに取っておいた広告カードだが、頼んでいいものかどうか。

 二十四時間対応をうたっているものの、費用が万単位かかることも有り得る。

 大家が素直に肩代わりしてくれればいいが。


「……違うな。してくれればいいな、じゃない。させるんだ。強い意志が赤い未来を拓く」


 俺はうどんが食いたい。

 今、ここで。

 なら電話すべし。来たれ、直せ、食わせろ。


「えーっと」


 未だぼやけた目で、スマホを探して部屋を探る。

 疲れていた俺は、服を脱ぎ散らしたらすぐに下着で蒲団にダイブしたらしい。

 スマホは充電コードに繋がっておらず、枕元に放置してあった。


 拾ったスマホを片手に冷蔵庫へ戻り、マグネットに記された番号を入力する。

 カモン水道屋。カモンうどん。


『只今、担当者は不在にしております。御用の方は時間を改めて――』

「使えねえっ!」


 まあ、そこまで期待はしてなかった。

 断水について知ってるかもと、少し質問したかっただけだもの。

 まさか、うどん食いたさに深夜の修繕を頼んだりしないさ。

 ハハッ。


 ……くそっ、さっさと直せよ! 水が要るんだよ。きつねを茹で上げる水がな!


 そう、何も水道にこだわらなくていいと気づく。

 ホーム画面に並ぶブラウザのアイコン。こいつで注文すれば水を買えるじゃん。

 某アマのプレミアム会員だし。特急を利用すれば、確か半時間以内に届く指定もあったはず。

 水、水……美味しい天然水……。


 イチオシベストセラー水

『在庫無し』


 評価抜群水

『この商品の発送は3月15日予定です』


 誰が買うんだ悪評満載海外輸入水

『8時間25分以内に注文した場合、翌日午前中配送』


 今日は三月三日なんですけど。

 くそ寒い雛祭りなんですけど。

 使えねえっ!


 どこがプレミアムなんだよ。

 日が昇ったら断水も直るだろうよ。たぶん。

 今欲しいのに。

 深夜に、美味い、天然水を、迅速に届けるのがプレミアムの矜持だろうに!


「あっ、ヤバ」


 スマホが電池量不足を指摘してくる。

 ハナから数パーセントの残量だったのだろう、いきなりのシャットダウン警告に慌てた。


 メッセージ通知に目が止まり、開けたところで画面はブラックアウトする。

 会社の先輩からなのは分かったが、中身は頭へ入る前に消えた。


 いつのメッセージなんだ。

 帰宅中は来てなかったし、そのあとならロクな要件じゃなかろう。

 休日出勤の要請だとしたら、毎度のことながらうんざりだ。


 まあ、確認は電池がしっかりと回復してからでいい。

 うどんに悪い知らせなど不粋というもの。

 ともかくも、どうやって湯を手に入れるか。


 ボロ雑巾のように打ち捨てられたスーツに足を通して、襟の汚れたシャツを着る。

 自力で手に入れよう。


 コートを羽織り、マフラーをぐるぐると首に巻いた。

 このアパートの家賃が安いのには、当然の理由がある。

 駅から遠いのだ。

 てきぱき歩いて二十分ちょい、そして最短で行けるコンビニも駅前にしか無い。


 少し迷ったあと、蓋の開いた赤いきつねも持っていくことにした。

 新しく買い直すより、口を開けて待つ狐の想いに応えたい。


 ドアの外へ出ると、夜の冷気が容赦無く俺を撃つ。

 そこまでしてうどんを食いたいのか。


 錆び付いた階段を駆け降りると、甲高い足音が響いた。

 真夜中に出かける値打ちが本当にあるのか。


 ある。

 俺は四国出身ではないし、生まれてからこの方、足を踏み入れたこともない。

 しかし、この瞬間、俺の想いは全香川県人と重なった。

 うどんが食いたい。

 油揚げを携えた、人を温める純白無垢な麺を。


 意地である。

 神が水道管に細工をしてまで嫌がらせをするなら、俺はその宿命に抗おう。

 屈していいのはクライアントの注文と先輩の小言だけ。


 街灯もまばらなアスファルトの道を、蹴り跳ぶような早歩きで進む。

 にしても、本格的に腹が空いているみたいだ。

 ぐーと鳴りそうな腹具合に顔をしかめて、昨日の食事を思い返した。

 会社近くの一番なカレーを食べたってのに……。


「ああ。そういうことかぁ」


 カレーしか食ってねえや。

 昼飯だけじゃん。

 腹が空いた理由に納得した途端、もう食欲は暴発しそうなほど膨らんだ。

 家にはまだカニカマがあった。うどんを迎える準備として、小腹の別腹を満たしておくべきだっただろうか。


 いや、カニカマは出来上がったうどんへ投入すべし。

 カマボコ増量で神への勝利を祝ってやる。


 指先が冷え切る頃合いで、駅が道の先に見えた。

 赤い回転灯の光が目に飛び込み、首を傾げる。


 さらに近づくと、首の傾きはひどくなった。

 コンビニの看板、高く伸びた広告塔のポールが二十度くらい傾いていて、思わずシンクロしてしまう。

 店舗前の駐車スペースには消防車が止まっており、入場を妨げるようにロープが張られていた。

 構わず脇から抜けてコンビニに向かおうとしたところ、しっかり隊員に見つかって止められる。


「危ないから下がって!」

「あのっ……買い物がしたいんですけど」

「壁に亀裂が入ったんだよ。倒壊の危険があるから近づかないで」

「え? いや、お湯だけもらったら退散するので」

「早く離れなさい!」


 取りつくシマもなかった。

 神は本気だ。本気で俺からうどんを奪おうとしている。


「どうすんだよ……」


 他に開いている店などなく、利用できるのは自販機くらい。

“あたたかーい”飲み物に目が吸い寄せられたが、熱湯は売っていない。

 コンポタは実に魅力的だったものの、赤いきつねを蘇生させる素材としては最悪だろう。

 食えるかよ、コーン味のうどんなんか。


 せっかく外出までしたのに、踵を返して無為に帰宅するこの寂しさ。

 夜風が染みるとはこのことだ。

 意気消沈し、下を向いて歩いていたのがマズかった。


 無辜むこの自称若者を襲う悲劇。

 神罰の三連コンボ。

 後方からすっと近づいてきた救急車が、俺の横を過ぎるタイミングでサイレンを鳴らし始めた。

 そのサイレンに驚き、植木の陰にいた野良猫が飛び出してきた。

 猫に反応した俺は赤いきつねを落としてしまい、車道へと転がっていく。

 ジャストヒット。

 救急車の後輪がカップを轢き潰した。


「ああっ!?」


 なんということでしょう。

 狐は粉々に砕かれて轢死した。

 遠ざかるドップラーサイレンを葬送曲として、天寿を全うできなかった狐に黙祷を捧げる。

 許してくれ。

 神に負けた俺を許してほしい。


 呆然と歩くこと二十分、部屋に戻った俺はコートも脱がずに床へへたりこむ。


 その十分後、カニカマを食うと余計にうどんが食いたくなる現象について考察していた時だった。

 いきなり鳴り響く玄関ブザーに跳ね上がる。

 ドア開けると、知った顔が立っていた。


「先輩……?」

「大丈夫? メッセージは既読になったのに、返信が無いから心配したのよ」


 落ち着いて先輩の話を聞き、やっと世間の事情を知る。

 俺が起きた寸前、そこそこ大きな地震があったそうだ。

 何度か送ってくれたことのある先輩は、俺の身を案じて車を飛ばしてくれたらしい。


「怪我は?」

「無いです。すみません。腹がへったくらいかな」

「また食べてないんでしょ。参ったわね、非常食は持ってきたけども」


 手渡されたビニール袋を見ると、水とインスタント食品が入っていた。

“水”と、緑のたぬきが。


「た、食べます!」

「そんなにお腹空いてたんだ」


 電気は通じており、先輩はヒーターで水を沸かして狸をセットしてくれた。

 完成した蕎麦を受け取ると、強張っていた俺の手が温く緩むる。

 醤油の香りが優しく鼻腔をくすぐった。

 湯気越しに三つ年上の先輩を眺めつつ、待ち焦がれていた麺を掻き込む。


「ちょっと。泣いてるの?」

「……はい。美味くて」

「喜んでくれたならよかった」


 本当に美味い。最高だ。一つ引っ掛かるのは――。


「ねえ、昼もどこか食べに行こう? ちゃんとしたやつ」

「あ、はい」


 頬を赤らめる先輩が、どういうつもりかは知らない。

 だけど、「昼は赤いきつねが食べたい」と言うのは、さすがに俺も我慢した。

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赤いきつねが食べたい。どうしても食べたい、今、ここで。 高羽慧 @takabakei

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