第四節

 ユリアは旅に来られぬとルイスに告げると、彼はそれについては何も言わず、

『僕は果たすべきを果たすのみです』

 と告げた。

 その翌朝ユリアは部屋に篭もり、誰にも顔を合わせようとはしなかった。その後、モゼスがユリアと会うこともまた、なかった。

 ユリアはあれから部屋を出ることはない。使用人が運んでくる食事は口にしていたが、直接誰かと顔を合わせることはなかった。

 一人でいるユリアは、己の感情をどこかに置き忘れたような顔で、日がな曇り空を眺め続けていた。今この窓から抜け出たとて誰も止めはしないだろうと思いながら。

 空には雲が滞り、己の時間も永遠に止まっている。そのような錯覚に陥る。

 その意識を覚ます頃に、扉が叩かれる。

「ユリア、おりますか」

 イザベルの声。ユリアは窓の外を見るのをやめ、寝台の上にうずくまった。

「……入って」

 イザベルは扉を開け、部屋に入る。

 供はなく彼女一人であった。両手に持った角のカップをイザベルは掲げる。

「近頃は冷え込んでいますから、コーヒーを持ってきました。一杯、飲みませんか」

 ユリアは渋々とテーブルに付いた。

「コーヒー?」

「異民族から伝わってきた品にございます。市場にはあまり出回っておりませんが」

 カップに溜まった泥のような水を口にし、ユリアはほうと熱の籠もった息を吐く。

「いかがですか」

「……甘い」

「砂糖で誤魔化しているだけで、本来は苦い飲み物でございます。わたくしは、お酒よりもこちらを好んでおりますが……」

 カップを両手に包みながら楽しげに話すイザベルの顔を、ユリアはじっと見やる。

 なぜここに、という無言の問いだった。

 イザベルは眉根を寄せ、カップを置いた。

「心配しておりましたよ。調子は……あまり良からぬご様子でしたが」

 ユリアはそれに応えず、かぶりを振った。

「私……そろそろ、ここを出て行かないと」

「ユリア……」

「私はこの地にいてはならなかった存在だ。私は結界の塔を見た。あれは妖精を殺す毒を発するものだ。もしあの塔の機能が正常に働いていれば、今頃私は消えていた」

 過去に魔術師が栄えた頃、マナは変質し多くの妖精を死滅させた。魔術師が衰退し神話となって語られるようになった現在は、変質したマナは古きものとなり地上から消え去ろうとしている。

 アカネアの結界は古きマナによって成り立っていた。要となる塔はマナを変質させ古きマナを保つためのものである。

 それほどの深淵な事情をユリアは知らぬが、あれが妖精にとってよからぬものとは理解するのだろう。妖精を殺す毒。その言いようは、残酷だが真実であった。

「……左様にございます。しかし今、塔を封ずる呪いを解く手立てはございませぬ。いずれ、あの塔は滞る魔力に耐えきれずに自壊いたしましょう。その流れはもはや、止められるものではないのです」

 イザベルは席を離れ、窓辺から外を見る。その瞳には何を映しているだろうか。

「結界が失われた後のこの郷を守るためには、あなたのような方の御力が必要になるとわたくしは考えました。人と妖精とを問わない、勇気ある騎士の力が」

「買い被りだ。たとえ私がいなくとも、あなた達はこの地を守れたはずだ。私は勇敢でもない……何が正しいことなのか自信が持てないんだ」

 ユリアが訥々と話したことに、イザベルは唇を僅かに開き、引き結ぶ。

「……ようやく、あなたの本心に触れられた気がいたします」

 その呟きは些細なものだった。

「正義というものは単純ではございません。人の心が正義を象るはずが、時に非情にならなければ正義を為せないこともございます。そしてそのことに悲しみを覚えるのもまた、人の心でございます」

「私は人間じゃない」

「そうやもしれません。しかしわたくしには思えます。人と妖精の間にあるものとは些細な違いではないかと。強い力を持つか、そうでないか……その差は、人の間にもございます。そして強い力はより強い力に凌駕されます。二百年続いたオーデン家の結界は、命を賭した一人の魔術師の力によって破られました。そのこともまた、世の理だったと言えましょう」

 ユリアは椅子の上で己の膝を抱く。

「私は……怖いのかもしれない。イザベル、あなたの言う通りなんだ。人も妖精も、この世界にはたくさんいる。でもエルフは、きっと私一人だ……」

「わたくしがあなたの側におります」

 イザベルの声は、透き通っていた。

「わたくしはあなたに、残酷な運命を強いたのやもしれません。しかし、そうであれわたくしはあなたを独りにはさせません。あなたがそのことを、望まずとも……」

「そんな……そんなことはない」

 ユリアは椅子から立ち上がった。

 そう、望んでいたのだ。己に生きる実感をもたらすもの、ただそれのみが。

「あなたが私に勇者であることを望むなら、私はそのために戦う。それでいいんだ。だから私を、独りになんてさせないでくれ」

 今の己は、哀れに映るだろうか。それでも構わなかった。ただ、戦い続けるための理由がユリアには必要だった。

 姫君はその手を取り、優しく包み込む。

「ええ。約束いたします」

 その温度に触れ、己の心にかかった霜が融けていくような情動を、ユリアは微かに覚えていた。

「……ありがとう、イザベル」

 そして彼女は、胸の内にわたがまる不安を押し込める。

(大丈夫だ。きっと、この悪い予感も……)



「いったい、何が起きたのですか」

「吸血鬼は討たれた。やつと……モゼスと、刺し違えとなり……」

「……僕は、役目を果たせず」

「是非もない。やつは初めから、こうなると知っていただろう」

 カロンの城、中庭に立つ。

「今はあの悪鬼に、いかに抗するか」

 ドラゴンは吸血鬼の居館の天井を突き破り、翼を広げていた。

 なんたる巨躯。なんたる威容か。

 その玉体は完全な再生には至っていない。皮膚に鱗はなく、骨や臓腑は剥き出しとなっている。

 二対であるはずの角は一方が欠けたまま。しかし在りし日の姿は垣間見える。

 ドラゴンは妖精の王。妖精の上に立つ神。真の怪物であった。その存在が今、矮小なる人間の前に姿を露わにしている。

 その一声の咆哮に、騎士達は膝を屈した。

「精気が……吸われておる……ただ、そこに在るというだけで……!」

「吸血鬼はあの怪物を甦らせるために、血を……」

 ルイスは強いて前に進み出る。

「ドラゴンを、封印いたします」

「無茶を言う!」

 既に異界の門は顕現した。

 無尽の荒野の幻が城に重なり、ドラゴンを封じんとする。

「時は稼げましょう。その間にロバート卿はお逃げください」

「馬鹿な……! 貴殿をここに留めるなど」

「もはや一刻の猶予もございません。イザベル様に報せを。どうか……お達者で」

 ドラゴンは抵抗せず異界へ呑み込まれた。

 門は閉じ、ルイスはその要、番人となる。もはや誰の声も彼には届かぬ。

 荒野はどこまでも遠くに去り、気が付けば、ロバートは城の外に立っていた。彼は地面を殴る。そして槍を杖にして立ち、歩き始めた。

 精気の欠けた騎士を死に誘うかのように、野犬の群が彼を追いかける。

 ロバートは無心で槍を振るい、飢えた獣を斬り捨てながら野を歩んだ。

「姫……様……」

 やがて彼は道端に倒れ、その場を一歩とて動けなくなる。



 ロバートは夢を見た気がする。まだ彼が、従騎士として城に仕えていた頃の夢だ。

『ロバート……死ぬということは、いったいどのような心地でございましょう』

 そのようにイザベル姫は訊ねた。

『そこに救いはございますか』

『答えかねます。それがしが死したならば、答えも得られましょうが』

『お父様は亡くなられました。しかし、答えは返ってこないのです。どれほど祈っても……。あの方は、眠りに付いてしまったのですね』

『姫……』

 その頃、先代の領主がこの世から去った。

 イザベルは父を慕っていた。しかし彼は、異民族との戦によって死に果てた。

『明日からはエゼル様が領主になられます。あの御方ならば、父君の代わりに姫様をお守りいたしましょう』

『お兄様が……しかし、あの人は』

 エゼルは長く修行の旅に出ていた。その理由をイザベルを知らぬ。

 エゼルは罪を犯していた。王の御前試合でカロンのノースモア家の若者を、誤って殺したのだ。彼らは友であり、互いに切磋琢磨する間柄であるがゆえに起きた悲しき事故であった。

 そしてイザベルは、両家当主の示談によって十二の歳にノースモア家に嫁ぐことが決まっていた。実質的な人質である。オーデン家に属す者は彼女と顔を合わせることすら敵わなくなる。たとえイザベルがノースモア家でどのような扱いを受けることになろうと、関与はできぬのだ。

 イザベルは未だ、己の運命を知らぬ。

 彼女は家に戻らぬ兄のことを、嫌っていただろう。しかしエゼルは深い自責の念を抱いていた。己の罪と向き合い、いつしかイザベルと再会するための旅であった。

 ロバートはそのことを知り、またエゼルに共鳴もしていた。彼がアカネアに戻る日まで、そしてその先もイザベルを守り通すと誓っていたのだ。

『それがしもお付きしております。どうか、涙をお拭いくだされ。姫』

『あなたも、いずれは戦に出ましょう』

『それは……』

 ロバートは言い淀む。

 イザベルは涙を拭い、最初の問いに立ち返った。

『わたくしは思います。死を迎えるときは、自らが慕った者の刃にかかって死にたいと。きっとその心地は、痛みや苦しみなどではないはず』

『何を仰せにござるか。そのように簡単に、死ぬなどと言いますまい!』

 ロバートが叱責するとイザベルは肩を跳ねさせ、少し罰が悪そうな顔をした。

『ごめんなさい。わたくしはただ、戦などなくなってしまえばいいのにと思っていただけのことです。これはきっと、誰もが抱く思いではございませんか』

 イザベルは幼くから利発な子供であった。しかしこの頃はまだ、純粋な子供らしさとて持ち合わせていたのやもしれない。

『わたくしは死が嫌いです……。ロバート、あなたは死んではなりませんよ。わたくしはそのようなあなた、見たくはございません』

 そう、頬を膨らませて言ったものだった。

 ロバートはその記憶を長らく忘れていた。

 目覚めても、その声が消えることはなかった。



「お目覚めかね」

 ロバートはクラウスの屋敷にいた。頭痛が酷く、視界が定まらない。

「貴殿……は……」

「よく意識を取り戻せたものだ。もう三日も眠っていたのだがね」

「三日、も」

「無理に喋らない方がいい。余程恐ろしいものを目にしてきたのだろう」

 クラウスは淡々とした調子で言っていた。

「猟師がここにあなたを運び込んでからは、随分とうなされていた。竜が、竜がと」

「…………」

「すまない。何があったのかは聞かぬとも。今はただ体と心を休めるといい」

「そうにも、いかぬ」

 ロバートは強いて寝台から身を起こした。

「おじさん!」

 と、不意に部屋に押し入ってきたのはルカだった。

「誰がおじさんだと。それがしはまだ……」

「ルイスは、どこに行ったの」

 言葉に強く頭が揺さぶられるようだった。ロバートは額を抑える。

「ルイス殿は、城に取り残されている」

「……なんで、そんなことに」

「今は、助けられぬ。一度アカネアへ戻らねば……」

「どうしてなの」

「すまない……今は一人にしてもらえぬか。やはり、疲れているようだ……」

「ルカ、下がっていなさい」

 クラウスに咎められると、ルカは肩を震わせ、部屋を飛び出していった。

「すまぬ」

「娘とて、分は弁えている。吸血鬼の城まで行くような真似はしない」

「……左様か」

 ロバートは寝台に身を沈める。

 三日。その時間がどのような意味を持つか考えた。既に三日、ルイスはドラゴンを抑え続けているのか。猶予はどれほどある。

 そのとき、大きな空気の唸りを聴いた。

「魔獣の声か……」

 部屋を去ろうとしていたクラウスは眉根を寄せた。

 声。そう、これは声だ。何者かの叫びだ。ロバートは起き上がった。

「それがしの槍はどこだ!」

「そこに立てかけているが。念のため魔法で刃を修復しておいたが、不服かね」

「感謝する!」

 ロバートは槍を持ち、外の様子を確かめるべく屋敷を飛び出して行った。

 既にその日の夕刻が迫っていた。三日の間に何が起きた。果たして、ルイスは。

 あの影は、なんだ。

 夕焼けを背に、巨大な怪物が両翼を広げて大空を舞っている……。

 それは絶望に足る光景であった。ロバートは愕然とし、地に膝を突いて仰ぎ見た。ドラゴンが村に降り立つその間際を。

 家屋が風圧に吹き飛ばされ、村人は恐慌に陥り逃げ惑った。

 ドラゴンは畑を踏みにじり、咆哮を上げる。

 恐ろしい光景のただ中、ロバートは呆然として逃げ遅れているルカの姿を見た。

「無事か、娘!」

「なんなの……なんなのあれ……」

 竜の顎に炎が込み上がる。

 その息吹が放たれればこの村は、カロンの民の最後の居場所が、失われる。

 だが、忘れてはならない。この村には。

「……ゴーレム……ガレス」

 ロバートはその名を口にする。

 頭を覆い身を震わせていたルカも、差した巨人の影に顔を上げた。

 独りでに動き出した石の巨人はドラゴンの息をその巨体によって受け止める。

 巨人の拳はドラゴンの顎を殴る。ドラゴンの首は、巨人の横腹を殴り付けた。

 異様な光景であった。これは人の歴史には類を見ない戦。神話の断片の如き一幕。決して、只人が目の当たりにしてよいものではなかった。

「うーん……」

「ルカ殿! しっかりといたせ!」

 泡を喰って気絶したルカを揺すりながら、ロバートは戦いの行方を見守った。

 ガレスは二度目の拳をドラゴンの脳天へと叩きつけた。ドラゴンは巨体を揺すり、粉塵を巻き上げながら大地に倒れゆく。

 そして沈黙した。

「やった……のか」

 ロバートが呟く。

 倒れたドラゴンの身に、奇妙な変化が起きた。山の如き巨体が縮んでいき、一人の人間の姿を現す。

「……馬鹿な」

 そこに立つ者の姿にロバートは瞠目した。

「ルイス殿」

「ルイス!?」

 ルカはその名を聞いて身を起こした。確かにそこには、彼の姿がある。

「ルイス、戻ってきたんだね! よかった、無事で……」

「師匠……僕は、僕はッ!」

 少年は顔を覆い、気が狂ったように頭を振りながら慟哭していた。

 さしものルカも動揺し、半ば冷静になって問うてくる。

「ねえ、どうしたの……彼……」

「わからぬ。ドラゴンが、ルイス殿に変わった……。このような馬鹿な話があるか。何がどうなっている!」

「あそこだッ!」

 ロバートの耳に怒声が届いた。

 振り返れば鉄の鍬や槍で武装した男達が、集団で押し寄せてきている。

「俺は見たんだ! ドラゴンが、あの奇妙な格好の男に変わるところを!」

「恐ろしい、邪悪な黒魔術師に違いない!」

「殺せッ!」

 罵声を飛ばしながら男衆は殺到しようとする。

 その前に、ルカは立ちはだかった。

「待ちなよ!」

「どうした……ルカ。そういや村長の家に、おかしな連中が出入りしていたな……」

 男達の眼はぎらついていた。

「俺は見たぞ。あの魔術師の姿もあった」

「やはり! 前から村長は、何かおかしいと思っていたんだ。使用人の女が怪我を……」

「……っ黙れ!」

 ルカは地団駄を踏む。もはや彼女はなりふり構わなかった。

「お父様を悪く言うのか! 行く当てのないお前らを村に受け容れたお父様を!」

「だが、村長があの魔術師を!」

「魔術師だからなんだっていうんだ! 相手が若い男と見たら勇んで出てきやがってこの玉無しどもが!」

「なんだとぉ……!」

「ルカ! お前はいつからそんなに口が悪くなった!」

 村人達の汚い罵り合いを背にしながら、ルイスは静かにその場を去っていった。

 ルカは喉が潰れそうなほどに叫んでいた。顔は赤くなり、濁々と汗に濡れながら、どうしようもない怒りに身を震わせていた。

「ルイスはかの賢者の弟子だ! 私達のために戦ってくれた勇者なんだッ! 誰も、誰も酷いことを言うな……ルイスは、ドラゴンなんかじゃないんだ……!」

「もう、もういい、ルカ殿!」

 ロバートは震えるルカの肩を掴んだ。

「あの少年はそれがしの連れだ! 言うべきことがあればそれがしが承ろう!」

 男衆はたじろぐ。

「なんだあの男は」

「騎士だ……」

「騎士がなぜこんなところに」

「どうした、皆。騎士を前にしては狂気も覚めるかね」

 そう言ったのは、村長クラウスであった。長の姿を見て、徐々に男達のほとぼりは治まってゆく。

「あ……村長、これは……」

「怪我人はいないか。それは重畳。これ以上面倒は起こさないでくれたまえ」

「お父様!」

 ルカは父親の元に駆け寄り、男衆に対して舌を出した。

「そ……村長、あんたが前に連れ込んでいた魔術師が、ドラゴンになって村を襲ったんだ。こいつは一体、どういうことだ」

「私が連れて来たのではない。彼らは旅人だ。この場はそこの騎士に埒を任せよう。それが諸君への謝罪にもなるはずだ」

 そのように話は運んだ。村人は不信がりながらも村長の言葉を重んじた。ロバートはクラウスに礼を述べ、走り去っていった。



 ロバートは走った。ルイスを捜して、森に分け入り、陽が沈むまで彷徨い続けた。

 彼はやがて沼に辿り着く。

 夜の雲間に、月がぼやりと浮かび上がる。闇に包まれた森の中で、その沼だけは天蓋に遮られず月の淡い光に満ちた。

 沼の中心に、少年は腰まで浸かっている。湖で沐浴する妖精の貴婦人のように。

「ルイス殿!」

 ロバートは強く呼びかける。

 ルイスは静かに首を振った。

「戦いは終わっておりませぬ、ロバート卿」

「何を言う。何が起きていると言うのだ!」

「僕は異界における永劫の時の中で戦いを続けました。百の死を重ね、霧散しようとするこの魂は今、ドラゴンに憑依を果たされてございます」

 暫しロバートは息を忘れた。

「ドラゴンが欲するはこちらの世界に己を存在させる強度。地上の民の魂そのもの。かの怪物はすぐにも表へと現れましょう。今は辛うじて体内に封じ込めているのみ。それにももはや限界が……」

 沼が真赤へと染まってゆく。

「お逃げ……ください……」

 沼底の泥は人の形を成して立ち顕れた。水面より這い出るそれは新たなる生命体と呼ぶべきもの。不死の民とは異なる形で生まれた、真祖の分身であった。

 泥人形は数多の群を成しロバートを襲った。騎士に許されたのは逃げの一手のみ。木々の間を縫って襲い来る尋常ならざる数の敵を避けながらひた走る。

(すまぬ……すまぬ、ルイス殿!)

 ロバートは敵の目を避けるべく崖下に跳び降りて移動した。土地勘がないため道は生憎わからぬ。朧な月明かりと己の幸運に頼って森を抜ける他になかった。

 道中、ロバートは分散したと思しい泥人形の小群と遭遇した。やつらは森に棲まう生物の血を手当たり次第に抜き取っているようで、精気を失った獣たちの無惨な死骸が辺りに散らばっていた。

 ロバートは槍を振るい、群を突破して森から抜け出る。村には既に多くの泥人形が殺到していた。

 猛りを上げ騎士は泥人形に槍を突き刺す。火中に飛び入ってきた獲物に襲いかかる人形の群は、槍の一振りにて斬り払われた。

 ロバートは逃げ遅れた村人に声をかける。

「無事か!」

「あんた……あんたぁ……」

 建物や物陰から泥人形は次々に姿を現す。ロバートは舌打ちした。

「ロバート卿! こっちだ!」

 聞き覚えのある声だ。

 村人を担ぎ上げ、ロバートは声のする方へと走った。木陰から姿を見せた村長は、彼らを逃げ道へ誘導する。

 森の中の小高い丘に村人は集まっていた。そこは村長が簡易な結界を敷いており、怪物達の目を晦ませているという。

「なぜゴーレムは俺達を助けてくれなかったんだ!」

 村の男が地面に拳を突く。村長クラウスは首を振って答えた。

「ガレスは自己修復に入っている。ドラゴンの炎を受けた負荷は相当なものだったのだろう」

「クソッ!」

 村人の悪態はロバートの耳に悲痛に響いた。彼らに落ち度はなかったのだ。誰にも滅びは避けられなかった。

 周囲を見回せば、木の根元に座る若い娘の姿が見える。

「ルカ殿も無事か。しかし、使用人の姿が」

「ホリィは……ホリィは、私を庇って……」

 がちがちと歯を鳴らしながら、ルカはそう恐ろしげに口にしていた。

「彼女には、悪いことをした」

 クラウスは呟いた。ロバートは瞼を瞑る。

 このようなことがあっていいのか。貧しい村にあったものは善も悪も等しく滅びの波にさらわれた。ここはまことに人の世なのか。

 否……ロバートは違いなく人の栄える世に暮らしてきた。

 それは彼が戻らねばならぬ場所だった。だが……。

「アカネアへ逃げよ……!」

「ロバート卿、何を」

 ロバートは帯に差した短剣を鞘ごと外し、クラウスに見せた。柄にはオーデン家の紋章が刻まれている。

「これを目にすれば、アカネアの者は理解する。姫君が許したならば、貴殿らは町に通されよう」

「……そういうことか。すまない、厚意に甘えよう」

 クラウスは短剣を受け取り、高く掲げた。

「聞いたか、諸君! これより、我々はアカネアへと向かう!」

「アカネア……!」

 村人達の間にざわめきが広がる。ある者はそこに希望を見、ある者は反発した。

「まともな町が俺達を受け容れてくれるはずがない。不当な扱いを受けるに決まっている……」

「駄目だ! 俺は村を捨てられねえ……! あそこには妻が眠っているんだ!」

「気持ちはわかるとも……」

 クラウスは顔をしかめた。

「村長、ならばどうして!」

「皆、思い出せ。我々は不死から逃れて余所から来る者を受け容れ、皆で助け合って今日まで生き延びてきた。人こそがこの村の本懐ではないか。私は村長として、皆と共に生きることを願う。どのような形であれど、この村は生き延びるのだ」

 父の演説を聞きながら、うずくまるルカは僅かに面を上げる。

「お父様……」

 慣れ親しんだ土地を捨てていくことを惜しむ者は当然、多い。時間をかけ皆は決意を固めていき、無言の内に同意した。

「……ならば、それがしはやつらを引き付けて参る」

 ロバートは槍を携え結界の外に踏み出す。

「ロバート卿……すまない。我々のために」

「それがしは死なぬ。騎士ゆえに。姫様へ、すぐには戻れぬ由を伝え願いたい」

「……承った」

「いずれ会おう。達者にて」

 騎士の背は木々の間に紛れ消えていった。



 村人達は災禍から立ち上がり、アカネアへ歩を進める。苦難多き旅路となった。

 泥人形は行く先々に群を成していた。クラウスは持てる力を尽くして無暗な戦いを避けていったが、犠牲は少なからずあった。しかし皆、後戻りが敵うとは考えなかった。二日が過ぎアカネアの町が見えてきたとき、村人は互いに喜びを分かち合った。

 ロバートから受け取った短剣を衛兵に見せると、すぐさま姫君に取り次がれ、彼らは入城することが敵った。

 城下には既に泥人形が現れているようで、民は建物の中に息を潜めている。

 被害の及んだ区域から避難が進んでおり、城の中庭には難民用の野営地が広がっている。外から来た難民も少なからずいた。村人達も同様、そこに加わることとなる。

 クラウスは姫君に呼ばれ謁見が敵い、ここに至るまでの経緯を詳らかに明かした。ロバートが彼らを逃がすため、村に留まったことも。

 イザベルは祈るように瞼を伏せた後、彼に問い掛けた。

「ロバートの同行者に老いた騎士もいたはずですが、姿を見ておりませぬか」

「は……吸血鬼の城に向かってからその姿は見ておらず」

「左様にございますか……」

 イザベルの表情は疲れ切っていた。

 クラウスはその姿を痛ましく思う。

 彼はイザベルのかつての姿を知っている。疫病が流行った際、領主たるノースモア家に呪術医として呼ばれたことがあったからだ。

 吸血鬼が現れて後、イザベルがどのようにカロンから生還したかは知れぬ。しかし今、その生存を彼が喜ぶことは敵わなかった。

 イザベルは幼くなっている。果たして、どのような呪いか。その幼きままに玉座に座している彼女の姿は、異様にすら思えた。

「イザベル姫よ……」

「……? どうかなさいましたか」

「いえ……失敬。詮なきことにて」

 己が関わるべきことではない、とクラウスは思い直す。

 イザベルは訝しんでいたが、笑みを作って話を続けた。

「様々な情報を伝えてくださり、まことに感謝いたします。カロンの人。村の方々と共に、この城で足を休められるとよいでしょう」

「はっ……この御恩は生涯忘れませぬ」

 深く頭を下げ、クラウスは退室した。

 その通路で彼は二人組の騎士とすれ違った。片方は金髪の娘。片方はフードで顔を隠した、陰気そうな少女であった。



 謁見室に上がった女騎士マーレは、跪いて言にする。

「避難区画に残る怪物の掃討を終えました。民は皆、姫様のご尽力に感謝しておいでです」

「あなた方の功績と存じます、マーレ。それに……」

 マーレの隣に立つ少女に、イザベルは首を巡らせた。

「ユリア。あなたの力まで貸していたたき、どうお礼を申したらよいものか……」

「言ったはずだ。あなたが求めるなら、私はいくらでもこの力を貸す」

「……そうでしたね」

 イザベルはやや表情を昏くする。ユリアは正式にオーデン家に仕えている騎士ではない。無理をさせたくはなかった。

「しかし、不思議でございます。あの怪物達は一見して泥の人形のように見え、人の血を求めており、また、剣で斬り付ければ血を噴き出します。あれも吸血鬼の眷属にございましょうか」

 マーレの問い掛けをイザベルは否んだ。

「カロンの村人から聞きました。かの地にはより恐ろしい悪鬼がおります。泥人形はその眷属と思しいかと」

「より、恐ろしい悪鬼。それはいったい」

「ドラゴン。恐らく、吸血鬼すらその手先に過ぎなかったでしょう」

 イザベルはクラウス村長の話を交え此度の事象の筋道を見出していた。明白であるのは敵は強大であること。果たして、どこまで抗えるか。

 そのとき、兵士が謁見室に上がった。

「コナー卿が目通りを願っております」

「通しなさい」

 騎士コナーは怪我を治したものの、脚を悪くして妙な歩き方となっていた。しかし騎士としては申し分ない程で、変わらずにオーデン家に仕えることが敵っている。

「言上仕ります。早馬にて王都に辿り着いたミック卿より、報せが参りました」

「それで、なんと」

「支援は受けられぬとの由」

 イザベルは無念そうにして頷いた。

「戦の最中です。仕方なきことでございます」

「はっ。しかし、もう一つ報せが」

「申してください」

「戦が終結し、官軍は王都に凱旋するとの由。蛮族は敗走し、連合軍の勝ちと相成りました」

「……左様でございましたか」

 イザベルは静かに瞼を閉じた。この玉座を兄に返す日も近い。

「ミックは王都に残り、兄上と合流し急ぎアカネアへ戻るよう伝えさせてください」

「承りました」

 コナーは素早く謁見室を立ち去った。

 イザベルは息を吐き、玉座に深くもたれる。

「兄上が騎士を率いて戻られれば、怪物への対処も容易になります。それまでの辛抱です」

「……閣下は、私がいることを許してくれるだろうか」

 ユリアは不安を隠さずに言葉を零した。

「わかりません。しかしお兄様は優しい人。今こうしてアカネアを守ってくださっているあなたを、決して悪くはいたしません」

「そうだといいな」

 すぐ後に起きたことを思えば、それは呑気に過ぎる憂慮であった。

 アカネアには確実に滅びの足が迫っていた。領主が戻るより遥かに速く。

「……? あれはなんだ」

 そう零したのは城壁に立つ見張りであった。

 平野を歩む黒い泥の絨毯。それは違いなく。

「姫君に伝えろッ!」

 報せは矢のように伝わった。姫君の御前に兵士が跪き、言上奉る。

「姫! 火急にございます。泥人形の群が、城に向けて進行しております!」

「落ち着いて伝えてくださいませ。数は」

「数は、千にも昇るかと……!」

 見開かれたイザベルの瞳が、大きく揺れた。

「姫様、下知を。我々にご下知を!」



 その夜までに、でき得る限りの城下の民を城に収容し終えた。

 その間にも多くの犠牲が出た。雪崩れ込む泥人形に抗しきれず、兵士は撤退せざるを得なくなり、少なからぬ民が取り残された。

 泥人形は城下に蔓延り、数日前まで人々の声に賑わっていた城下町を、沈黙の世界へと塗り替えていた。

 城の外には地脈を利用した結界が張られ、辛うじて泥人形の侵入を阻んでいる。

 しかし、結界を持続させる限りイザベルの魔力は消耗される。長くは持たない。

 人々は城の中庭で滅びのときを待つ。

 イザベルはマーレの腕に寄りかかりながら、町を見降ろした。

 地獄がある。もはやそこは、人の生きる場所ではなくなった。

「姫様。大丈夫です」

 辛そうなイザベルの肩を抱き寄せ、マーレは呼びかける。

「大丈夫ですよ。私がおります。それに……」

「イザベル。私もいる」

 ユリアの声は力強かった。

「左様。恐れることは何もございませぬよ」

「……そうですね。マーレ。ユリア」

 それも虚しい励ましなのだと、イザベルはわかっていた。この状況は覆せない。

 人はいつしか滅びる。たとえ如何なる栄華を誇った種族であろうと滅びは来る。

 カロンは滅びた。アカネアもそうなると、なぜ思わなかったのか。人は皆、緩やかに等しく滅びに向かっているではないか。

 寧ろ、アカネアは長く繁栄し過ぎていた。超自然の力に頼り人を守護し、それでもなお運命はあるべき地点へ揺り戻してくる。

 それらも全て、過去から紐づけられし因果であった。アカネアはかつて、この地に住まう妖精達を滅ぼすことで成り立ったのだから。

(それでもせめて、死すときはこの地に……)

「姫!」

 呼びかけたのはコナーであった。

「ここにおられましたか。やつが……いえ、ロバート卿が目通りを願っております」

「……!」

 イザベルは声を忘れた。

「……今、お連れを」

「いや、案内はいらぬ」

 覚えのある声にイザベルは虚ろだった瞳を瞬かせる。

 声の主とは無論、騎士ロバートであった。

 血塗れで跪く騎士に、イザベルはか細い声をかける。

「……よく、戻ってきました。ことの次第はクラウス村長より聞いております」

「はっ……。あの後、それがしはルイス殿の行方を捜っておりましたが見つからず。帰参が遅れ、面目次第もございませぬ」

「あなたは、あなたのすべきことをなさいました。しかし、もうよいのです。もはやこの地は」

「……姫様。いえ。よくぞ、ここまで耐えてくださりました」

 ロバートは面を上げる。

「どうかこの地から、お逃げくだされ。それがしは残る兵士を指揮し、最後まで抵抗いたします」

「し、しかし……」

「しかし、この地は滅びるやもしれません。たとえそうであれ、あなたは兄君と合流し、共にこの地を再興させることが敵いましょう」

 イザベルは、開いた口が塞がらなかった。それが己の役目だというのか。この地で戦う者達を見捨てて行くことが、希望に繋がるのか。

「姫様。かつてのお言葉を覚えておいでか。戦で死ぬなと、あなたはそれがしに言いつけなすった」

「……そのようなことも、言いましたか」

「それがしはそれを違えるつもりなどござらぬ。しかしそれは騎士として戦い抜き、ようやく意味を成すこと。どうか承服を」

「我々も手をお貸しいたしましょう」

 町長の声である。暇を持て余した町の男達が、彼の後ろに大勢集まっていた。

 そしてその中には、カロンの村人の姿もあった。町長と並び立つ村長クラウスが、イザベルに頭を垂れる。

「私どもも、微力ながら。私は魔術師です。この結界を保つことも敵います」

「それは……オーデン家に属さない魔術師に地脈を明け渡して、よいものか」

 イザベルは惑いを見せた。

「姫様。この者が妙な動きを見せたならば、それがしが首を刎ねます」

 ロバートは決然と述べていた。クラウスは肩を竦める。

「信用していただけるのはありがたいが」

 村人の中にはルカの姿もある。彼女は一歩前に進み出た。

「姫様……。お父様は、悪事を働けるほど大した魔術師ではございません。どうか、そればかりは信じていただきたく存じます」

「あなたは……あなたも、戦うおつもりで」

 イザベルには意外だった。騎士でもなく、魔力も感じないただの村娘であった。

「不慣れですが、弓を使います。あの怪物達は使用人を殺しました。何も仕返しできないまま、死にたくはないんです」

「……左様にございますか」

 皆、滅びに抗おうとしている。

 イザベルはこの者達の希望を背負って行くのだ。背を向け、全てを捨てて逃げるのではない。

「承知いたしました」

 それこそイザベルという者が負える役目。

「お兄様を迎えに参ります。そして必ずや、この地に戻ります」

 彼らの選択がどれほどの困難であろうと、もはやイザベルはこのようにして答える他にないのだ。

「マーレ卿。そして、ユリア殿。そなたらに姫様の護衛を願いたい」

 ロバートは進言した。

 マーレはやや沈思して、述べる。

「私は戦わなくてよいのですか。このまま、皆死んでしまうのでは……」

「卿は確かに強い。しかし我々とて簡単には死なぬ。何よりも姫をお守りし、王都に辿り着くことこそが大事だ」

「御意に。それがこの地を救う道であれば」

「私も異存はない。けど」

 ユリアは困惑を隠せずにいた。

「アカネアに残る戦力は、これだけなのか。ルイスと、モゼスは一体……」

「…………」

 ロバートは、彼らの結末を伝えた。

 モゼスが吸血鬼と相討ちになったことを。

 ルイスがドラゴンに憑依され、いずこかへ消えたことを。

「ルイス殿は、まだ助け出せるやもしれぬ。しかしモゼスは……」

「……わかった。残念だ」

 ユリアは人の死を悼む心を学びつつある。それが道義だからではなく、ダリウスの死に己が悲しんでいたことを自覚したからだ。

「ユリア殿……。そなたは、生き延びられよ。姫様と共に」

 その言葉に、ユリアは答えたのみであった。

「元から、そのつもりだ」



 縄をイザベル手ずから切り離せば、小舟は水路に浮き、流れ始める。

 水の流ればかりが耳に心地いい。城内から続くこの地下道は外堀へと続いていた。やがて小舟は岸に辿り着き、一行は地面を踏んだ。

 外の夜闇は地下道と遜色ない。カンテラの明かりを頼りに、一行は岩山に築かれし城の裏手を歩んだ。

「……静か」

 イザベルはそう零した。

 不気味な気配はあちらこちらに漂っている。ユリアとマーレは姫君の脇を固めた。

 草陰から泥人形の群が飛び出すと同時、二人の騎士が持つ魔剣の光が夜闇に残像を描いた。泥人形はすぐさまに斬られ残骸と化す。

 しかし、数が多い。様子を伺っている。

「走ろう!」

 ユリアが先行した。殿を務めるマーレは露払いしつつ後を追う。

 しかしユリアは突然足を止め、なりふり構わずに凍結の魔法を放った。周囲に潜む数多の泥人形が氷漬けとなり、沈黙する。

「あまりに数が多い。今の内に……」

 泥人形の一体が氷を割り、氷片を飛ばした。イザベルは咄嗟にそれを防ぐ。

 ユリアは思念により氷ごと泥人形を砕いた。

「無事でございますか、姫」

 マーレは姫君の身を案ずる。イザベルの腕からは赤い血が垂れていた。

「ええ。このくらいの傷であれば、魔力で治ります」

 イザベルは気丈に言った。

 まだ城を出て間もない。無事にアカネアを脱せるものか。しかし、引き返すことももはやままならない。

 一行は王都の方面である南を目指した。

 夜の街道は静かで、川の流れが耳に纏わりつく。

 幸いにして泥人形はまだ南へは広がっていない。城が盾となっている。

 しかしその道程は、順調には進まなかった。

 あるときイザベルは足がふらついて、傍を歩くマーレに寄りかかった。

「姫。やはり、先程の傷が……」

「大事ございません。平気です」

 ユリアは妖精の目を凝らし、周囲を見回す。

「少し遠くに牧場が見える。納屋を貸してもらおう」

 その農家の主人は避難もせず牧場に留まっていた。「城は牛の面倒までは見てくれんだろう」と老爺は言う。彼は突然訪れた旅の一行に渋々と納屋を貸した。

 イザベルはユリアに借り受けた外套のフードを目深に被りながら、その老爺に頭を下げた。姫君とは気付かれていない様子であった。

 乾いた草が敷き詰められた納屋でユリアはひと心地つく。しかしイザベルは未だに具合を悪そうにしていた。見るからに顔が赤い。

「平気には見えない」

 ユリアは雑嚢から薬品を探った。

「姫様……」

 マーレが気遣わしげに手を伸ばす。

 イザベルは強かにその腕を掴んだ。

 その力に、思わずマーレは目を瞠った。

「姫様、ちょっと、痛……」

 牙が、剥かれた。

「お許しを、マーレ!」

 その襟首を掴み、ユリアは姫君を投げ飛ばした。

 柔らかな草の上に投げ出され、イザベルはわけもわからぬまま起き上がった。

「ユリア、何を……!」

 ユリアはイザベルの頬を張る。

 冷たい音が、納屋に響いた。

「痛い……」

 イザベルの目に、じわりと涙が浮かんだ。

「なにゆえ、このようなことを」

「自分が何をしようとしていたのか、わからないの」

「わたくし……は……」

 己の口元を覆い、イザベルは言葉を失う。

「……そんな」

 イザベルはアカネアに戻って間もなくの頃、不死と呼ばれていた記憶がある。

 不死とは死を超越した者。老い衰えぬ者のこと。

 あるいは、死に損ないのことであった。

 イザベルは吸血鬼の眷属になったのだと、民の間で一時期囁かれていた。

 その悪評は、民に対するイザベルの献身によって、徐々に潰えていった。

 いつであれ、貴族として己の役目を全うしてきた。たとえ、どれほど己に向かないことであってもやり果せた。

 それがイザベルという人だった。イザベルは己の存在を確かめるように、両の掌を見つめる。

「あれ……なぜ、なぜ、わたくしは」

 なぜ、と問い掛けるたび、心が重い槌に叩かれ、砕けていくようだった。

 ユリアはイザベルの体を強く抱きしめた。

「ごめん、迂闊だった……! 泥人形は氷に血を塗ってイザベルに送り込んだんだ。吸血鬼と同じように!」

「そ、それはおかしゅうございます!」

 マーレが即座に疑問を呈する。

「多くの民が泥人形に襲われました。しかし、左様なことをする泥人形は今まで見ておりません。なぜ今更……なぜ、姫様だけが!」

「しかし、現実に……!」

 状況は混沌としていた。思考が纏まらない。

 イザベルは体を震わせていた。

「血……血を……!」

「……イザベル」

 ユリアはかぶりを振った。今のイザベルはいかにも苦しそうだ。

 ユリアはおもむろに袖を捲ると、己の歯で腕を噛み、皮膚を破った。

 赤い血が傷口から溢れ出す。イザベルは眼を剥いた。

「これを、飲んで」

「え……」

 イザベルは光と困惑の色が混じり合う瞳でユリアの顔を見上げた。

「あ……し……しかし……」

「なりません! それでは、ユリアさんが」

「大丈夫」

 マーレの危惧をユリアは否んだ。

「吸血鬼が血を求めるのは、恐らく魔力の源とするためだ。妖精の血を取り込む方が早く満たされるはず。私なら、耐えられる」

「いいえ……いいえ、たとえそうであったとしても、あなたがそこまでのことを」

 耐えるイザベルの声が痛ましく、ユリアは顔をしかめる。

「あなたは既に限界なんだ。私よりも遥かに多くのものを背負っている。少しくらい私にその荷物を分けてくれてもいいじゃないか!」

 イザベルは血の誘惑に耐えるために眼を逸らした。

 しかし己でもわかる。この精神も、肉体も、もはや耐えられなかった。一度全てを忘れねば、粉々に砕け散ってしまう。

 ユリアは待った。その間にマーレは納屋の戸を開けて、外に歩み出る。

「マーレ?」

「私は外を見張っています。泥人形が来たらここを守らねばなりませんから」

 無言でユリアは頷きを返す。

「もし日が昇っても私が戻ってこなければ、どうかお二人でお逃げください」

「……冗談言わないでよ」

「ええ。では、また明日」

 戸口が閉められると、涼しい外気が外から遮断された。納屋の中は静寂に満ちる。

 イザベルが視線を巡らせると、自然とユリアの腕に吸い寄せられた。

 そこに滴る血の赤色に眼を奪われる。

 唾を飲み込み、もはや何も言葉にせず腕に吸い付いた。

「……っ」

 途端、イザベルの頭の中で何かが弾けた。

 視界を染めたのは、眩い光だった。

 耳が何かに塞がれ、腕から足先まで痺れ、身動きが取れなくなった。

 激しい星々の瞬きに眩暈を起こし、イザベルは、熱い吐息を零した。

「おいしい……」

 イザベルが白い輝きの先に見ていたのは、ユリアの過去だった。

 幼い頃の、壮絶だった過去の記憶だ。

 ユリアは誰かに罵られていた。

 理由も知れず、殴られた。

 己を育てた祭司が、血祭りに上げられた。

 隠れ住む家を焼かれた。

 その煌々とした炎を、ただ見つめていた。

 親切な人間から食事を供された。

 そこには、毒が入っていた。

 大きな刃物で切り付けられ、血を流しながら彼女は逃げていた。

 悲痛な声が遠く聴こえた。「なぜこの村を救えなかった」と。

 初めて人を殺したとき、もはやこの村にはいられぬと思った。

 行くべき場所は、どこにもなかった。

 冬の寒さに凍えながら、明日を待つしかなかった。

 全てが苦痛だった。ユリアは苦痛に耐え、眠れぬ夜を過ごした。

 イザベルは精神の領域に踏み込んでゆき、幼いユリアに声をかけた。

「わたくしがあなたの側におります」

「…………」

 記憶のユリアを優しく抱きしめる。

「代わりに、あなたの血を。その、全てを」

(違う……違います……これ以上は、もう)

 現実のイザベルは涙を流していた。

 血に濡れた口を離し、何事か、話そうとした。

「ごめん、なさい……わたくし」

 イザベルは顔を覆い、やがて、泣き崩れた。

「……平気だ。これくらい」

 ユリアは痛みには慣れ切っている。傷など、すぐに癒えるのだから。

「ごめんよ、イザベル。私なんかのために、泣かないでくれ」

 しかしイザベルは泣き続けた。ユリアもそれを、強いて止めはしなかった。

 イザベルの涙を、ユリアは美しいと思う。

 初め、ユリアは死した兵士の前で跪いて泣くイザベルの姿を見た。

 人の命は軽いものだ。風が吹けば消えゆく儚いものである。こと、ユリアにとってはそのようなものであった。イザベルはその小さき命を想い泣いていた。

 涙を流せぬ者の悲しみを背負うかのように。

 その只人の涙に、救われることもあろう。

 イザベルは泣くことに疲れ、そのまま干し草の上で眠り始めた。それを見届けて、ユリアはイザベルと寄り添い、共に眠った。



 マーレが従騎士であった頃、彼女は兵士の指南役として任じられていた。

 訓練では事故が多かった。兵士に志願する男達は皆、血気盛んである。試合に身が入り過ぎて殺し合いに発展することも少なくなかった。

 そのたびにマーレは諍いを治めに走った。その力は複数の男を相手取っても不足はなく、誰も彼女に頭が上がらなかった。その一方で、良き指南役として多くの兵から慕われていた。

 その訓練の様子を、アカネアに帰還したばかりのイザベルが視察に来ていたことがあった。

 その日、不運にもマーレは怪我を負った。諍いをしていた兵士達はマーレが流した血を見て青褪め、必死に謝罪を述べていた。

 マーレは笑って彼らを許した。傷ついたマーレの元にイザベルが駆け寄ったのは、そのときだった。

 イザベルは魔法によってマーレの傷を癒した。

 アカネアにおいて魔法とはオーデン家の血を引く者の奥義であり、その力は滅多に余人に対して使われるものではない。奇跡を目の当たりにして、兵士達はざわめきを抑えられずにいた。

 イザベルはマーレに訊ねた。あなたはいつから兵士の指導を続けているのかと。

 五年ほど前からだとマーレが答えると、イザベルはやや、驚いた様子を見せた。

 マーレは騎士に相応しい鎧兜を未だ持たず、素性も若い娘である。

 しかし、その程度は大きな問題ではない。騎士とは魂の在り様で認められるもの。マーレは既にその資格を有していたと言えよう。

 むしろマーレは、若くして既に騎士を上回る力を備えていたことこそが壁となっていた。古株の騎士から嫉妬され不興を買っている彼女を騎士として認めれば、不和が起きよう。

 それゆえ、領主エゼルはマーレを従騎士の位階に留めていた。彼自身が、マーレを騎士として申し分ないと思っていたしても。

 イザベルはエゼルからその事情を聞き出し、随分と腹を立てたという。アカネアの人々を守る意思と力のある者は、騎士と認めるべきだと。

 それゆえかは知れない。しかし、いずれマーレは騎士となってオーデン家に仕えることとなる。

 その恩をマーレが忘れたことはなかった。



 女騎士マーレは大剣を草地から抜き放ち、泥人形の群を睨んだ。

 この夜にも目が慣れた。平野に湧く敵は、数えるのも億劫なほど多い。

(一体たりとも、ここは通さない)

 神の魂が宿るこの身がどれほどの力を秘めているか、己にも計り知れない。

 だが、あの日生き延びてしまった意味を、この力は示すはずだ。

 大剣が光を帯びる。

「聖剣よ、我が誓いに……!」

 泥人形の群の仲に、一閃の光が走った。

 数多の泥人形が斬り裂かれてゆく。

 泥人形は闇の向こうより次々に湧き出た。騎士は大剣を構え直し閃光を薙ぎ払う。細く白い光が通り過がった後は血に染め上がり、平野は瞬く間に赤い絨毯と化した。

 およそ、その力を止められる者はいなかった。

 血の沼が湧き立った。マーレは飛び退る。

 血液は意思を持ったように収束し、地に吸い込まれる。それは新たな怪物となり、地から身をもたげた。

 二足の竜、ワイバーンである。

 ワイバーンは二体、三体と地から生ずる。さも、地母神の意思であるかのように。竜の眼はマーレを、睨め付けていた。



 城下にも、同様の現象が起きていた。町を占拠する千に近い泥人形が喰らい合い、数多のワイバーンが生まれ空へと飛び立つ。

「撃て! もはや泥人形に構わずともいい、竜どもを撃ち落とすべし!」

 ロバートの号令と共に、城壁に据えられた投石機が跳ね上がり弾が放たれる。

 幾つかの弾は命中し、ワイバーンの頭蓋を砕いて絶命させた。

「敵、城壁に接近しております!」

「矢を放て!」

 ルカは矢を番える手を震わせた。竜は姿を見るも恐ろしき怪物。

 ままよと放った矢の行方は、数多の矢に紛れて消えていく。その光景にルカは息を呑んだ。

 雨のように降る矢はワイバーンの翼を貫き地に落としていく。

 矢を逃れしワイバーンが咆哮を上げ飛翔してくる。中庭に降り立とうとし、結界がそれを阻んだ。ワイバーンは光の壁に取り付き、狂ったように頭突きを繰り返す。

「まずい!」

 亀裂が走り、結界は崩壊に達した。

 ワイバーンは中庭へ降り立つ。

 その爪や尾に、数々の兵が裂き殺された。わっと混乱が広がりゆく。

 ロバートは裂帛の声を上げ突進し、槍を突き刺した。

 鼻先から血を噴きながら、ワイバーンは塔の如き牙を剥く。

「ロバート卿に続けッ!」

 竜の顎を避けたロバートと代わるように、騎士コナーが突撃して更に槍を見舞う。

 勇敢なる兵士達が彼に呼応して、八方から槍が突き出された。

 総身を貫かれたワイバーンは怯みを上げ、なおも動き出そうとする。

 ロバートは更なる裂帛の声を張り上げた。

 喉元を斬り裂かれたワイバーンは、ようやく絶命に至る。

 しかし被害は大きい。間近に竜を目にした兵の多くは委縮し切っている。

 魔術師クラウスは結界を即座に修復した。地脈を利用しているがゆえ、魔法の実行は容易い。しかし敵は更なる群を成し、飛翔してくる。

(もはやこの結界では……!)

 その間際、城下の市壁が拳に破壊された。

 皆が目を瞠った。そこにいたのは巨人だ。石の巨人は、破壊した市壁を投げつけて数体のワイバーンを巻き添えにした。

「ガレス……!」

 ルカがその名を呼ぶ。

 ゴーレムは大いなる双眸を夜闇に輝かせた。



 騎士マーレは六体目の竜を斬り捨てた。

 足元がおぼつかず、七体目のワイバーンを前にしてついにマーレは膝を突く。

 マーレの体からは膨大な光が溢れていた。唸りを上げワイバーンが迫り来る。

 その顎が開かれると同時、マーレの内より溢れ出る光が剣に収束する。

 次の間際、ワイバーンは両断されていた。

 七体の竜が倒され、ようやく、日が昇り出す。

 マーレは肩で息を繰り返した。金の髪が、血に塗れている。

「マーレ」

 呼び声がした。

 声はユリアのものであった。

 後にはイザベルが付いてきている。彼女は目の前に広がる光景に唖然とした。

 ユリアは血だまりの上を歩き、数多の竜の死体を見回す。妖精が死して灰にならず残るのはこの地に異界のマナが満ちている証左だった。

「何があったの」

「泥人形の群が、竜なんかに変わりまして。手間を取らされました」

「……地母神の御力にございますか」

 イザベルはそう、言葉を零した。

 城中でも、マーレの素性を知る者は少ない。まして、その身に神を宿すとは。

 昨年、アカネア城下を襲った大きな盗賊団があった。数で言えば過日に町を襲った不死の軍勢よりも多い。その上で盗賊団には多くの騎士が君していた。結界は妖精を阻めど、人による災厄を阻むことは敵わないのだ。しかしそのときは、此方も多くの騎士と兵がいた。あれほど大規模な争いは、アカネアの歴史においても数少ない出来事だったと言えよう。

 その戦にイザベルは加わり、その眼で様々なものを見た。血煙と怒声に身を竦ませながら、しかし騎士達の奮闘に勇気を得て、魔法による援護を試みた。そうしている内に、気が付けば己の放った光の矢が盗賊の頭領を撃っていた。

 イザベルの手柄はまったくの偶然によるもので、戦の功労者と言えるのはやはり、騎士達であった。正確な数は数えられていないが、イザベルの眼には、マーレこそが最も多くの敵を討ち取っていたと記憶している。

 マーレの剣はどのような騎士にも劣りはしなかった。神の依代であるがゆえに規格外の力を有していたのだ。

 魔力を失った今世の人の身においては、その力も十全ではなかろう。

 しかし剣によって草原を刈り、大地を梳く地母神の力の一端、このようにして見れば、まことに恐ろしい。

「お怪我は、ございませんか」

 喉がつかえたようなイザベルの声に対し、マーレは常のような調子で笑う。

「無事にございます。姫様こそ、ご無事で」

「……面目もございません」

「姫様が私に謝るなどと!」

「しかし……わたくしが気をおかしくして、眠っている間にこのような」

「私の判断にございます。お許しを、姫」

 イザベルにはもはや、何も言えなかった。

 少しは休むべきだとユリアは進言したが、マーレはそれを断った。今は少しでも、先へ進むべきだと。

 イザベルは老爺への礼にと牧場に結界を施し、一行は再び南を目指す。

 街道は森を避けて伸びているが、一行は道行きを急いで森の中を進み、アカネアの辺境へと近づいていく。

 ユリアが先に進み、マーレは殿となって、狭い森道を歩んだ。

「……マーレ?」

 彼女が倒れたのは、その際のことであった。

 イザベルが発した声にユリアも振り返り、そして、知ることとなった。

 マーレの体は、毀れていた。器に収められた水が漏出するように、皮膚が割れて、光が零れ落ちていた。

「マーレ、それは……!」

 イザベルは駆け寄ろうとしたが、その前にマーレは自力で立ち上がり、笑った。

「いつかは、こうなるとわかっておりました。私ごときが神の御力を使い続ければ」

「そのような……! わたくしの、せいで」

「あなたのせいなどではございませぬ。私はとうの昔に、死しておりました。自らの安寧な死と引き換えに、力を授かったのでございます」

 マーレの告白はどこまでも無情であった。

 しかしユリアはそのような予感をどこかで抱いていた。神なるものがこの世にあるなら。それは、ろくなものではないだろうと。

 しかし、なぜか。このように神に身を捧ぐ人間がいる。聖なる営みのように。

「あなたのことを、早くに知っていれば」

 イザベルはそう悲嘆していた。

 しかしマーレは、かぶりを振る。

「私の選択は変わりませぬ。この力で守れる全ての弱き人を守りたいと思ったまで。姫様は私と同じ思いを抱いておいででした。そのことが、私にとっては救いでした」

「マーレ、もう逝くのですか」

「まさか、今すぐに死にはいたしません!」

 その笑いは底抜けに明るい。

「このような身ではございますが……まだ、数日は生きていられます。どうか、王都までお供させてくださいませ。姫」

 差し出されたその手に、イザベルは惑い、思いを定め、握り返そうとした。

 だが、それは敵わなかった。

 マーレは笑みを消した。その手は柄を握り、大剣を抜き放つ。

 泥人形の群はすぐそこに迫っていた。

「私も戦うよ」

「いいえ。ユリアさんは姫様をお連れして、お逃げください」

「しかし、今のあなたでは!」

「敵は数限りなくおります。ここに留まっていれば追い詰められるのみ。お頼み申し上げます、どうか、どうか、お逃げください」

「……!」

 ユリアは唇を強く噛み、震えるイザベルの手を掴んだ。

 イザベルの呼び声が響き、遠ざかっていく。

「ユリアさん。あなたは、良い騎士になられました」

 その後、マーレはただ一人、戦った。

 ただ己が身を燃やしながら剣を振るった。

 泥人形を斬り、その血が竜を生めば斬った。

 その肉体は四肢から砕けていった。しかし魂がその身を繋ぎ止めた。とうに死した人間の、その魂だけが、騎士の形を保ち続けていた。

 周囲から敵がいなくなり、くずおれると、後は燃え尽きるのを待ち臨んだ。

 しかしマーレは感じ取った。妖気の塊を。森の天蓋を揺らす大気の唸りを。

 地面を這い、立ち上がり、そして走った。一歩を進むごとに体は毀れていった。

 しかし、まだ倒れるわけにはいかない。

 守り切らねば。姫を。この地の明日を。

 森道を駆け抜ける。

 目の前に広がった平原。彩雲。翼を広げて飛ぶドラゴンの姿が、そこにあった。

 イザベルとユリアは遠くへと走っている。その影が彼方に見える。

 マーレは地面を刳り、残る全霊の力を剣に託して、投げ放った。

 剣は一条の光となった。

 ドラゴンの片翼を断ち、光はどこまでも、遠くへと消えてゆく。

 イザベルとユリアは振り返る。

 ドラゴンが地に落ち、影となって消えた。

 天空に立ち昇る光は、神の魂か、あるいはマーレという騎士の魂だったのか。

 立ち竦んだイザベルに、ユリアはこの時、この瞬間に、その祈りの意味を認めた。

 イザベルは涙を零していた。

 この手には、その涙を拭えはしないのだとユリアは思う。

 代わりに、しかと手を握り直した。

「行こう」

「……ええ」

 アカネアを去り行くときは、近かった。



 辺境の荒れ地を歩み進む二つの影がある。アカネアの姫君と放浪の騎士。

 遠くの山中には塔の影が見える。この地の内と外との境界を示す境目。

 この荒れ地を抜ければ王都へ続く街道が見えてくる。その希望を持ち、ただ先へと進んでいた。

 しかしイザベルはふと足を止め、振り返る。

「まことに、この地を去るのですね」

「……不安か」

「わたくしの記憶にあるのはアカネアの地で暮らした日々のことのみ。まことなら、カロンに赴いた日々のことも覚えておりましょうが……」

 イザベルは、その頃の記憶を失っている。今の彼女にとり、アカネアの外へ出向くのはこれが初のことのように感じられていた。

「不安より、信じられぬような気持ちの方が勝っています。今まではアカネアの秩序を守ること、ただそればかりを考えておりましたから」

「きっと、戻れるよ」

 イザベルは静かに頷きを返した。そして、再び歩き出す。

「イザベル、あなたはなぜ……」

 記憶を失ったのか。幼い姿のままなのか。ユリアはそう問おうとした。

 ユリアにとって、それらのことは些事であった。暗殺の対象について師から詳細を聞くこともなかった。今は、あらゆることが変わっている。

 この問いは、その変化を受け容れるための小さな勇気を要する行為であった。

 しかし、その問いが届くことはなかった。

 獣の咆哮が轟き、地には影が通り過ぎる。二人は足を止めた。

 ワイバーンが降り立ち、道を塞ぐ。

 ユリアは剣を抜いた。

 鏃のように尖ったワイバーンの尾を防ぐ。その重みに耐え、魔剣は軋みを上げた。

 イザベルが後退れば、背後にも二体。

「ユリア……!」

 魔剣は尾を弾き、斬り返さんとした。

 敵は空中に退避する。空からは新手が飛び来る。ユリアは舌を打ちイザベルに背を近付けた。

「離れないで、イザベル。大丈夫だ、きっと切り抜けて……!」

「一体……」

 か細い声が聞こえてくる。

「一体、何時まで、何処まで……この悪夢は続くのでしょう」

「イザベル?」

「マーレは死にました。その上、あなたまで……」

 竜の群は静かな瞳でイザベルを見つめていた。

 ユリアは違和感を覚える。

「どうしたんだ、イザベル、いったい……」

「何が間違っておりますか。何が正されるべきでございましょうか。神でなければ、何者にわたくしたちを救えましょうか。せめてこの身に、罪が宿っていたならば……わたくしが、全ての悪であれば……!」

 心臓の鼓動が鳴り響く。

 それと同時、イザベルの足元から湧き水のようにして影が広がった。

 影は荒れ地を沼のように変え、ワイバーンの群を沈めていく。空のワイバーンとて狂ったように沼の中へと飛び込む。

 異常な光景の中にユリアは佇む。

「何……これ。何が起きているの」

 竜の群は沼に呑まれて消えた。

 どこへ消えたのか。

 それは、無論……イザベルの、腹の中に。

「イザベル……あなたは」

 ユリアは問いを変えた。

「あなたは一体、何者なんだ」

 そしてその問いを、小さな傷として彼女は胸に刻み続けることとなる。

 疑うべきでは、なかったのだと。

「それを知れば……」

 イザベルの眼には、暮れぬ悲しみと、後悔と、覚悟の色が滲んでいた。

「わたくしを、殺していただけましょうか。ユリア、あなたの手に」

 イザベルは告白する。己の正体を。

「この身は災厄から欠け落ちた片割れの角。かのドラゴンの、分け身にございます」



 偉大なる賢者の手に吸血鬼は封印された。それが始まりであった。

 吸血鬼が甦らせるはずだったドラゴンは、残る僅かな力を角に宿し、切り離した。

 ドラゴンの角は人の形をとった。そして、魂のない人形のままカロンの地を彷徨い続けた。その僅かな力が尽きれば、朽ち果てるのみ。そのような儚い存在であった。

 やがて魂のない人形を見出す者があった。妹の行方を捜していたアカネアの領主、エゼルであった。

 ゆえに、その人形は……イザベルとなったのだ。

「兄上は、カロンに嫁ぎそして死んだものと思われた『イザベル』を捜し、見出してこの地に帰された。死と結界を越えわたくしの存在を許された。魂なき人形に確かな形を与えてくださった。わたくしはその愛によって生かされました」

 目覚めし時の記憶を、忘れるはずもない。

 彼は珍しく、涙を見せていた。大切な宝のように己を抱き締め、流されていたあの熱い涙が、眩ゆい情景として今も焼き付いている。

 人形はアカネアの地に刻まれた記憶を継承し、己に足りないものを補っていった。

 イザベルの肉体、精神、能力、それらを模倣した人形から怪物の自我は消え失せ、新たなるイザベルとなる。それが、彼女であるのだ。

「当然のことにございます。カロンで暮らした日々の記憶が欠けていることも、この体が幼いまま成長をしないのも、全て、この身が過去の写し鏡に過ぎないため……。それがわたくしの、真実でございます」

「だから私に、あなたを殺せと言うのか。あなたこそがアカネアを襲った災厄の一部だから。そんなこと、認められるはずがない!」

 ユリアは感情を露わにしていた。

「何が真実だ。ふざけるな。私はあなたしか知らない。あなたはあんなにも必死に、アカネアを守ろうとしていた。私を独りにしないと約束してくれた……。それまでもが、嘘だったと言うのか」

「いいえ……。わたくしは、今までのわたくしが偽りだ、などと否むつもりはございません。どれほど歪んだ形であれ、イザベルとしてわたくしは生まれたのですから」

「なら、なぜ殺せなどと。あなたはあなたの、イザベルの役目を果たさなければ! 後悔ならその後で、いくらでもすればいいだろう!」

 イザベルはかぶりを振る。

「しかしわたくしは、古に生きたドラゴンにもございます。そのこともまた、変えがたい事実」

 その幼き少女の唇は、古き記憶を辿った。



 人間はかつて森に住み、多くの妖精と共に生きていました。

 両者の間に境目はなく、仲睦まじく暮らしていたのでございます。

 エルフとは森の管理者。人間にとっては、もっとも古い信仰の対象……即ち原初の神の一族にございました。

 しかしその森には、エルフですら手を焼く妖精がおりました。ドラゴンと呼ばれるその種は、天より降ってきた暴君として人にも妖精にも恐れられておりました。

 ドラゴンとはまさしく妖精にとっての妖精。妖精の王。神の中における神にございました。人はドラゴンへの恐れから森を去りました。エルフは人の旅立ちを見送り、ドラゴンを森から出さぬよう生き続けることとなります。

 荒ぶる神を鎮めるべく、エルフは何代も重ね種族の中から王を選出し、巫女として生贄に捧げました。そのたびに失敗を重ね、森は弱ってゆきます。しかしついには、エルフの王はドラゴンを己の内に封じ、永き眠りに付いたのでございます。

 その先、世界がどのような経過を辿ったのかは知れません。

 しかし今の世に目覚めたならわかること。エルフは滅びました。

 その故はドラゴンに、わたくしにこそございます。



『……ユリア。私が人を愛するのは、しかし、心からの愛ではなかった』

 ふいに、母との過去を思い返す。

『遥か昔に、エルフは寄る辺を失った。人間と争い生きる他になくなった。そして、滅びていった』

 母は、重い病に伏していた。村の誰も近づかぬようになった神殿の床で、ぽつり、ぽつりとむつかしいことをユリアに語った。

『人は古き王国の衰退と共に、魔法を失った。しかし、騎士は鉄の刃を以って妖精を殺す。ゆえに私は、人を愛さなければならなかった。私自身が、殺されないよう』

 だが、私はまことの愛を得られなかった。そう、虚しく言葉に零した。

『私のように人を愛せとは言わない。ただ、憎んでもならない。何があったとてその力を、破壊と殺戮のために使ってはならない』

 ユリアはただ頷いていた。心に空いたの空隙を埋めるように、その母の言葉のみを留め置いた。

『……しかし、おまえが愛に惹かれたなら。そのときは……』

 私の言葉は、不要になるだろう。

 そう言い残し、やがて母は事切れたのだ。



「ユリア。あなたを独りにしないと宣うのがわたくしであれば、あなたを独りにしたのもまた、わたくしでございます。この世界にはもはや癒えることなき傷が刻まれております。贖えぬこの罪過を裁ける者は、地上においてたった一人……。あなたのみでございます」

「できない……できないよ、イザベル……。だって、あなたは……」

「惑うことはございません。その刃にかかるのならば、わたくしは痛みや苦しみなど感じぬでしょう。そればかりが、わたくしが人間になってよかったと思える、唯一つのことにございます……」

「違う、違うんだ、イザベル!」

 叫びは空気を張り裂かんばかりだった。

「あなたは間違っているんだ。あなたは既に辛そうだ。苦しそうなんだ。人は誰もが死を恐れている。その恐怖を知るから、あなたは今まで戦ってきたんじゃないのか。人が生きる場所を守るために……。人間としてその苦痛を知り、死を誰よりも恐れたあなたを、その上で殺せだなんて! そんなこと、私にできるはずがない!」

 イザベルは己の頬に触れた。

 無理に笑おうとしていたが、その笑みはどうしても、引きつってならなかった。

「……ああ、左様でございましたか」

 納得したように言葉を零すと、イザベルはユリアから背を向けた。

「ならばわたくしは、人を捨てるまで」

 ユリアは目を瞠る。イザベルが歩んだ先。

 そこには、魔術師の少年がいた。

「イザベル、こっちに来て!」

 ユリアの声が痛切に響いた。少年は倒れ、黒い影が立ち昇る。

 影は竜の形を成した。イザベルはその影を迎え入れるように、両腕を広げた。

「ドラゴン、わたくしはここにおります! さあ、さあ、今こそ合一を……!」

 影はイザベルを呑み込む。

 超自然の風が吹き荒れた。ユリアは大地に膝を突き、邪悪なる神の再誕を臨む。

(私は本当にイザベルを殺すしかないのか。彼女がその罪を背負うしかないというのか。教えてくれ、母さん。私はどうしたら……)

 浮かび上がったのは、母の言葉ではなく。

『私の選択は変わりませぬ。この力で守れる全ての弱き人を守りたいと思ったまで。姫様は私と同じ思いを抱いておいででした。そのことが、私にとっては救いでした』

 ユリアは、マーレに憧れを抱いていた。

 誰の教導にも依らず、正義を貫いた。彼女は、その最期まで理想の騎士であった。

 なぜ彼女がそうあれたのか、今のユリアはようやく知ることが敵う。

(マーレには、失いたくないものがあった。失うことの怒りや恐怖を知っていた)

 それに抗うのが、人の正義であった。その抵抗の果てに救いがあると人は信じて、戦ってきた。たとえ死しても、残るものがあったならば……。

「なぜだ、イザベル」

 もはやその声が届くことはない。

 しかし、ユリアは泥を掻いて立ち上がる。

「マーレはあなたのために死んだんだ」

 その火を絶やしてはならない。

 胸元に隠されたブローチが輝きを発する。ユリアはその輝きを掻き抱いた。

 人には越えられぬ壁があった。ままならない世界の理があった。抗いきれぬ驚異に苦しみ、救いを求めるとき、神は力を貸す。

 抑止力……驚異に抗する反攻の理として。

「あなたを失ってたまるか。失ってしまえば、私はこれから先も後悔に苦しむことになる。どうすればあなたを救える。教えてくれ。何者でもいい……応えてくれ。助けてくれ。この私の声に……どうか……!」

 そしてその理は、エルフにも確かにある。

 ブローチの輝きがいや増し、溢れる。

 その光は形を成して応えた。

「我、エルフの王なり!」

 それこそが、最後の神であった。

 己と同じ年頃の少女であったエルフの王の現身に、ユリアは暫し目を瞠った。

 溢れる光輝を湛え、王は口を開く。

「蛇めの復活を許すとは不甲斐なし、今世のエルフよ。この石に宿るは王の魂の影。その骨と肉を我に捧げよ。此度こそ蛇を滅し、余は今世に自由を得ん」

「……悪霊め」

 ユリアは光の中に腕を伸ばし、そこにある王の胸ぐらを掴む。

「その力、貸して貰う。私の目的のために」

「不遜な!」

 怒りを聞き届けず、ユリアはエルフの王の魂を己に取り込んだ。

 大いなる力を受容する苦しみに耐えながら、その瞳は前を見据える。

 イザベルは闇の中にいた。燃え残る魂の火が、闇の中で星のように瞬いていた。



 そして両者、変身と相成った。



 イザベルは冷厳たる美女と化す。その身にあり得ざるはずの変化を遂げ、竜の鱗を鎧の如く纏い、甦った双角を冠の如く戴いた。

「我が名は、イザベル・ドラキュラー。天よりこの大地に降った、災厄の種が一つ。その魂が、転化せし者!」

 その長く白い指が、泥から析出した黒い槍を掴む。

「エルフ……大地の守護者たる種族よ、根絶やしにしてくれる。我が前に、その姿を現すがいい!」

 光の内より、ユリアは大地を踏んで現れる。

 光輝を纏い、神の証たる黄金に染まった髪を風に揺らす。その身に纏うはエルフの正装たる若草の衣。胸元に緑の宝玉が煌めく。

「我が名は、ユリア。放浪の騎士。道ならぬ道を彷徨する愚か者」

 その手にある剣はドワーフの作、エルフの武器にも遜色はなく。

「しかしイザベル。あなただけは、この手に!」

 両者は睨み合う。遥か古代から続く因縁、その絡み合う糸の果てがここにあった。

 イザベルは槍を構える。

 ドラゴンが取り込んできた数多の人間の血。その記憶の内より騎士の力を顕現し、イザベルは槍を投げ放った。

 ユリアは剣で槍を防いだ。しかし。

 黒い槍は剣を浸食する。

「……!」

 ユリアは目を瞠る。黒い槍は魔力を広げ、対消滅を起こし異界へと消え去った。

 イザベルは再び黒い槍を持つ。

 ユリアは瞼を閉じ、刃を失った魔剣の柄を握り締めた。

「私からは……何も奪わせはしないぞ」

 光の奔流から消失した魔剣が復元された。変成の魔法である。

 更に創造の魔法によってユリアは同質の魔剣を生み出し、合わせ鏡に映る像の如く無限にその数を増やしていく。

 同様に黒い槍は数限りなく沼から生じた。

 数多の刀槍は両者の思念により手繰られ、衝突する。個と個の争いでありながら、万軍が斬り合うかのような干戈の音が響き渡った。

 繰り返される消滅と創造の末、剣の創造が消滅を上回り、圧倒した。突き刺さった数多の剣の柄を踏み、エルフは沼を飛び越えていく。

 そして、イザベルの元へ。両者その手に握る刀槍が合わさり、消滅する。

 ユリアは拳を握り締めた。

 次の間際、イザベルは頬を殴られていた。

 その体ごと吹き飛ぶほどの、重い拳であった。

 イザベルは泥の上を転がり、立ち上がる。

 その腕には光の鎖が絡みついていた。

 鎖に引き寄せられたイザベルの眼前に、再びユリアの拳が迫った。イザベルは首を逸らしてその一撃を躱し、ユリアの頬を殴り返した。

 ユリアは踏み留まる。その拳はイザベルの腹部を捉える。鱗が、砕け散った。

 イザベルは血を吐き、たたらを踏んだ。その髪の毛が無造作に掴みあげられる。

 虚ろな瞳に、イザベルは笑みを浮かべた。

「……泣いておりますか、ユリア。あなたはそれほどに弱い妖精でございましたか」

 その手に黒い槍を掴み、ユリアの脇腹を穿った。

 ユリアは哀しげに眼を潤ませながら、血を吐く。

「あなたの父も、そのように泣いておりました。わたくしを必ずや救い出してみせると。冷たい棺の向こうの、暖かな世界から……」

「戯言を言うな」

 ユリアはイザベルの首を掴む。

「私に父親はいない」

「可哀想な人でした。何も知られないままに死んでいった。人とは、どこまで愚かに生きねばならないのでしょう」

「貴様はイザベルではない。その口で言葉を話すな、怪物!」

 イザベルの体が地に叩きつけられた。

「左様! あなたの知るイザベルはもはやこの世におらぬ存在! 個への執着とは、かくもおぞましきもの! まるで人間のようではございませぬか、エルフ!」

「イザベルはそこにいる。私には見えるぞ」

 ユリアは脇腹に刺さった槍を抜き去った。濁々と流れる血が沼を染めていく。

 そのままイザベルと共に、渦を巻く沼へと身を沈めていった。

「やめろ……やめろ!」

「貴様の中に、入らせてもらう」

 ユリアは水底へと潜っていく。

 ドラゴンの生贄となった数多の人の生命。その記憶が溶けていく精神の海へ。

 その深淵に瞬く星々。イザベルがアカネアの地より授かりし記憶の欠片。ユリアは手を伸ばし、水底に沈むその星を掴んだ。

 篝火のように星は闇の奥へと続いている。

 ユリアは一つ一つ、光を拾い集めていった。

「どうしてだよ……イザベル……」

 水底に波紋が広がる。

「どうして死なんて望むんだ……」

 数多の星々を腕に抱え、涙を拭いながら、ユリアは深淵を歩んだ。

「あなたには、こんなにもあるじゃないか。みんな、あなたが好きだったんだ」

 立ち止まり、己の胸元を掻き抱く。

「私の胸の内にもあるんだ。あなたからもらった温かな光が。決して、消えはしないんだ」

 己の輪郭が溶けていく。

 脚から力を失い、水底に膝を突く。

 飛沫が散り、髪を濡らした。

「だから、戻ってきてくれ。イザベル」

 再び、水底に波紋が広がる。

 ユリアは、顔を上げた。

 足音が聞こえてくる。この昏き深淵を歩む、もう一人の魂の音が。

 その貴婦人はユリアと同じように星を集めながら彷徨っていた。光を一杯に抱え、彼女は微笑する。

「あなたが……本当のイザベルか」

「まことの、わたくし。そのようなものは、ここにはおりません」

 貴婦人はそのように答えた。

「わたくしは幼き頃より運命を定められておりました。アカネアの姫君として。カロンへの捧げものとして」

「あなたは……その運命を、呪っているのか」

「いいえ。わたくしは、幸福でございました。旦那様はわたくしを愛してくださり、とても大事にしていただきました。しかしわたくしには、心から殿方を愛することが敵わなかった……。そのことがあの方に対する、微かな心残りでございます」

 貴婦人の笑みには陰りが見える。

「わたくしはわたくしの役目を全ういたしました。しかしまことのわたくしの心は、死してなお知れずにいるのです」

 貴婦人は、その手から星々を手放す。

「全て、その子に託します。わたくしの心、明日、その可能性の全てを」

 光はユリアが抱える大きな光に集い、イザベルの輪郭を形成した。

「どうか、その子をお頼みします。人の道へとお戻しください。その先に、いつかは見出せましょう」

「……ああ。さよなら、見知らぬあなたよ。いつか、あなたの死を見送ろう」

 貴婦人は笑み、異界へと消えていった。

 ユリアは光となって水底から飛翔する。

 光に沼は蒸発し、ユリアは地上へと還った。その腕に一人の少女を抱えながら。

 大きく息を荒げ、震える脚で荒れ地を歩む。

「……逃がさぬ」

 イザベルから分かたれし闇はわだかまり、禍々しい声を発した。

 眠り続けるイザベルの身を草地に横たえ、ユリアは振り返る。

 ドラゴンの影が、天を覆っていた。

「許さぬ。お主を、儂の顎で喰ろうてやる。エルフの娘よ」



 オーデン家の城は、ゴーレムがその身を呈して守り続けた。

 その強大な助けを得たとて、ワイバーンの攻撃は苛烈であった。

 夜は明けたが、矢の数は尽きかけている。数少ない投石機のみで援護を続けるのもまた、厳しい状況だ。

(……何か、手はないのか)

 ロバートは考えに耽る。このままでは……。

「見たまえ」

 目元に深い隈を刻みながらそう宣ったのは、魔術師クラウスであった。

 ロバートは面を上げる。

 空を飛ぶワイバーンの群は急に活力を失って、地に落ちていった。眼を疑うような光景である。

「何が起きている?」

「わからないな。元々活動限界があったのか。もしくは……」

 地上に蔓延る泥人形も同様に倒れ、次々に行動を停止していく。

 その身は内なる魂の輝きに焼かれ、灰と化す。数多の魂は風となり、嵐となって、灰と塵を南へと攫っていった。

「あれは、姫がお逃げになった方角……!」

 人々が暴風を耐え忍ぶ中、ゴーレムは嵐を追うように南へ歩き出した。

 次なる使命を果たすため。

 ルカは祈りのため両手を組み、ゴーレムの背を見送っていた。

(我々をお守りくださり、感謝いたします。賢者様。そしてどうか、彼を……ルイスを、お救いください)



 嵐は荒野を襲った。

 影は嵐を纏う。雨土は肉体と化す。平原に一つの山が隆起するかのように。

 ワイバーンより遥かに巨大な竜が、そこにあった。古代より生きた恐ろしき怪物が今まさに、顕現を果たしたのだ。

 ユリアは異界からトネリコの弓矢を召喚し、番えた。

 矢にマナの光が集積して燃え上がる。

 光の尾を引いて放たれたその矢を、ドラゴンは炎の息によって吹き消し咆哮した。

「足りぬ……足りぬ! エルフよ、汝を喰らい、欠けた我が魂の糧としてくれる! 完全なる器を得てこの世に降臨せんがために!」

「完全なる器! 愚かな」

 頭の中に響いたエルフの王の声にユリアは顔をしかめた。

「その肉体は本来、我のものであろうが! 醜く太らせおって、怪物め!」

「ちょっと、うるさい!」

「まあ、よいわ。既に些事よ。我は麗しき乙女の器を得たゆえ、醜い怪物めは大地に葬ってくれようぞ!」

「当然だ」

 ユリアは眠るイザベルを見やる。

「待っていて。すぐに終わらせる」

 その背に蝶の翅を生やし、エルフは空を舞った。

「こっちだ、ドラゴン!」

 再び矢を番え、ドラゴンに放つ。それらは炎に薙ぎ払われ、宙に白煙を残した。

 ユリアはすかさず二の矢を放った。

 ドラゴンの背を光が貫き、血飛沫が散った。その傷はすぐさま鱗に覆われていき、再び炎の息が空を切り裂いた。舞って熱線を避けつつ、ユリアは更なる矢を番える。

 その死闘を上空に臨むところ……ルイスは深い眠りから覚め、身を起こした。

 少年は血を吐瀉する。体内の臓腑が乱れ、均衡を失っていた。もはや助かるまいと思いながら、彼は頭上を見上げる。

 ドラゴンの周囲を舞う光の蝶……あれは、ユリアだ。彼女は未だ戦っている。

 己はなんと無力なのか。その光が、遠かった。

 ドラゴンは顎口を開く。そこに青白い炎が充満した。

「燃えよエルフ! この大地もろとも……!」

 ユリアは矢を番えている。広がる極光に、彼女は呑まれようとした。

 その眼前に石の巨人は立った。

 ゴーレム・ガレスは極光をその身で防ぐ。四肢が砕け散り、大地に倒れ伏した。

 ルイスは驚愕し、激痛が走る身体を押してガレスの元へと駆け寄った。

「なんて……ことだ……!」

 総身が砕けたガレスの瞳が、淡く明滅した。

 ドラゴンは片翼を再生させ、両翼を広げて空に飛び立つ。

「どこへ行く!」

 ユリアがその後を追う。

「彼奴は人里を襲い、先の一撃で放った力を蓄えるつもりぞ」

 王の声が頭の中に響き渡る。

「まさか……城に!」

「不甲斐なし、ユリアよ。先は幸運によって命を拾ったに過ぎぬ。次はない。彼奴が里へ至るより先に地へ叩き落とすのだ!」

「言われなくとも、やる!」

 エルフとドラゴンは遠くの空へ。ルイスはそれをただ見やることしかできない。

(今、僕ができることは……)

 否。少年は、土塊の山となったゴーレムを見上げた。

 少年は意を決し、這って山を登っていく。ガレスの胸部に穿たれた大穴へと。

 魔術師は霞む視界に大穴を臨む。

 剥き出しとなった炉心。膨大なるマナの光の渦が、そこに満ちていた。

(僕ができることとは……己が、ゴーレムの核となることだ。ルイス)

 魔術師はその足を大穴の淵より踏み出す。巨人へ、若きその身を捧ぐために。



「行かせるものか!」

 ユリアが放つトネリコの矢に翼を射られ、ドラゴンは平野へと落ちた。

 その巨体をもたげ、咆哮を上げる。天に稲妻が走り、雨が降りしきる。

 踏み荒らした大地に泥が溢れ、沼へと変じる。城は、その目前にあった。

(まずい……あの沼に呑まれれば!)

 ユリアは巨大なトネリコの木々を生やし、広がりゆく沼の浸食を押し留めた。

 炎の息吹が木々を燃やさんとし、光の壁が生じてそれを阻んだ。ドラゴンの眼前でユリアは障壁を保ち続ける。決して、あの城を呑み込ませはせぬ。

「人を庇うか、エルフ! ならば燃え尽き、灰となれ! 剥き出しとなったその魂を喰ろうてやる!」

 光の壁が割れ、炎が溢れ出した。

「避けろ娘、そなたが死ねば元も子もない!」

「駄目だ、それだけは……!」

 ユリアの眼は血走り、赤く染まっていた。

「アカネアが滅びれば、私はイザベルにどう顔向けしたらいい!」

「愚か! 人はそなたを助けぬ、ドラゴンを恐れ逃げ去るのみぞ!」

「たとえそうだったとしても!」

 大いなる力と力の攻防の末、ドラゴンはついに炎を吐き尽くす。

 光の壁を解き、ユリアは反撃に転じようとした。

「……!?」

 翅の輝きが明滅した。ユリアは空に留まる魔力を失いかける。

 その隙に迫ったのは、ドラゴンの顎。

 空も飛べない哀れな蝶となったユリアは、奈落のような竜の首に堕ちようとした。

 轟音が空に響き渡る。

 不意に生じた雷の如き力に、ドラゴンの顎が殴られた。

 それは石の巨人の拳であった。

「巨人……生きておったか……!」

 魔力によって切り離された拳は宙を飛び、ゴーレムの腕に戻って接続された。その瞳が、鋭く光る。

 ドラゴンは大きく角を振るい、巨人の腹を貫かんとした。

 ゴーレムは巨大な光の壁を張る。違いなく、魔術師の力。

 光の壁に角を防がれドラゴンは仰け反る。その首を巨人の腕が捕らえた。

 ユリアは石の巨人の肩を走り、飛ぶ力を得て空に舞い上がる。

「娘、どこへ行く」

「ドラゴンを止める!」

 飛翔するユリアの声は決意に満ちた。

 眼下ではゴーレムとドラゴンが大地を踏み荒らし、格闘を続けている。

 より雲に近いところへユリアは飛ぶ。それがアカネアを救う唯一の手立てと信じ。

(……父親か)

 ユリアは思う。

 父。そのような存在は忘れていた。だが、己にも確かにいたのだ。

 朧気な記憶だ。その男は……人間だった。

(私はなぜ、人を捨ててしまったのだろう)

 アカネアの大地を見降ろす。

 五基の塔を針として敷かれた、人の世界。広大に敷かれた布の下には、多くの妖精の亡骸が眠っている。

(ごめん。妖精達。ごめん。母さん)

 ユリアは人の精神の領域に触れた。

(私は人間を愛しています)

 その手にあったのは、妖精を殺す毒……。己を、殺す毒である。

 その毒を、矢として番える。指先が爛れゆく。しかしもはや、狙いは定まった。

 五本の毒を束ね、ユリアは撃ち放った。

 それのみでは、ドラゴンを殺すに足らぬ。

 矢が放たれたのは、アカネアの外縁。

 流星のように降り注いだ。結界の塔へと。塔を封じる、鎖へと。

 五基の塔は次々に開放され、光を放った。

 大気に揺れるマナが変質し、人を守護する力となる。

 かつての神々より、オーデン家の祖に継承されし抑止の力。ただ人々の安らかなる明日を願い紡がれた、大いなる魔法であった。

 妖精にとりそれは毒である。ああ、だが、なんと美しい光か。

 竜の沼は消え去る。全て、全て夢の如く。

 ドラゴンはゴーレムを突き放し、傷付いた翼を羽ばたかせ、飛び立つ。

 しかし、全ては遅いこと。

 抑止の波動を浴びたドラゴンは世界に留まる力を失い、その身は炎に燃え盛った。

「なん……だと……この力は……」

 天から舞い降りるエルフの少女を見上げ、燃え落ちるドラゴンは咆哮した。

「馬鹿な……なぜだ、エルフ! お主はなぜこの光の中、その身を焼き焦がしながら生きていられるッ!」

「……決まっている」

 炎を纏いながら、剣を高く掲げる。そのエルフに、古き種族の面影はなかった。

「私は騎士だからだ」

 魔剣はドラゴンの首を断った。地を踏んだ騎士の背に、災厄の種は爆散する。



 しばしの間、ユリアは己を助けたゴーレムと視線を交わした。

 ゴーレムは背を向ける。異界の門を開き、霧に包まれるように消えていった。

 ユリアは翅を広げ荒野へと飛ぶ。

 結界は彼女を苛んでいた。アカネアを去らねば、己も朽ち果てる運命にある。

(しかし……せめて一目、イザベルの無事を確かめなければ)

 魔力が尽き、ユリアの体は荒野に投げ出された。

 イザベルの姿を探す。だが、霧が深く先が見通せない。

「イザベル……!」

 声は霧の中へ消えていく。

 燃える両手を掲げ見て、ユリアは呻いた。

「私はこのまま、消えるのか」

「否、娘よ」

 エルフの王が答えた。

「エルフの死は一時の眠りに過ぎぬ。死せば大地の一部となり、いずれ甦るのだ」

「嫌だ。私が生きたいのは今、このときだ。せめて、あと少し……。あと少しだけでいいんだ」

「ならば、汝」

 王の影、その指先が緑の宝玉を突く。

「その魂の半分を余に預けよ。死にはせぬ。そなたはエルフと騎士、二つの影を持つゆえ。騎士たる限りその肉体が朽ちることはなし」

「なぜ、そのようなことを」

「狭い石の中で暮らし続けるは窮屈ゆえな。依代を失うは口惜しい」

「……わかった。好きにしろ!」

 変身が解け、王の影は光と共に魔石へと収束する。

「ただし、忘れぬことだ。そなたは余と運命を共にする。この大地に降りし災厄の種とは、一つ限りではない……」

 その身を苛む炎が鎮まった。深く呼吸し、ユリアは再び、荒野を歩き出す。

「あれは……」

 ユリアは霧の中に影を見出す。

 その影はすぐさま立ち去ろうとした。

「待って!」

 呼び止め、ユリアは追いかける。

 そこにいたのは一人の少年であった。

「あなたは……」

 ユリアは目を丸くし、そして、頭を下げた。

「いつかは世話になった……。ルイス」

「お覚えでございましたか」

「なぜあなたがここに? いや、その様子はまさか……」

「ここにあるのは魂の影。亡霊と言うべきもの。まことの僕はゴーレムの中におります」

「そういう、ことだったの……あのゴーレムは……」

 それ以上言葉を失くしたユリアに、魔術師は薄く微笑む。

「礼などは要りませぬ。僕は心の赴くままに事を成しただけのこと。どうか、先へとお進みください。君が求めし御方は、この先におります」

 ユリアは声に導かれるままに歩んだ。

「エルフの君。君がまた災厄に立ち向かわねばならぬときが来れば、力をお貸しいたします。どうかそのときまで」

 ユリアは頷く。

 魔術師は姿を消し、霧は晴れ渡った。

「……イザベル」

 ユリアは駆け寄った。草原に眠る、姫君の元へと。

 イザベルは身を起こし、瞼を擦る。

「ユリア?」

 そして、彼女は悟った。

「わたくしは……負けたのですね。あなたに」

 ユリアはイザベルの乱れた前髪を除けた。覗いた眼には、空虚と共に困惑が滲んでいる。

 しばしの沈黙の後、イザベルは頷いた。

「ならば……致し方ないこと。他ならぬあなたが、そうまでしてわたくしに生きろと言うのですから」

「……戻ろう、イザベル。あなたには戻るべき場所があるはず。そしてそこから進むんだ。苦しくとも、一緒だ。私達は」

「ええ……ええ。わたくしは。人として、イザベルとして。共に、参りましょう」

 二人は、共に城へ引き返す道を選んだ。

 荒野が続く。その道程を、騎士達は姫君の行方を求め追ってきていた。ロバートが二人の姿を認め、大声で呼びかける。

 共に戦った同胞が、彼女を待っていた。その先には、守るべき民達が。

 イザベルは進む足を躊躇った。

 その手を取り、ユリアは頷く。

 固く手は握り返された。

「ありがとう、ユリア」

 わたくしの騎士よ。



 そしてイザベルは、自ずから歩き出した。生きた時の中へと。

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