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      *

 

「真帆ちゃん」と声を掛けられ、追想が途切れた。

「なに?」

「明日はさ」

「ええ」

「植物園に行かなくてもいい?」

「いいけど――どうして?」

 充生は自分の手元に視線を向けたまま、助走にも似た短い空白を置いた。

 電車にね、と少し経ってから彼は言った。

「電車に、乗ってみたいんだ」

 え、と言って、真帆は彼の顔を見た。臆したような微笑み。

「それ、本気なの?」

「うん。やっぱり不便だし、少しずつ自分の世界を広げてみようと思って」

 どことなく不自然な言葉だった。充生らしくない。世界を広げるですって?

「なんで、急にそんなこと思ったの?」

「べつに――急じゃないよ。前から思っていたこと」

「そう?」

「うん」

 充生は目を合わせようとしない。真帆はすぐに諦めた。ひとに無理強いするのは、彼女の一番苦手なことだった。

「大変じゃないの?」

「うん、きっとね」

 だから、と充生は言って真帆を見た。

「手伝って」


 駅までは歩いて七分ほど。以前、真帆が会社に勤めていたときには、毎日ここから満員電車に乗って通っていた。幅のないプラットホームと赤いトタン屋根の駅舎。線路沿いにある商店街の背中がホームの看板越しに見えている。換気扇のダクトやくねくねと走る灰色のパイプ。クーラーの室外機、打ち付けられた塩ビの波板。どれもが色褪せ、煤けている。

「大丈夫?」

 真帆は隣に立つ充生に訊ねた。

「うん……」

 すでに彼の顔は蒼白だった。真帆は充生に気遣いながら自動発券機にコインを入れ、ふたり分の切符を買った。

 はい、と言って彼に一枚渡す。指先が触れ、彼の手が冷たくなっていることに気付く。

「これをあそこにあるスリットに差し込むの」

 そう言って、真帆は自動改札を指さした。

 すごいね、と充生は言った。

「未来都市みたいだ」

「そうかしら?」

「ぼくが最後に乗ったときは、ちゃんと駅員さんがハサミを入れてくれてたよ。あのハサミの空打ちの音が好きだった」

「それ、いつの話?」

「子供の頃。五歳とか、そのぐらい」

「それ以来乗っていないの?」

「うん。乗るとおしっこが出そうになって、それでやめちゃった」

「いまは?」

 少し、と彼は言った。

「それよりも、心臓が」

 真帆が彼の胸に手を当ててみると、激しい鼓動が感じられた。

「ほんとだ」

「うん」

「やめてもいいのよ」

「うん。でも、行くよ」

 真帆は頷き、先に立って改札を抜けた。充生が続く。三メートルほど進んだところで駅員に呼び止められた。

「お客さん!」

 すでに不安でいっぱいだったので、必要以上に驚いてしまう。胸が痛い。振り返ると、窓口から駅員が上体を乗り出して、自動改札を指さしていた。

「切符を抜き取って下さい」

 やだ、と真帆は声を上げた。

「充生、切符を取らなかったの?」

「取る?」

 ほとんど泣き顔になって、充生が訊ね返した。

「切符よ。抜き取らないと降りた駅で出せないでしょ?」

「ああ――」

 そうか、と言いながら充生が改札に戻っていった。次の乗客に睨まれながら、切符を抜き取り戻ってくる。

 ふう、と息を吐くのを見ながら、真帆は少し笑ってしまった。

「あなたは、どこの星のひと?」

「だって、ずいぶん変わっちゃったから……」

「そう?」

「切符だってこんなに薄くなっちゃって。これって、おもちゃの切符にそっくりだよ」

「ええ、そうね」

 さあ、と言って彼の手を取った。あまりの冷たさに、不安が募る。大丈夫なのだろうか。

「ずっと、手を握っててあげるから」

「うん」


 充生は電車を三台やり過ごした。とりあえずは車内に足を踏み入れるのだが、ベルの音が鳴ると、急いで退いてしまう。

「無理はしなくていいのよ」

 充生が無言で頷く。手のひらが汗でびっしょりだ。真帆は黒いウェストポーチからハンドタオルを取り出して、それを拭った。

「次で行くよ」

 充生が言った。

「わかった」

 次の電車が来ると、充生は早足に乗り込み、そのまま突き当たりまで進んだ。窓に顔を押し付け、向かいのホームを見つめる。

「たった、六百八十メートルだよ」

 充生が言った。

「すぐに終わる」

「そうね」

 ベルが鳴り始めると、彼はさらに目を見開いて景色に神経を集中させた。真帆はぎゅっと彼の手を握りしめ、もう一方の指先で甲をさすった。彼は震えていた。小さな震えと、ときおり来る大きな波。ベルが終わりドアが閉まった。ふいに充生が振り返り、閉じられたドアを見て顔を歪めた。後悔と不安。

「充生」と声を掛ける。彼には聞こえていない。真帆は充生を抱き寄せ、しっかりと身体を合わせた。

「大丈夫よ。わたしがいるから」

「うん」

 他の乗客が自分たちを見ていることは分かった。でも、気にはならない。

 電車が動き出すと、充生が身体を硬直させた。息が荒くなる。

「大丈夫、すぐに着いちゃうから」

「うん」

 彼の目が落ち着かない。視線が羽虫を追うように忙しなく舞っている。さらに呼吸が激しくなるのに気付いて、真帆は自分の身体を強く押し付けた。

「息を、もっとゆっくり」

 そこにいることにいま気付いたというような目で充生が真帆を見た。

「わたしと一緒に息を吸って。ゆっくりよ」

 充生は頷き、彼女を真似て長く息を吸った。

「今度は、ゆっくり吐くの」

 ふたりは一緒に深い呼吸を繰り返した。徐々に彼の鼓動が落ち着いていく。

 何度か深呼吸を繰り返したところで電車が減速を始めた。住宅地を走る私鉄は駅と駅の間隔が極端に短い。

「ほら、もう着いちゃう」

 だね、と言って充生がこわばった笑みを浮かべた。ひゅーと音を立てて息を吐く。目を幾度も瞬かせ、舌で唇を舐める。

「もう到着よ」

 電車がホームに滑り込んでゆく。

 ありがとう、と彼は言った。

「もう、大丈夫だよ」

「そうね」

 彼女は身体を離し、充生の手をさすった。

「大したことなかったでしょ?」

「うん――多分ね」


 楽ではないはずだった。それでも、充生はこの練習を週末のたびに繰り返した。

 馴染むこと。それが不安を退ける。勝手な想像が膨らまないように、未知の部分を体験で埋めていく。切符を買う、自動改札を抜ける、混雑した電車に乗る、黄色信号の減速(これはかなりつらそうだった)、ひと駅我慢できたのなら、次はふた駅。

 四週目に入り、充生は次のステップに進んだ。

 ひとりで、と充生が言った。

「ひとりで乗ってみるよ」

「できる?」

「多分」

 真帆は心配だった。彼女が一緒にいてさえも、まだ綱渡り状態は続いている。

 最初はこっそり隣の車両に乗り込もうかとも思った。けれど彼の行動を思い起こし、それよりももっと有効なサポートがあることに気付いた。

「じゃあ、いってらっしゃい」

 真帆は充生に切符を手渡し、彼を送り出した。


 

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