18

 この日が転機となった。

 ふたりは急速に接近した。カウントダウンは一度の滞りもなく進行した。ふたりは仮想の手を握り合い、ダイブの瞬間をじっと待ち受けていた。

 彼らがセックスをしたのは充生が二十歳の誕生日を迎えた夜だった。この二十歳というのは、真帆にとっての一種の道義的譲歩だった。

 表面的には真帆が誘う形になった。充生からの婉曲的なサインを受けて、真帆が行動を起こしたわけだが、どこかしら彼にコントロールさているような気がしないでもなかった。


 セックスのあと(あるいは次のセックスとのあいだに)、彼が言った。

「真帆ちゃん、ぼくの部屋の写真見たでしょ」

 なんのこと? と空を使ったが、彼はすでに確信していた。

「あれにはちゃんと順番があるんだ」

 彼が言った。

「あ、そう」

「まあ、いいけどね」

 ねえ、としばらくしてから真帆は訊いてみた。

「象とワンピースのわたしの写真は扇情的だった?」

 うん、とこれもしばらく経ってから彼が答えた。

「あんまりエロティックでないところが、いいのかも」

「矛盾してない?」

「そうかな。よく分からないよ」 


                 *


 この半年後にふたりは籍を入れた。  


 式も披露宴もなし。充生はなにかすべきだと主張したが、真帆は年長者らしく、状況を客観的に判断して無理をしないことにした。第一にお金はぎりぎりの状態だったし(風呂釜と雨漏りの修理で、この年はいつもより余分にお金が必要だった)、第二に、充生が抱えているいくつかの困難があった。セレモニーやたくさんの人間との会合は彼が最も苦手としていることだった。式場がよその町にあれば、そこまでの移動も彼には負担となったし、そもそも普段と何か違うことをするだけで、充生は体調を崩しかねなかった。

 真帆の家族も式を挙げることを望んだが、彼女の決断は変わらなかった。

「お金なら、問題はないんだぞ」

 父親の言葉に、真帆は微笑んだ。

「ありがとう。本当に必要になったときはお父さんを頼るかもしれない」

「いまは、本当に必要なときではないのか?」

 彼女は少しだけ考えてから頷いた。

「うん、そうみたい」


 それでも、クラフトショップのオーナーが音頭を取って、ガーデンパーティーが催されることになった。身内だけのささやかな会で、儀礼めいたことは一切せず、それぞれが持ち寄った料理をつるバラの庭で食べた。バラは盛りで庭全体に重いミルラの香りが漂っていた。

「わたしたちは家族だ」

 父親が言った。

「そうだろう?」

 はい、と充生が答えた。 

「家族ならば、遠慮は要らない」

 父親は充生の肩を叩いた。

「いつでも頼ってくれていい。わたしは充生くんを自分の本当の息子のように思っている」

 そして、ちらりと娘たちを見る。

「うちには女しかいなかったからね。新しい息子が増えたことが、とても嬉しいんだよ」

「はい。うちは、ずっと男だけでした」

 父親は少し考えてから、大きく頷いた。

「そうだろうとも。これで巧い具合にカードがシャッフルされたんだ。キングもクイーンもジャックもすべて混ぜこぜになった」

「そうですね」

 充生は言った。

「これですべてが混ぜこぜになりました」



 真帆の妹は必要以上に義兄に関心を寄せていた。ともすれば、彼を姉から奪い取りかねないほどの熱心さだった。

「あなたの趣味は違うでしょ?」

 ふたりだけになったとき、真帆は妹にそっと訊いてみた。彼女のボーイフレンドは、たいていがアスリートだった。最後に付き合っていた男はたしかオリエンテーリングの選手だったはず。

「うーん、微妙なところね」

 彼女は言った。

「三割ぐらい被ってるのよ、わたしの趣味と。あの繊細な感じは好きよ。それと締まった躰も」

 そして、ちろりと舌を見せる。

「久し振りに会ったら、また一段と男前が上がったじゃない。お姉ちゃんのせい?」

 なんだか、セックスのことを言われているような気がして顔が赤らんだ。

 さあ、と真帆は言った。

「知らないわ。昔から彼はあんな感じよ」

 ふうん、と妹が鼻で言った。含みがありそうな声音だった。真帆はさらに顔を赤くした。

「まあ、安心して」

 彼女は言った。

「別に変な気はないから」

「あたりまえでしょ」

「うん。とにかく可愛くてしかたがないの。わたしの大事なお兄ちゃんだもんね」


 母親はいまだに真帆が充生よりも七つ年上であることにこだわっているようだった。

「まだ背が伸び続けているような男の子と結婚するっていうのは、法律に触れることじゃないのかしらね?」

「大丈夫よ」

 真帆は言った。

「彼のお父さんも、この歳で結婚したんだから」

「そうだけど――」

 彼のお父さんは別れてしまったじゃない、という言葉を口にしないだけの分別が母親にはあった。

「わたしも、年上女房なんですよ」

 ふいにオーナーが口を開き、みんなが彼女を見た。

「わたしは五歳上。うまく行ってるわ。夫はずっと単身赴任で東南アジアなんだけど、年末にはきちんと帰ってくるもの」

 実直な渡り鳥みたいに、と彼女は言った。

「ツバメと逆ね。彼は寒くなると南の国から飛んでくるの」

「そうですもと」

 父親が強く頷いた。

「年上女房だからこそ、うまくいく夫婦もある。要は組み合わせです。足して切りのいい数字になるような組み合わせ。ふたつの素数、3と7みたいに」

 充生が嬉しそうにくすりと笑い、母親はつまらなそうな顔をした。数字の例え話をするのは父親の十八番おはこだ。

「どちらが3で、どちらが7でもいい。5と5の似たもの夫婦だっている。なんでもありです」

 うちはなんなの? と母親が訊いた。

「さて――そうだな」

 父親はそう言って頬をさすった。

「わたしが1で、美津子が12ではどうだろう?」

「ずいぶんと半端ね」

「まあね。だが、悪い数字じゃないよ」

 ブラックジャック、と真帆の隣で充生が呟いた。

 あ、そうか。エースとクイーンってわけね。

 真帆が横目で見ると、彼が微笑みながら頷いた。


 ああ、と彼女は思った。

 いま、隣で微笑んでいるひとは、わたしの夫なんだ。わたしはこのひとの妻になったんだ。


 唐突に胸に込み上げてきたのは、悦びというよりは、厳かな感動だった。

 彼女はテーブルの下で、そっと充生の手を握りしめた。彼はまったく表情を変えず(つまり微笑んだままで)、彼女の手を強く握り返した。

 


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