【再掲】早起きはラーメンの得

首筋をくすぐる感触に、瞼を開く。


視線を下げると「ひぃ」が、俺の胸元に顔をすっぽり埋めて眠っていた。快適な頭の位置を探ろうとしているのか、ひぃがもぞもぞと動く度に、艶やかな髪が俺の首筋を撫でる。


枕はちゃんと二つ並べているし、広さだって十分なダブルベッドだ。それなのに、朝になったらこんなにくっついて寝ているなんて。


可愛い奴め──そう思って、ひぃをそっと抱き寄せたけど、よく見たら、掛け布団が俺の方に全部寄っていた。十二月も中旬になる頃である。隣人に布団を奪われた夜は、さぞ寒かったに違いない。心の中で謝りながら、布団をきちんと掛け直すと、ひぃは、あっさりと俺から離れた……。「猫は人じゃなくて、家につく」なんてことが頭に浮かぶ。この場合は、布団だ。ひぃは俺じゃなくて、布団についていた。


 ──今、何時だ?


ベッドサイドの置き時計を見る。五時十三分。また、アラームが鳴るよりも早く目が覚めてしまった。十二月の訪れとともに誓った「朝のランニング」は、「無駄に朝早く目が覚めるようになった」という成果だけを残して、日課になることはなかった。おかげで、ひぃには「おじいちゃん」って揶揄われている。


 ──コーヒーでも淹れるか。


他にすることもないし。おもむろに布団から這い出ようとしたその時。突然、腰のあたりに両腕を回され、俺は布団の中へ引き戻された。


「抜け駆け禁止……」


「……ひぃ」


半分も開いてない瞳で俺を睨むひぃは、腰に腕を回したまま、ぐっと体を寄せてきた。肩を抱いてそれを受け入れると、ひぃが頬を膨らませている。俺は囁き声で謝った。


「……布団取ってごめん」


「いい……もう慣れた」


「じゃあ離してくれる?」


「やだ」


ふるふる。


ひぃが頭を振ってそれを拒む。俺は嘆息した。……自分の腰にぎゅっと抱きついて、いやいやする恋人を無下にできるなら、俺は朝のランニングを日課にできたんだろうな。


機嫌を取るように頭を撫でながら、俺はひぃに尋ねた。


「……ひぃは布団についてるんじゃないの?」


「そんなわけないじゃん」


「本当に?」


「だってこの湯たんぽ……いや『友たんぽ』を失ったら俺は寒さで死ぬし」


「誰が『友たんぽ』じゃ」


ひぃの前髪から覗く、つるつるの白い額をぺちんと叩く。結局、湯たんぽ代わりにされてただけか。「友、あったかーい」とひぃが胸元に頬擦りしてきたが、俺の心は冷えている。俺はやんわりとひぃの身体を剥がしながら言った。


「ひぃも起きたらいいんだよ。そしたら寒いとか気にならなくなる」


「やだ」


「やだじゃないよ」


「俺は『おじいちゃん』じゃないから無理……ふぁ」


口は動かしてるけど、ひぃは確実に二度寝のフェーズに入ろうとしている。……釣られて、俺も。


休みの日だし、別にそうしてもいいんだけど、何だろう。急にもったいない気がしてきた。この「休日なのに早起きできた」という、午前五時の無敵感を手放したくない。


「寝ちゃうの?」


「んー……」


うわ言とも返事ともつかない声。なんとか、ひぃの意識を繋ぎ止めたくて、頬をむにむにしてみたら、片手でしっしっと追い払われた。「二度寝に付き合ってくれないならもういいよ」ってことらしい。うーん。


「……起きようよ。せっかく目が覚めたんだから」


「断る……」


「一緒にランニングとかどう?」


「スパルタ湯たんぽ」


余程、お気に召さなかったらしい。ぐるりと寝返りを打って、背中を向けられてしまった。……そりゃそうか。


俺が無謀にも朝ランニングを始めた時、初日こそ面白がってついてきたけど、次の日には「頑張れ」と布団に包まって、エールを送ってくれるだけになった。三日目は、もう起きてもこなかったし、四日目には、むしろ俺を二度寝に誘う悪魔になってたのだ。ランニング、するわけない。 


あんまりしつこくしても、と思い、あとは淋しさを視線に込めて、背中に訴えかけるだけにする。すると、訴えが通じたのか、ひぃはぼそりと呟いた。


「もっと……起きたくなるような提案して……」


ちらりと、肩越しに俺を振り返るひぃ。その横顔は、ちょっと不貞腐れているようでも、何かを期待しているようでもあった。


「よし……じゃあ」


俺は横になったまま腕を組んで、考えてみた。ひぃが起きたくなるようなことか……。


「起きたら、ちゅー……とか」


何言ってんだ。


口にしてすぐに、耳が熱くなるのを感じた。今どきアツアツの新婚夫婦でも言わないだろ、おはようのちゅー、とか。ダメだ、めちゃくちゃ笑われる。


やっぱ今のナシ──と言う前に、ひぃが俺に体を寄せてきた。額が重なって、さらりとした前髪が俺の鼻筋をくすぐる。小さな呼吸が顔に触れて、思わず唾を飲む。


あ、と思った瞬間。


「……っ」


鼻先に鼻先をくっつけて、ひぃは笑った。


「……起きなくても、できるじゃん」


 こっちは重なるまであと数ミリ、というところで止められた唇に、ひぃがふっと息を吹きかける──それは挑発だった。


 俺は目を閉じて、眉間を軽く揉んだ。赤い衝動みたいなものが体の一点に集まっていくのを、必死に散らす。勘弁してくれ。


「友?」


ほんの少し身じろぎしただけで、その柔らかい唇に触れてしまうだろう。目を瞑っているせいで、ひぃの息遣いを余計に近く感じる。耐えろ俺。この悪魔にタマを売ったら駄目だ。健康で文化的な生活、の文字が頭の中を踊る。朝からなんて不健康すぎるだろ。


 理性が白旗をあげる前に、悪魔を追い払わなければ。だけど、ひぃは追い討ちをかけてきた。


「ねえ友、今からさ……えっ、むぐ」


「ダメ……!それは本当にダメ」


既のところで、ひぃの口を手で塞ぐ。絶対に言わせない。至近距離で「それ」を言われて断れる程、俺の理性ダムは堅牢にできてないのだ。しかし、ずっとこのままでいるわけにもいかない。どうしたもんかな……なんて考えていると。


「……っ?!」


 ふいに、手のひらをぺろっと舐められた。手のひらに残る温い舌の感触が官能を煽って、目の前がチカチカしてくる。口を塞がれたひぃが、目だけで揶揄うように笑った。「もう流されちゃえ」って、たぶん言うだろうな。なんか悔しい……でも簡単に折れるのは嫌だ。


 決壊寸前の衝動になんとか抗おうと、腹に力を入れた、その時だった。


 ──ぐうううぅぅ……。


 布団の中で情けない音が鳴った。


 俺は、しまった、という気持ちで、ひぃは目をぱちぱちとさせながら、しばらく二人で見つめ合う。


「お腹空いたな……」


思い出したように、ぽつりとひぃが呟く。俺は頷いた。


「……昨日、適当だったもんな」

「何あったっけ……」


「……分かんない。何か作る?」


「めんどくさいな……」


ひぃがごろんと転がって、天井を仰ぐ。伸ばした腕がぽすっ、と冷えた枕を叩いた。悪魔は去った。さっきまでのムードがすっと引いていく。


一度気がつくと、途端にお腹が空いて仕方ない。後を追うように、ひぃの腹からも「ぐぅ」と可愛い音が聞こえた時、俺達は顔を見合わせて笑った。


「ほんとにどうしよう……コンビニ?」


「しかないよな……この時間に開いてるのなんて──」


言いかけて、俺は思いつく。そうだ、最近このあたりに、確か──。


「ひぃ」


「ん?」


俺はひぃを手招きした。それから、とっておきの思いつきを、耳元で囁いた。


「ラーメン……食べに行かない?朝ラー」


ぱっと俺の顔を見たひぃが、目を輝かせる。


「行く!」


@


「あー……外なんか出なきゃよかった……」


アパートを出て数十メートル。肌がきゅっと引き締まるような朝の冷たい外気に、ひぃは早くも挫けていた。羽織ったコートの袖をめいっぱい伸ばして、指先まで覆っている。


こういう時、さっとひぃの手を取って自分の上着のポケットに入れてやるのが、恋人としてスマートなんだと思う。だけど残念かな。俺の今羽織ってるジャンパーには、手を入れられるようなポケットがない。それに、これからニキロメートル弱歩くのだ。そんなの歩きづらい。だから──。


「びゃあっ?!」


代わりに、コートから覗くひぃの首筋に、俺は冷え切った手の甲を押し当てた。


「はい、つべこべ言わないの。ちゃっちゃと歩く!」


色気のない声を上げて、目を白黒させているひぃの背中を軽く叩く。頸をさすりながら、ひぃはぶつぶつ恨み言を吐いた。


「クッソ冷たかったんだけど……!スパルタ!鬼教師!」


「何とでもどうぞ」


隣を見なくても分かる。不満な時に頬を少し膨らませる、ひぃの癖。出会った頃は、周りの同級生達よりも大人っぽく見えてたから、こういう一面はギャップだと思ってた。でも、今はこっちの方が「いつものひぃ」って感じなんだよな。


 つい、笑っていると、視線を感じる。ひぃが俺の顔をまじまじと見て言った。


「……友、何か最近すっごく大人になった」


「もうだいぶ前から大人だろ、ひぃも」


「そうだけど、なんて言うか……余裕があるというか……容易く勝てなさそうというか。勝てても、勝たせてもらってるんだなって感じ」


「よく分かんないな」


「自覚がないっていうのが、ガチっぽい。置いてかないでよ」


「置いてかないよ」


そう言いつつ、小走りでひぃの先を行ってみると、笑いながら「待ってよ!」と、ひぃが後を追いかけてきた。追いかけっこは次第に熱を増して、気がついたら電柱を何本も通り過ぎるくらいの距離を走っていた。さすがに息が続かなくなって、立ち止まる。アスファルトに向かってぜえぜえ息を吐いた。足の間から逆さに見えるひぃは、もう少し後ろだ。


 こんなことをしていると、ひぃと俺は恋人同士なんかじゃなくて、まだ友達なんじゃないかって思うことが時々あった。ただの友達で、ルームシェアしてるだけで、朝の六時からラーメン食べに行って、大人げなく追いかけっこしてるような関係──それ、どんな関係だよって思うけど。


「つ、かまえた!」


声に振り返れば、そんな空想は「違う」ってすぐに振り払える。


息を弾ませて近づいてきたひぃが、ジャンパー越しに俺の手首を握る。白い息を吐いて、鼻の頭を赤くしながら、得意げに、にっと笑っていた。子どもみたいで可愛い──なんて思ってたら、そのまま、指まで絡めとられて「恋人繋ぎ」にされた。やっぱり大人だった。


「外なのに」


「誰もいないし」


確かに。早朝にこの辺を歩いてるのなんて、俺達くらいしかいなくて、路傍の家々は眠っているみたいに静かで、何の音もしない。道路は見渡す限り、車一台も走ってなかった。全力疾走するのも、手を繋ぐのも自由だ。俺達は今、無敵だった。


「子どもの頃、こういう何もない道路の真ん中にさ、寝転がってみたかったんだよね」


繋いだ手をぶらぶらさせながら、ひぃが言った。俺は、ふーん、と相槌を打つ。


「やってみる?」


「さすがにまずいでしょ。捕まる」


「危ないしな」


「地球が滅んで、人類が俺と友だけになったらやる」


無邪気に笑いながら、ひぃは恐ろしいことを言う。でも、空想はするだけならタダなので、俺も乗っかってみた。


「そうなったら何でもやり放題だな」


「どうする?とりあえず野外プレイでもしてみる?」


「それはしないな……地球が滅んでもベッドがいい」


「じゃあ家の中で死ぬまでする?食べるとか寝るとか、明日仕事だなーとか、何も考えないで」


「他にすることないの?」


「だって電気もガスも水道も止まるし、電車も動かないし。あ、ガソリンが尽きるまでは車が使えるか」


「車で行けるとこまで行ってみるのはどう?それで、キャンプみたいな」


「車中泊とかしてね。楽しそう。アパートの近くにキャンピングカー停まってる家あるよね。いざとなったら、アレ盗む?」


「物騒だなー……」


「終末だから」


あはは、と楽しげに笑うひぃ。ひぃは終末世界でも、逞しく生きていけそうだな。俺は無人のスーパーから食糧を取ってくるのさえ躊躇してしまいそうなのに。


「まあ、キャンプは普通に楽しそうだし、終末じゃなくても今度行こう」


「うん」


なんて約束をして笑い合う。そのうちに、どこか奥底に仕舞われていく「今度」や「いつか」が、もう簡単には出てこないことは、俺もひぃもよく知ってる。それでも、ひぃとの間にこんなものが増えていくことが、俺は嬉しかった。


しかし、この道路は本当に人通りがない。冗談抜きでここは終末なんじゃないかって気がする。だけど、向こうに駅が見えてきた時、勤め人風の人影が一つ二つと現れたので、俺はほっとした。


 それから、踏切を渡って、坂を下り、道なりに歩き続けること十分。俺達は目的のラーメン屋に到着した。


「モーニングラーメン」を出すことで有名なチェーン店で、つい最近、この辺りにもできたばかりだ。仕事帰りに通りがかって知ってから、俺もひぃも気になっていたのだ。


 駐車場にはトラックが二台と、軽自動車が三台止まっていた。店の入口の前にも三人並んでいる。こんな時間でも結構混んでるんだな。もちろん、ここまで来て引き返すという選択肢はない。俺とひぃは列の最後尾に並んだ。


「車で来ればよかったかな……」


 散歩がてら、と嫌がるひぃを半ば強引に歩かせたのは俺だ。車で来ていれば、寒空の下待たなくてよかったかもしれない。ひぃに悪いことしたな──なんて考えていると、見透かしたようにひぃが言った。


「結構楽しかったからいいよ」


「ほんとごめん」


「いいって、マジで。早起きは何とかの得ってやつだなと思ったし」


「ラーメン?」


「どっちかというと、今はこっちの方」


繋いだままだった手を持ち上げて、見せてくるひぃ。……すっかり忘れていたので、急に恥ずかしくなる。嬉しげなひぃに「離して」とも言えなくて、どうしようかと思っていたら、いきなりパッと手を解かれた。ひぃの熱で温くなっていた手のひらが、外気に触れてひやっとした。


「また帰りね」


俺にだけ聞こえる声で、ひぃが言った。なんとなく、俺も小さく顎を引いて頷いた。二人だけの秘密だ。俺も得をしたような気持ちになって、胸の内がほくほくした。


@


「はい。モーニングラーメン二つね」


「「わあー」」


思わず感嘆の声が揃ってしまい、友と笑い合う。それから改めて机上のラーメンを、まずは目と鼻で堪能する。


冷えた鼻先にむわっと触れる湯気と、濃厚な豚骨醤油スープの香り。スープには罪深い程に背脂がたっぷり浮いている。さらに、程よく脂身の入った薄切りのチャーシューと海苔、青菜、ネギが丼を彩る。麺は細くて硬めのちぢれ麺だ。モーニング仕様だから、通常のラーメンより量は控えめ、その分値段もぐっと安い。友はぎりぎりまで、ミニチャーシュー丼とのセットを頼むか悩んでいた。でも、ここはぐっと我慢することにしたみたいだ。昔の友だったら絶対いってたのにな。まあ、一緒にいる分だけ、俺も友も歳を重ねたってことか。


記念に、とポケットから出したスマホで一枚写真を撮ると、友が言った。


「ここのラーメンは加水率にこだわってて、絶妙な硬さが売りなんだって、通の間で話題なんだ」


「へえ……そうなんだ」


ふふん、とどや顔の友。どうせ、夜な夜なスマホで見ているラーメンレビューブログとかの受け売りのくせに。夜中にお腹が空くと、そういうのばっかり見てるの知ってるんだからな。ある意味、健全でいいのかもしれないけど……。


「じゃあ『通』の友先生、他にも何か教えてください」


せっかくなので、即席・ラーメン通の友の話をもっと聞こう。しかし、友は視線を泳がせながら言った。


「えー……あとは特にないです」


「ないんかい」


 呆れてふっと笑うと、友が「食べようぜ」と手を合わせる。俺も両手を合わせて、二人で「いただきます」と声を揃えた。


まずは、レンゲで掬った豚骨スープを一口。旨い。濃厚なのにしつこくなくて、飲むと、体が芯から温まった。本当に旨い。


 ちらりと対面の友を見遣ると、スープの絡んだ麺の束を、旨そうに啜っている。

 友はラーメンとかを啜るのが上手くて、食欲をそそるようなずずっという音が聞いていて気持ちいい。それに食べている時、すごく幸せそうな顔をする。友達だった頃から、俺は友と食事をするのが好きだった。


「ん?」


視線に気づいた友が、丼から顔を上げる。脂でツヤツヤした上唇をぺろりと舐める仕草に、一瞬、胸の奥がきゅっとした。……何考えてんだ。


「何でもない」


首を振って、俺も麺を啜る。友みたいに上手くは啜れないけど、真似して、ずずっといってみる。うん、旨い。噛むとほろっと溶けるみたいに柔らかいチャーシューも絶品だった。箸が止まらない。テーブルに用意された、にんにくや胡椒、酢で味変も楽しみながら、夢中で食べ進めた。


「うまぁ〜……」


「なー……旨い……」


ラーメンを啜りながら、時々、思い出したように互いを見合って「旨いな」と笑う。……ベッドで昼前までダラダラしながら、友と寝てるのも好きだけど、こういうのも良い。早起きはラーメンの得だ。


「「ごちそうさまでした!」」


スープまでしっかり飲み干して、空になった丼に手を合わせる。「はあー食べた食べた」と腹をさする友に「おっさん」と言ったら「同級生だろー」と、こめかみをぐりぐりされた。


店を出ると、清々しい冬の青空が広がっていた。ラーメンで温まった体に、ひやりとした外気が心地いい。今日は天気が良いし、腹ごなしの運動にもなるし、歩いてきたのはやっぱり正解だったと思う。


「あの店、やっぱり旨かったね。また行こうよ」


 隣を歩く友にそう話しかける。


「……あー、うん。行こう」


ところが、友はそわそわと、心ここにあらずって感じだ。どうしたんだろう、店を出るまでは別に普通だったのに。


「友?」


どうしたの、と訊こうとした時、指先にちょん、と触れた何かに気づく。

友の手だ。所在なさげに隣でぶらぶらと揺れているその手が、本当はどうしたいのか──俺はすぐに察した。けど。


「コンビニでアイスでも買って帰る?なんか甘いもの食べたいよね」


「そうだな……」


「帰ったらどうしよっか……まだ八時前だよ?何でもできるね」


「うん……」


落ち着かない視線。気のない返事。ちょっと伸ばしては、躊躇いがちに引っ込める左手。全部が可愛いから、もう少しだけ知らないふりをする。意地が悪いかな?でも、スパルタの仕返しだ。


俺は急かすように、友を肘でつついた。


「何だよー」


「友こそ」


ニヤニヤ笑っている俺を見て、意図は分かったんだろう。友は頭を掻いてから、やっと、俺の手を取った。


はじめは、俺の手を包むようにゆるく握っていた手のひらが、ゆっくりと形を変えて、指と指を絡ませてくる。手の甲を撫でて滑る感触と、友の緊張が伝わって、なんだかこっちまでそわそわしてきた。合わさった手のひらの隙間に、熱がこもる。


「……これでいい?」


自然と体の距離が縮まって、友の声がさっきよりも近くなる。短く吐いた友の白い息が、朝日に溶けて、キラキラした。眩しくて、胸の内がくすぐったくて、友をまっすぐに見れなくなる。……自分から誘ったくせに。


「うん……」


やっと返事したけど、「う」は言えたかも怪しかった。それにすごく小さな声になった。視線は定まらないし、俺も友のことは言えない。自分からするのは何でもないのに。


ほんの一瞬、恥ずかしさが勝って、友の手から逃れようとする。だけど、友が指にきゅっと力を入れてきたせいで解けなかった。さっきよりも指が絡みついて、僅かな手汗の滑りまで感じる。ちょっと痛いくらいに指を締める力加減に、ぞくりとした。


 ──こんなの、もっとなんか、どうにかしてほしくなって、たまらなくなる。


「コンビニ、寄ってく?」


俺の動揺が友に伝わらないわけがない。今度は友が意地悪する番で、見なくても分かるくらい、調子づいた顔で訊いてくるから──。


「……家までダッシュ!」


そう答えて、走り出した。友もすぐに追いかけてくる。繋いだ手は一旦離したけど、たぶん、きっと、またすぐにくっつく。


鍵を閉めた、二人きりの部屋で。


@


「……不健康すぎる」


昼のバラエティ番組をぼんやり眺めながら、カップうどんを啜る友が呟く。ラーメンにしなかったのは今できる唯一の抵抗だった。というか、そうするしかなかった。だって仕方ない。本当はするべきだった買い出しも何もかも、俺達は後回しにしてしまったんだから。


「せっかく早起きしたのにね……」


友に同調するように、俺は言った。


俺の昼食は塩を振って適当に丸めたおにぎりだ。家中をさらって、かろうじて見つかった食糧が、冷凍していた茶碗一杯分のご飯と、いつか買っておいたカップうどんだった。朝食が麺だったので、二人とも米がよかったのだが、公平なじゃんけんの結果、こうなった。


「ひぃが悪いと思います」


「何でよ」


突然の責任転嫁に俺はムッとして返す。


「だってあんな……本気で照れたりすると思わなかったし……」


「友がチキって変な触り方するから、恥ずかしくなったんだけど……仕方ないじゃん」


「チキってないし」


「チキってましたー手汗しっとりでしたー」


「ひぃだって外で変なこと考えてたろ」


「まあそうだけど……」


それ以上言い返せず、おにぎりをぱくりと頬張る。恨めしそうな友の視線を感じたので、少しだけ分けてあげた。代わりに友のうどんを一口もらう。これはこれで旨いけど。


「午後は絶対買い出し行かないとな……」


「洗濯もしないとなー……」


はあ。ため息が揃う。あの早朝の無敵感はどこへやら。すっかり現実に引き戻された気分だった。


「……なんか、早起きしたのに、トータルでちょっと損してない?」


 テーブルに頬杖をついた友が言った。


「二度寝したようなもんだしね」


何気なく言ったことに、友がぷい、と顔を背ける。耳がちょっと赤い。


「さらっと言うなよなー……」


唇を尖らせる友に俺は言った。


「でも、損はしてないんじゃない?ラーメン旨かったし、ちょっとデートみたいだったし、早起きした分一回多くできてラッキー……みたいな」


「……夜はしないぞ」


「えっ」


ショッキングな知らせだった。いや、確かに今はそんな元気ないけど……ないけど。

「昼は?」


「おじいちゃん……お昼はさっきしたばかりですよ」


すげなくあしらわれてしまい、頬を膨らませていたら、友に「フグ」と言われた。さらに、鼻先を人差し指でぐっと押し上げられて「ぶた」とまで言われた。特に意味はないやりとりだったけど、二人でへらへら笑った。束の間の現実逃避だ。


結局、早起きは得だったのかどうなのか、なんとも言えない、なんでもない休日は、こうして暮れていく。


……そういえば、一つ、得だと思ったことがあった。それは、旨いラーメンを食べた後にキスをすると、友がいつもより「深めに」求めてくると分かったことだ。これもある意味、「ラーメンの得」だな。

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