第3話 カーサスの宿屋


「うちは割れてない窓が2枚もあるのが自慢だったのに、1枚盛大にやってくれたね…他所の街でも大体同じルールだと思ってたけど、宿屋や食堂の嬢は揉め事に混ぜちゃならねえって、親から教わらなかったのかい?」


 黒髪の美しい妖艶ようえんな女は、耳元で揃えたつややかな髪を無粋に引っ張り上げる大男へ、子供を諭すように優しく言い放った。着ている食堂の給仕服は胸元が大きく開いており、夜の仕事を兼ねていることが見て取れる。


「カーサスさんを放して!」


 そう叫んだ赤毛の少女は、ナイフを持った男2人に両腕を捕まれ、身動きが取れずに居た。


 ここは、とある宿屋の1階の食堂だ。その入口の横の窓には、何かを投げ出したような穴が空き、陰鬱な街の景色とは対象的に、外からの日差しが差し込んでいる。


 窓の外には割れた酒瓶と窓ガラスの破片が転がっていた。そもそも今の時代、ガラス窓があること自体珍しい。


 その証拠に、他の窓には板が打ち付けられている。しかし、食堂奥のカウンター席に灯りが点けられていること、そしてカウンター横に綺麗な窓があるおかげで、店内は薄暗い程度だった。


 そう、この掃き溜めのような街にあっても、内装がで、店内がというのが、ここの売りなのだ。当然、従業員もこの街ではの部類に入る。


 木目がきらきら反射するほど、見事に磨き上げられたカウンターの前で、宿屋の女将は大男に締め上げられていた。その足元には、酒を格納する地下蔵の蓋が開け放たれている。どうやら赤毛の娘は、この地下蔵から引きずり出された様子であった。


 店の入口はといえば、不用心にも戸が付いて居なかったが、それは常に侵入者を阻む存在があることを意味していた。街の宿屋と言っても、旅人の利用はほとんど無く、この街のならず者集団であるチャーリーたちの根城であり、構成員の宿舎を兼ねていたからだ。


 食堂の入口には、昨日彼らに宿屋を奪われたチャーリーの構成員が、手を出せずにナイフだけ構えていた。


「この世界で、ルール…ねえ。面白いじゃねぇか。女将さんよお、娘を全部出せと言ったのに、上物をこんなとこに隠しやがって、しかもチャーリーにチクりやがったなあ?」


 たった今面白いと言った大男は、手を振るわせ、額に血管を浮かせる。鬼のような形相で女主人に凄んだが、彼女は全く動じなかった。それどころか、化粧の乗った商売道具の顔を歪ませること無く、眉だけを綺麗に吊り上げ、無粋に髪を引っ張る無頼漢を睨み返す。


「ハッ! アタシらがチクるもんか。宿屋はいつでも略奪した奴のもんだ。相手を殺し損なったんなら、そっちの落ち度さ」


 大男はその剣幕に一瞬たじろいだ。その隙にカーサスと呼ばれた女主人は畳み掛ける。


「それに、アンタらには、うちのとっておきの娘たちを出したさ。金をちゃんと払ってくれたからね。その娘は給仕専門という条件で預かってるだけだ。商品じゃない。だから、放しておくれよ」


 カーサスの優しい言葉に、大男はニタリと口の端を吊り上げた。彼女を掴んでいない方の手で、黒髪のカツラを、何かを玩具のようにくるくると回して見せる。


「笑わせるなよ。この髪色ならいくらでも買い手が付く。アンタが捕まったのに驚いて、こいつを落としちまったのが運の尽きだな」


 赤毛の少女は、さっと青ざめた。そのカツラは間違い無く自分の物だった。隠していた赤毛が見つかってしまったら、この先どうなるか目に見えている。


 不安に押し潰されないよう、強く目を閉じた瞬間、食堂の奥のカウンター横の窓が、勢いよく割れる音がした。音と同時に大男の顔が歪んだ。目にも止まらぬ速さで男の顎に飛び蹴りが決まったのだ。その一撃で、大男は意識を失い崩れ落ちる。


 カーサスはやっとその手を逃れ、乱れた髪を片手で整えながら、小さなため息をつく。この程度の争いは慣れっこだ。しかし、自分ならいざ知らず、この世間知らずな少女が拐われていたかもしれないと考えると恐ろしい。


「ありがとよ。今日は弾むから、後で飯でも食って行きな」


 たった今、大男に飛び蹴りを喰らわせたアリオに、何か礼をと思ったが、その好意はあっさり一蹴されてしまう。


「俺はここで飯は食わない」


 少年はそう答えるや否や、赤毛の娘を掴んでいる片方の男の腕を、持っていた短刀で切り付け、娘から引き剥がした。男は甲高い悲鳴を上げながら、自分の腕の傷を押さえる。


「おい、ふざけるな」


 相方をやられたもう1人の男が殺気立ち、娘の首にナイフを突き刺そうとした。しかし、今度は軽やかな口調の男がそれをさえぎる。


「おーっと、こっちも忘れないで欲しいね」


 人質さえ居なければ手慣れたものだとばかりに、彼は手刀でナイフを叩き落とし、男を娘から引き剥がす。先ほど入り口に居たチャーリー一味の1人だった。


「ありがとよ、アリオ。飯食ってけよ、奢るから」


 男は悪ぶった笑みをアリオへ向けるが、彼はまるで興味がない様子で、床の上のカツラを拾い上げる。残りのチャーリー一味が、いそいそと3人の暴漢を縛り上げるのを一瞥すると、両手で頭を隠している少女へ、カツラを投げ渡した。


「ララ、少し汚れちまったけど、取り敢えず頭に付けとけ」


 ララと呼ばれた赤毛の少女は、嬉しそうにカツラを受け取ると、再び頭の上に載せる。彼女の赤毛は肩までだったが、黒髪のカツラはそれを覆い隠す長髪だ。


 彼女はアリオより年上で、落ち着いた雰囲気の可愛らしい娘だった。髪色を隠したことで、ようやく人心地がついたのか、もう一度アリオを食事に誘う。


「ありがとう! アリオ。本当にご飯食べて行かないの?」


「いらない。テオの言いつけだからな」


 無表情のまま、そっぽを向くアリオに、ララは顔を覗き込みながら笑い掛ける。この角度から話し掛けられるのに弱いのは分かっているのだ。


「ふーん。いっつもつれないなあ〜。じゃあ、今日は私が腕を振るって、お弁当作ってあげる!」


 彼は無表情のまま俯き、頭に被ったフードをさらに顔へ引っ張った。子供らしい動きを見て、ララは家族のように喜ぶ。


「かっわいい〜! やっぱり弟か妹、欲しかったな〜」


 そんなやり取りを横目で見ながら、チャーリー一味は、縛り上げた男たちを店の外へ引っ張り出した。


 女主人のカーサスは、店のカウンターに腰掛け、目にかかる前髪を耳元へかきあげながら、気怠そうにタバコに火を点ける。そんな彼女に目をやると、リーダー格の男は先に帰るよう、他の男たちへ指示を出す。この男は先ほど、ララを捕らえていた男を引き剥がした人物だ。


「さて…と。んじゃ、先にこいつら連れて、チャーリーの旦那に報告してきな。それと、分かっちゃいるだろうが、ララの話をしたら」


 男は笑いながら首に指を2本当て、掻き切る仕草をして見せた。他の男たちはリーダー格の男が恐ろしいのか、黙って頷き、暴漢を引きずって行く。


 その様子を、やはり気怠そうに眺めると、カーサスはタバコの煙を長く吐き出した。やがて、店にはカーサス、ララ、アリオ、そして店の戸にもたれかかるチャーリー一味の男が1人きりになる。沈黙を破るように、男はおもむろに口を開いた。


「カーサス」


「なんだい、トム」


 トムと呼ばれた男は「俺にも1本くれ」と言って、店内へ入って来た。ごくごく自然な様子で、カーサスからタバコを受け取り、火を点ける。しかし、ララはそれを許さなかった。


「ちょっと〜! 2人とも! 子供の前では禁煙でしょ〜! アリオの前では禁止っていつも言ってるのに〜」


 2人の口から慌ててタバコを取って回る。カーサスはあからさまに舌打ちし、トムは「げぇっ」と悪態をつきながらララを横目で見やった。


「ウブだ、ウブだとは思ってたけどよ〜。まさか、魔力持ちとはな」


 そう言いながら、少し考え込む。先ほど帰した部下のことだ。いつまで黙っていられるだろうか。親玉のチャーリーはともかく、構成員には信用できない者も多い。1週間でもてば良い方だ。


「カーサス、さっき奴らにはああ言ったが…正直言って隠し通す自信がない。ララは早いとこ次の行き先を探した方が良い。幼なじみのよしみで、さっきの奴らにはやることやったら始末するよう指示したが、魔力持ちを匿ってたことがバレるのは時間の問題だな」


「始末するなんて! 私がここを出て行きますから」


 トムの言葉に思わず小さな悲鳴を上げたが、彼は蔑むような笑みを向けて来た。心底軽蔑した眼差しで。


「かー! さすが、魔力持ち様は言うことが違うね〜」


「な! どう言う意味よ?」


 お互い頭に来て、言い争う2人を、アリオは無表情のまま眺める。こうなると売り言葉に買い言葉だ。宿屋の女主人であるカーサスは、口喧嘩に全く関心を示さない少年を見て、寂しそうに目を細める。そして、グラスに蒸留酒を注ぎながら、2人をたしなめた。


「ララ、よしな。トムも、あんまり突っかかるんじゃない」


 その言葉に、2人は静かにお互いの顔を背ける。


 仕方がないという風に、小さくため息をつくと、カーサスは世間知らずな少女に微笑みを向ける。とびきり魅惑的なその笑みを。


「ララ、トムは全部お前のためにやってくれたんだ。礼は言っても、文句言う筋合いはないだろう?」


 カーサスは酒を喉に流し込むと、首の2本の鎖のうち1本を引き上げ、小さな銀の粒を見せる。それはテオやアリオの物とは異なり、本当に小さく、麦粒くらいであった。


「1年前、お前が来た日をよく覚えてる。お前が瀕死の母親を引きずりながら、夜な夜な森からここまで辿り着いた。これはお前の世話代として、お前の母親が私にくれた物だ。私はもう1つ持ってるがね。いざという時に使えるってもんさ」


 カーサスは酒のグラスを回し、そのガラス越しにどこか遠くを見ながら言葉を続ける。


 彼女が誰に向かって説明しているのか、ララには分かっていた。バレてしまった以上、トムに事情を汲んで貰わなければならない。ララだけではない。今、この宿屋が危険に晒されている。


「…魔王が人心を乱すようになって500年というが、もう銀のチャーム無しでは、人間は理性を持って生きることが出来ない」


 不安げなララは、自分の首からも、思わず鎖を引き上げる。カーサスが見せた物と同じ、本当に小さな銀粒であった。


 この鎖の先に付いているのがチャームだ。魔除けの特殊な魔術で銀を加工し、首など肌身離さずに身に付けることで効力を発揮する。教会などで作る効果の高い物から、ララの物のように、あり合わせの銀に簡単なまじないを掛けただけの物まで、様々である。


 1年前、必死でここまで運んだ母親は、カーサスに自分を託すとそのまま息絶えた。以来、汚れたこの街で、気高く生きるカーサスを頼りになんとかやって来たのだ。


 隣で布を使い、ナイフを手入れしている少年は、相変わらず無表情のままだった。しかし、ララの家族の話になると、ちらちらとこちらを覗いている。


 この弟のような存在のアリオは、この周辺の宿屋の揉め事を、食べ物や日用品と引き換えに解決する用心棒だ。


 カーサスから、アリオたちは3年ほど前に突然現れたと聞いていた。得体の知れない中年の男と一緒に、街に張り巡らされている水路の、橋の下に暮しているらしい。アリオの保護者であるその男に、自分は会ったことがなかった。


 魔力で髪の色素が薄いララを、カーサスはいつも心配していた。黒髪のカツラを被せ、店の買い物にも行かせない。そして、地下蔵に部屋をあつらえると、夜は決して外に出してくれなかった。


 次の幹部候補だと噂のトムは、黒髪で魔力はないが、頭の回転は早い。そして、幼馴染のカーサスにすこぶる弱いのだ。


 しかし、この町でという言葉ほど、当てにならないものはなかった。この男に黙っていて貰わないと、この恩人に迷惑を掛けることになる。静かに彼に向き直ると、ララは非礼を詫びた。


「ありがとう。さっきはごめんなさい、トムさん」


 そして決心したように立ち上がると、おもむろにカーサスへ頭を下げた。


「カーサスさん、今までお世話になりました。見ず知らずの私を引き取り、私の目が届くよう、宿の裏に母を埋葬して下さって、本当にありがとうございました。今日にもこの宿が襲われるかもしれません。今すぐ出て行きます」


 恩人にそう告げると、さっと顔を上げる。その恩人は鼻を鳴らすと、酒のグラスをカウンターに置く。動作ひとつ取っても、彼女は本当につやっぽく、ため息が出そうになる。


「それは構わないが、出て行くのは少し待ちな。近々、修道院が久々にチャームを売りに市を出すって噂だ。そこに頼んで、あんたを保護して貰う。大勢の目の前であんたを引き渡した方が、この宿も安全ってもんだ。協力してくれるね?」


 カーサスはそう言うと、ララにウインクして見せた。顔が熱くなるのが分かる。気が付くと、ララは彼女に抱きついていた。


「カーサスさん!」


「あー、あー、この子は。ほら、トムとアリオが見てるよ!」


 酒で少し赤らんだ彼女は、トムとアリオに目配せする。今度は彼がため息をつく番だった。どうしても、この幼馴染の女性には弱いのだ。


「はいはい。修道院の市までは、情報が漏れないように、なんとかするさ」


 呆れたように、トムはそう言う。彼女に抱きついているララを少し羨ましく思ったが、そう思っていたのは自分だけではなかったようだ。


 給仕服のスカートの裾を引かれ、カーサスがそちらを見るとアリオだった。珍しく、少し拗ねたような表情をしている。


「俺はいつも通り、呼ばれたら仕事をする。それより、今日の分を早くくれ」


 カーサスとララは一度目を合わせると、そんなアリオのことを微笑ましそうに見つめた。


「なんだい、アリオ。そんな顔初めて見たよ。ララに妬いてるのかい?」


「あー! ほんとだ! そんな可愛い顔、初めてみた〜!」


 ララがアリオに抱きつくと、彼は少し顔を赤らめて俯く。抱きつかれた拍子にフードが外れたことには、気が付かなかった。


 口止めという貧乏くじを引かされたトムは、もう店を出ようと、店の入り口まで移動していたが、アリオのフードが外れたのを見て足を止める。少年の黒い短髪をマジマジと眺めると、期待外れのように呟く。


「こいつもフードの下はもしかすると…と思ってたが、違ったな」


 彼は誰にも聞こえないよう、そう言うと、後ろ手をカーサスに振りながら店を後にした。

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