視線

鷹山勇次

視線

 長早裕也ながさき ゆうやは、自宅のアパートでパソコン画面を前に弁当を食べていた。デスクの上ではカップ麺が湯気を立てている。


 ベッドとパソコンデスク、ハンガーラックとラックの下に置かれた4個の衣装ケース。彼の部屋に家具と呼べるものはそれしかない。

 狭い通路の様な台所には、20cmの鍋と金属のカップがひとつずつ。料理はお湯を沸かすか、袋ラーメンしか作らない彼にとって、それだけあれば充分事足りた。


 箸やスプーンはその都度もらうか、百均で買った使い捨ての物を使った。台所に備え付けの小さな引き出しには、そんな消耗品しか入っていない。


 彼の部屋にはゴミ箱も無い。缶と瓶、プラゴミ、可燃ごみ、3つのビニール袋があるだけだ。


 一見、彼は極端な断捨離の成功者に見えた。事実、余計なものは持っていない。新卒で入った会社がブラック企業だった彼は、一年持たずに入院。退職した。

 働いている間、シャワーを浴びて寝るだけだった彼の部屋は、およそ人が生活しているとは思えない有様になった。退職後、回復した彼は部屋にあった埃まみれの多種雑多なものを捨てた。

以来、少しでも悩む要素がある物は買わなかった。


 こういった“生活”にも“自分”にも興味を無くした人間の部屋は、往々にしてゴミや物を溜め込みがちであるが、その点、彼は他の人達とは違った。

彼は元々潔癖症な所があったし、なにより虫が大の苦手だった。



 弁当を食べ終えた彼はカップ麺の汁を飲み干すと、弁当とカップ麺の空き容器を台所に持って行き、スポンジに洗剤を付けて綺麗に洗い流した。

立てかけてあった金属ネットをシンクに渡すと、空き容器を金属ネットの上に置いた。

そしてまたパソコンの画面に見入った。


 その夜、彼は午前三時頃までパソコン画面に見入っていた。



 警備会社のアルバイト職員である彼は、一週間前まで夜間工事の交通誘導をしていたが、その現場が終わって次の現場が決まるまでの自由の身であった。

 昼頃起きて、近所のコンビニに行き、一日分の食料を買って部屋に籠る生活をしていた。彼にとって弁当が冷たいとか温かいとか、どうでもいい事だった。



 彼の電話が鳴ったのは3日後、午前9時過ぎ。地元のスーパーの警備兼交通誘導の仕事を紹介された。彼は快諾かいだくした。

 仕事に対してやりがいとか向上心等というものは持ち合わせていなかったし、職場となるスーパーまでは自転車で一時間ほどかかる。

 それでも彼が快諾かいだくしたのは、工事現場とオフィスビルの夜間警備という彼にとってただ退屈なものと思える経験しかなかった事と、昼間のスーパーという人が集まる明るい場所での仕事とはどんなものだろう。という好奇心からだった。

 


 スーパーで働き始めた彼は、初対面の人と言葉を交わす事も少なくなかったが、内容は彼が分かる範囲での案内が大半で、その事自体は彼にとってはどうでもいい事だった。ただ若い女性と話すのは少し緊張した。

 それより、中が見えそうな短いスカートの女子高生や、胸元が大きくあいた服で前かがみになって商品を見ている女性見つけると、その無防備な姿や、時折見える下着が彼の視線と身体を硬直させることの方が問題だった。



 スーパーで働き始めて三ヵ月が経った。


 コニュミケーション能力が高いとは言えない彼だが、無遅刻無欠勤で勤務態度も良好だった彼は、職場の人達や常連のお客さんから好意的な目を向けられていた。

 彼は趣味の世界の物-車や釣り、スポーツや芸術、ゲームや旅行といったものに全く興味が無く、会話を広げていくことが出来なかっただけで、人当たりは良かった。無駄話をしない真面目な人と捉える人もいた。


 その頃、彼はあることを思いついてインターネットで買い物をした。ペン型のカモフラージュカメラだ。

 翌日、届いた荷物の箱を開けて、「へー、こんなになっていたんだ。」「こんなものがあるとはなぁ。」と驚きと期待の入り混じったため息をついて目を輝かせた。

そして翌朝には、ペン型のカメラを胸のポケットに忍ばせて、店内の見回りを始めた。


 14時を過ぎると、ちらほらと近くの高校の女子生徒が店内で買い物を始める。彼は店内を見回るために警備員室を出た。

 ペン型カメラを右手に持って時々何かを手帳に書くふりをしながら、女子高生を撮影した。最初はドキドキしたこの行為も、2週間も過ぎると平常心でやってのけた。

ペン型カメラはカメラが主な機能ではあるが、ボールペンとして普通に使うことが出来た。

 写っている画像を確認しながら撮影できるものではないから、ペンとカメラの向きや、被写体からの距離など確認や慣れが必要な品物だった。


 最初のうちは何が映っているのか分からない映像の方が多かった。

しかし、その行為自体が、誰かの秘密の部分を撮影している。というスリルと興奮が、彼を虜にしていった。


 家に帰ると、自分が撮影した映像をパソコンの画面に映し出して悪態をついたり「おおー。これはいいのが撮れた。」等との感嘆の言葉をあげたりして楽しんだ。彼にとって自分でやる盗撮は、撮影時と再生時の2度楽しめる娯楽であった。

 自分が撮影した映像を見終わると、またいつも見ていた盗撮サイトを開いて自分を慰めた。


 そう。彼の唯一の趣味であり、興味の対象は『盗撮』

今までは見るだけだったその趣味の世界に、今度は自分で撮影するという世界が広がった。


 さらに一か月ほど経つと、職場での彼の評価は盤石なものになっていた。四か月半というもの無遅刻無欠勤で、この間に2回あった急な欠員による出勤要請や何度かのシフト変更にも喜んで応じていたからだ。何しろ彼には出かけるような趣味も友達もなかった。

 彼にとっては、出勤すること自体が趣味を実行するための手段でもあったのだ。


 しかし、彼には悩みが無いわけではなかった。彼の身長は176cm。手に持ったペン型カメラで女子高生のスカートの中を下から狙うには、少しかがまなければならない。

 何度か挑戦してみたが、女子高生に気付かれて逃げられたり、変な目で見られたりしたことがあり、その度に「バレたか?」「今度こそバレた?」と冷や汗をかいた。

 「なんとかならないものか。」そう思いながらも、そのスリルある行為は、何とも例えようのない高揚感があった。


 ある日、レジの近くの本棚で、雑誌を見ている女子高生の背後から近寄り、ペン型のカメラを持って体を傾けていると、突然「警備員さん、何をしてるんですか?」と客のおばさんに声をかけられた。

 彼は飛び上がらんばかりに驚いて振り向いた。「いえ、商品棚の傾きが気になりまして。」と適当な事を言った。

 おばさんは「え、傾き?傾いていますか?」と聞き返してきた。二人のやり取りが聞こえたのか、女子高生も彼の方に振り返った。

 

 彼に注がれる二人の視線。逃げ出したい気持ちを押さえつけながら、努めて平静な口調で、「はい。この本棚のこの部分なんですが。」そう言って女子高生の前の腰の高さの棚板に触れた。

 本棚に向き直ってしゃがんだ彼は、「あれ。うーん。勘違いだったようですね。さっきは傾いているように見えたんですよ。」と二人に向かって言うと、立ち上がって「それでは、失礼します。」と言って、破裂しそうな心臓を感じながら、その場から逃げ出した。


 その夜、帰宅した彼は、やはり今の方法では無理がある。なにかないかな。とパソコンの検索画面に[小型カメラ][カモフラージュカメラ]などと打ち込んで、使えそうなカメラを検索した。



 2日後に超小型のカメラと2メートルの配線が付いたリモコンが届いた。職場に付いた彼は巡回の度にトイレの個室に入って、靴に超小型カメラを仕込み、制服のズボンのポケットに忍ばせてあったリモコンから配線を伸ばして、ウエスト部分からズボンの中に配線をたらして、カメラに取り付けた。


 本当はカメラもリモコンもセットしたままの状態でいたかったが、座っているような足を動かしていない時に、誰かに靴を見られたらカメラが見つかる恐れがあった。それに仕事先から貸与された制服は、いつか返却しなければならない事を考えると、ズボンのポケットに配線を通す穴を開けることも憚られた。


 彼はスカートの女性を狙っては、近寄って撮影することを繰り返した。女子高生はスパッツの様なものを履いていることが多かった。下着を確認できるのはごくまれで、家で画像を確認する時は、宝くじの当選番号を見る様な高揚感があった。

 例えハズレであったとしても、普段見ることがないローアングルからの景色も、スカートがひらりと揺れる度にドキドキさせる光景も、彼を楽しませるのに十分だった。



 さらに二カ月ほど経った。その間に彼は27歳になった。彼にとって自分の誕生日など最もどうでもいい事の一つだ。

 彼はまた小型のカモフラージュカメラを手に入れた。動体センサーが内蔵されたそのカメラは、画面の中で動くものがあるとそれを感知して、動画を記録し始める機能が付いており、記録する時間や動体センサーの感度はパソコンにつないで調整できた。

 翌週、彼は閉店後の見回りの最中に、女子トイレに入って、その動体センサー付き小型カメラを仕掛けた。

 しばらくは、どこにどんな角度でカメラをセットすれば、どういう画像が撮影できるか。自分は何が見たいのか。どういうものが映し出されれば、自分が興奮できるのか。なにより見つからない場所はどこか。そんなことに四苦八苦した。


 カメラのバッテリーは割と長時間持つし、スーパーの営業時間は10時から20時まででの10時間。トイレに人が入る時間はもっと短い。彼は“収穫の日”と名付けて、数日おきにカメラを回収し、新しいカメラの設置をした。


 “収穫の日”の彼は、買って帰った弁当に箸もつけずに画面に見入った。

画面には薄暗い個室に入ってきた女性が映し出され、女性がズボンのボタンを外し、ファスナーをおろす。そしてズボンのウエスト部分に手をかけると、彼の興奮は最高潮に達した。

 画面の中の女性がズボンと一緒に下着をおろす。画質は決していいとは言えなかったが、かろうじて陰毛の形が見て取れた。「おおー。」と声をあげる彼。言い終える頃には、画面には太ももやひざしか映っていない。一瞬の出来事ではあるが、彼を満足させるには十分な時間であった。

 次にスカートの女性が映り始め、スカートの裾から手を入れて下着をおろすと、彼は「パンツはストライプ柄か。」と、女性の膝上で左右に引っ張られている布を見つめて、つぶやいた。

 スカートがガードしているので、ほぼ何も見えないことのほうが多い。それでも、下着を着けていないスカートの中を妄想することは、彼にとって最高の刺激だった。


 靴の中に仕掛けるカメラは、2日に一回になり、3日に一回になり、気が向いた時と徐々に減って行った。動体センサー付きのカメラがもっとおいしいところをやってくれているのだ。なにより現在の仕事を失うわけにはいかない。それくらいの計算は出来た。

 しかし、リモコン付き超小型カメラというおもちゃを手に入れ、使い方もわかってきた彼に、その魅力に抗う術は無く、休みの日はバッグにカメラを仕込んで駅前のデパートなどをうろうろして標的を探した。


 

 盗撮をするスリルを味あうための盗撮。成果を見て興奮するための盗撮。彼は自分では気付かない内に深みにはまって行った。

 彼は自分の成果は自分だけのものにした。迂闊うかつにインターネット上にあげ、「私はこんなすごい事をやっている。」などと自慢し、多少の自己顕示欲を満たせたとしても、特定されるリスクと引き換えに出来る物ではない。と考えていた。


 休日も出かけるようになったある日の事、警備員室で待機していた彼の所に、掃除のおばさんが女子トイレで変なものを見つけた。と小さなカメラを持ってきた。

運よく警備員室には彼しかいなかった。彼は自分が仕掛けたカメラをつまんで、まじまじと眺めて言った。「うーん。なんでしょうね。電気部品?でしょうか。落とし物ですかね。まぁこちらで預かっておきます。」

 如何いかにも事務的であっさりとした彼の対応に、おばさんは怪訝けげんな表情を浮かべて何か言いかけたが、“問題”が自分の手から離れた安堵の方が大きかったのか、「じゃ、お願いします。」とだけ言ってドアに向かった。


「危ない。危ない。」彼はいったんデスクの上に置いたカメラをつまみあげて、裏側を凝視した後、ポケットにしまった。

見つからない所に貼り付けてあったはずだが、固定してあったテープがはがれたようだ。


 それから数か月、彼は“収穫”を続けた。より慎重になった彼のカメラが見つかることはなかった。

時々は、ヤバイ!バレたか?などヒヤリとした事もあったが、高画質なカメラへの変更や取り付け位置の変更。時には複数台のカメラを一つの個室に仕掛け、同じタイミングを違うアングルからの映像で楽しむなど、彼の趣味は充実していった。




 最初の異変は、彼が立ち止まって店内を見渡している時に起こった。

誰かに見られているような気がして振り向いた。整然と並んだ商品棚があるだけだった。

 それから数日間、誰かに見られているような感覚が肌を刺すことが続いた。

時には、女子高生が彼の方を見ていて、目が合うと眉をひそめられたことがあった。彼はすっと血の気が引くのを感じたが、平静を装った。

実の所、女子高生が見ていたのは、彼の後ろの棚に飾られたアイドルが写った広告で、女子高生が眉をひそめたのは、彼が動いて広告見えなくなったからだ。



 “収穫”を楽しんだ夜、ベッドに入った彼は、誰かに顔を覗き込まれているような気がして、目を開けた。常夜灯のオレンジ色に照らされた天井だけが見えた。

目だけを動かして周囲を見渡してみたが、見慣れた部屋の壁やカーテンだけが見えた。

彼はまた目を閉じた。

 

 翌日もその翌日も、そんなことが続いた。

疲れているのかもな。最近、出かけることも多いし。

そう考えた彼は、ふと4年前にブラック企業で働いていた頃のことを思い出した。働き始めて半年も経たない内に、言いようのない不安感や焦燥感しょうそうかんさいなまれ始めた。

「あの時はきつかったな。」一人そうつぶやいた彼は、その週から休日の外出をやめた。職場とコンビニの往復だけの日々が続いた。


 家に籠る休日が続いても彼が退屈することはなかった。

今まで“収穫”したモノがたくさんあった。インターネットの世界を覗けば、既に一生かかっても全てを見るのは無理な程のモノがあった。その上、日々新しいモノが世界中で生まれ、インターネットの世界にアップされていた。

 彼は、自分の“収穫”を楽しみながら、世界中のモノを楽しんだ。

時折、どう見てもアダルトビデオのワンシーンを、「盗撮」等とうたっているモノを見つけると、実際に危ない橋を渡っている自分がほこらしく思えた。


 

 しかし、背後から、足元から、真横から、天井から。

時折、彼が感じる視線は徐々にその回数を増し、肌に感じる痛みも強くなっていった。

彼は満足に眠れない日々を過ごした。


 さらに二カ月ほど経った頃。シャワーを浴びていた彼は、突然強い視線を感じた。

きょろきょろと周りを見渡し、シャワーカーテンを乱暴に開いて、トイレを確認すると、浴槽から出て、ドアを開け、部屋を覗き込んだ。


 見慣れた部屋に多少の安堵を覚えると、

「まぁ男の裸なんか見ても、価値は無いしな。」そう呟いた。

声に出して言う事で、見られてはいない。見てもしょうがないものだ。だから見られてはいない。そう思い込もうとした。

 再びシャワーを浴び始めた彼は、今度は刺すような強烈な視線を感じた。

価値は無い。価値は無い。見られてはいない。彼は呪文のように頭で繰り返しながら、しばらく耐えていたが、叫び出したい程の恐怖が彼の全身を包んだ。

びくびくしながらシャワーカーテンを開け、ドアを開けてトイレから部屋を覗き込んだ。


 誰もいないことを確認すると、バスルームを出て濡れた身体のまま部屋をうろつき、ベッドの下を覗き、ハンガーにかけた洋服をかき分け、引き出しと冷蔵庫を開けて中を確認した。トイレに戻ると便座の蓋を開けて見て、貯水タンクの蓋を持ち上げて中を見た。

もう一度、部屋を見渡すと、「はぁっ!」と大きな息をついた。


 体を拭いて服を着た。ベッドに腰かけたものの、すぐ立ち上がり部屋の中のあらゆるものを確認し始めた。

 ベッドのネジや蛍光灯のカバーの中、衣装ケースの中の服を全部出して一枚ずつ確認しながら畳み直し、延長コードやコンセントは分解してみた。自転車の調整やパソコン周りの事位は出来るように、安物のドライバーとレンチのセットは持っていた。

彼が考える全ての物を確認し終えると、外は明るくなり始めていた。


 寝ないまま仕事に行ったその日の夜。

ベッドでうつらうつらしていた彼は、その夜も覗き込まれているような感覚で目を開けた。一時間ほどの間に何度か視線を感じて、その都度、耐えられなくなって目を開け、周囲を見渡した。

 彼は起き上がって、リモコンを手に取り電気を点けた。立ち上がるとトイレに向かった。


 ドアを開けると、しずくたたえたシャワーカーテンがしっとりとした光を反射していた。

用を足した彼は、洗面台に向かって手を突き出し、丁寧に手を洗った。


 ふと見上げた鏡に映った少し疲れた彼の顔。

鏡の中の彼の目に誰かの目が重なった。

「え。」すぅっと血の気が引いていく。彼は振り向いた。開けっ放しのドア。


 「幽霊かお化けだな。」彼は自分を落ち着かせるように、ゆっくりと言った。幽霊だかお化けだか知らないけど、あちらの世界から見ているだけなら、どうってことはない。そう思い込もうとした。

 鏡の方に向き直った。鏡にはたくさんの人の目が映っていた。

「うわ。うわ。」驚く彼を見つめる目。目。目。目。

身動きが取れないまま、浅くなる彼の呼吸。

「ああああっ!」

彼は鏡を殴った。反動で彼は反対側の壁に背中を打ち付けた。

「ぅあ ぁああ。」その場に尻もちをついた彼は、言葉にならないうめき声をあげた。


 どれくらい時間が経っただろうか。玄関のチャイムで我に返った彼は、バスルームを出て玄関の扉を開けた。

「なにかあったのか?すごい音がしたけど。」一階に住む大家さんが、不安そうな顔をして口を開いた。

「あ。大家さん。すいません。お風呂で転んじゃって、鏡を割ってしまいました。」彼は努めて平静に言った。

「ええっ!鏡が?長早ながさきさん、怪我は?」問いかけながら、彼の全身を見た大家さんは、彼の右手から血がぼたぼたと落ちているのを見つけた。

「うわ。凄い血じゃないか。」

そう言われた彼は、自分の右手が血まみれなことに気付いた。刺さった鏡の破片がキラキラと冷たい光を反射していた。

「大したことないですよ。」彼はそう言ったものの、その時になってひどい痛みが襲ってくるのを感じた。

「いや。これは大したことあるよ。長崎さんは自転車しか持ってないよね。病院に連れて行ってあげるから、準備しなさい。」

「あ。はい。ありがとうございます。」

親ほど年齢が離れた大家さんからの申し出は、素直に受けることが出来た。

「この時間だと、救急外来だな。今日はどこの病院だろう。」ぶつぶつ言いながら大家さんが廊下を歩いていく。



「そのけがの原因は、喧嘩とかじゃないよね。誰かを傷つけたり、どこかの器物を破損したりしてない?」カルテを書き終わったらしい医者が彼の方を向いて言った。

「喧嘩とかそんなんじゃないですよ。風呂場で滑って手をついたら、鏡が割れちゃって。」と嘘をつく彼。

「それは災難だったね。でも、普通は手の平をつかない?」医者が疑惑の入り混じったような微妙な口調で聞いた。

確かにとっさに手をつく時、手の甲をつく事はそうそうない。彼は考えを巡らせた。

「ああ、あの、あのなんだ、あれ、シャワーを持っていたんです。」彼は思い付きで嘘を言った。

「なるほどね。シャワーを握っていたんだ。」

納得したんだか、してないんだか無表情で答える医者。

「はい。握ってたから、こぶしがぶつかっちゃたんです。」医者が言った“握っていた。”と言う表現が合うような気がして、彼はそう答えた

「なるほどねぇ。」医者がそう答えると、彼はほっと胸をなでおろした。

看護士さんが包帯を巻き終わると、治療は終了した。

その夜ジンジンと痛む右手を抱えて、彼は眠りについた。


 翌朝、仕事先と派遣元の警備会社に連絡をすると、一週間ほど仕事を休むように指示された。

 夕方には大家さんが依頼した業者が来て、新しい鏡が設置された。業者が帰ると彼は鏡を外してタオルでくるむと、衣装ケースの奥にしまった。



 仕事が休みになって3日目。

部屋のパソコンで盗撮サイトを見ていた彼は、また突き刺さるような視線を感じた。それも同時に多方向からの視線が彼を見ていた。

「誰かが見ている。」「誰かに見られている。」その脅迫めいた圧迫感は、彼の心を押しつぶし始めた。

 居ても立っても居られず、立ち上がって部屋を見渡した。なぜだか分からないけど、“これ以上、ここにはいられない。”そう感じた。

 彼は財布と携帯電話をポケットに突っ込むと、外に飛び出した。

前の通りに出て、アパートを振り返ると、彼の部屋のドアには無数の目。目が彼を見ていた。

彼は走り出した。

道行く人が、すれ違う車も追い越していく車も彼を見ていた。

監視していた。

コンビニの駐車場や個人宅の防犯カメラ。彼の目に映るすべての“目”が彼にピントを合わせて、彼をとらえていた。


 彼は走りながら“目”のない場所を探した。思いついたのは、“樹海”

半年だか1年に一度、捜索をしなければ見つけられない自殺者達。ほぼ白骨化した死体の映像が彼の脳裏に浮かんだ。

“樹海”に行けば、見られることはない。そう確信した彼は、電車に乗った。

所持品は携帯電話と財布だけだった。

樹海へ行くルートを確認した時、携帯電話のカメラに気付いた彼は、すぐに携帯電話をゴミ箱に投げ捨てた。




 バスから降りた彼は、降りた場所でバスが見えなくなるまで見送ると、フェンスをまたいで、森の中に入った。日没が迫っていた。

駅や電車、バスでも無数の“目”にさらされた彼は、すで憔悴しょうすいしていた。木の根につまづき、下草に足を取られながら、森の奥を目指した。


 30分ほど歩いただろうか。彼は暗い森の木の根に腰を下ろした。苔に含まれた水分が、ズボンに染み込んでお尻を濡らした。

遠くにトラックの走る音が聞こえてくるだけで、森の中は静かだった。


「ふぅ。」息を吐いた。間近で聞こえる音は自分の息遣いだけ。

わずかな時間の静寂。


 突然、彼は突き刺さる視線を感じて顔をあげた。

周りを見渡して、木の幹に蛾を見つけると、「こいつか?こいつの目か?」そう呟いて素手で叩き潰した。

消えない視線が、あらゆる角度からチクリ、チクリと彼の心の風船を刺していた。


 着ていたシャツのボタンに気づくと、「ボタン型のカモフラージュカメラもあったな。」そうつぶやいて、ボタンをちぎり始めた。靴とズボンも脱いでその場に放ると森の奥に向かって走り始めた。


どれ程走ったのか。

木の隙間から届くわずかな月明かりだけが、ここは完全な闇ではないと告げていた。


 何度もこけ、ぶつかった。手足は血がにじみ、右手の包帯は、手首に巻き付いたわずかなぼろきれになり、服もパンツも苔や泥で汚れ、傷だらけになっていた。


 立ち止まった彼は、木の幹に右手の小指側の側面を付いた。

そしてこぶしを握りしめた。


「はぁはぁ。」

彼の大きな息遣いは、深い木立の中にただ吸い込まれていった。


 彼はまだ誰かの視線を感じていた。振り向いても、振り向いても、背後から、空から、地面から、木の陰から誰かが見ていた。

「あっ。あっ。」

おびえ震える彼の身体。


『見るから見られるのか?』


 彼は幹に付いた右手の親指を立てた。数秒見つめると、突き立てた親指に向かって全身の力を込めて顔を激突させた。

「ぐあぁぁっ!」

樹海の静寂は、彼の叫び声さえもいとも簡単に包み込んだ。


 膝を突き、顔に右手を刺したまま彼は左目で辺りを見渡した。

「まだ見てる。まだ見てる。誰かに見られている。」

そう呟くと、今度は地面に付いた左手の親指を立てた。




 ひと月後、富士吉田警察署。

廊下から書類を片手に、部屋に入って来た刑事が同僚に声をかけた「保木やすきさん、例の樹海の仏さん、身元割れましたよ。長早裕也ながさき ゆうや。27歳。警備会社アルバイトだそうです。」そう言って書類を差し出した。

 声をかけられた刑事が書類を受け取った。「借金や悩みがあった様子はないですね。」刑事がそう言い添えた。保木やすきは書類を見ながらつぶやいた。「死因は眼底部からの失血による失血性ショック死か。」

「何があったら、自分で自分の両目を潰すなんてことが、出来るんだろう。な?」

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視線 鷹山勇次 @yuji_T

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