他者連続性信頼依存に関する考察。

ピコピコ

他者連続性信頼依存に関する考察。

 前を歩く人のペースが遅くて、追い抜こうと歩行速度を速める。だけどもしかしたらその人は突然速度を上げるかもしれない。また逆に遅くなるかもしれないし、果ては立ち止まる可能性だってある。

 なのにそういう時僕は、きっとその人は一定の速度で歩き続け、僕が追い抜こうと決めたタイミングから抜き去るその瞬間まで、ずっと同じペースで歩き続けるんだろうと勝手に決めつけてしまう節がある。

 そう行動する僕自身が速度を上げ下げしているのに、その人は連続して一定を保つだろうと思ってしまうのだ。

 その事を僕は、他者の連続性信頼依存と呼んでいる。

 まるで風見鶏のように、寄せては返す波のように。人の行動原理なんて流動的なもので、前回こうだったから今回も、そして次回もこうだなんて理屈は通用しないのに、その連続性を信頼し過ぎて、それに基づいてこちらの行動を決定してしまっている。これは相当に危険な行為だと思う。

 だって相手だって僕と同じようにあれこれと考えて行動する生き物なのだ。もしかしたら、いやきっと思っていた展開とは違う事態になってしまう。そしてその時の対応に戸惑う。僕はアドリブに弱いから、きっとうまく対処出来ない。

 まぁ。でも。

 なんやかんやと回りくどく色々と言ってみたけど結局要するに僕が言いたい事はたった一つだ。



 彼女は、今でも変わらずに、僕の事を好きなのだろうか。



 彼女とは中学生の時に出会った。

 僕のクラスの担任は話が長くて、いつもホームルームがなかなか終わらなかった。その為、隣のクラスでガタガタと椅子をしまう音が響くと、あぁ、また先に終わったんだなと悔しい思いをしていた。

 彼女はいつも廊下で僕が出てくるのを待っていた。家が近いという理由から毎日一緒に帰っていたのだ。最初の内は友達から冷やかされて、なかなかに恥ずかしい思いもしたが、だからと言って一緒に帰るのを止めようなんて発想は僕からも彼女からも無かった。途中からすっかり当たり前の光景になっていたのか、特別何か言われる事も無く、僕達もそれが当たり前のようになっていた。

「今日こそは僕が待つ番だと思ってたのに」

 いつも通り彼女を待たせてしまった事をおどけながら詫びると、彼女は手の甲で口元を隠しながらクスクスと笑った。手に持った水色のトートバッグと、耳の後ろから飛び出るツインテールが可愛く揺れる。

「いいの。待つの好き。ずーっと待っていられる」

「ふーん」

 きっと嬉しかったんだと思う。だけど僕は気取って素っ気なく返した。

 彼女と一緒に居るのは楽しかった。どうでもいい会話で盛り上がったし、僕の好きな漫画やゲームにも興味を持って関わってくれていた。

 彼女の事は好きだった。だけどそれが恋愛的な感情だったかは分からない。そういう意識の仕方とか、あの時の僕は分かっていたのだろうか。一番の友達くらいの感覚だったかもしれない。

 友達の誰々があの子の事が好きだとか、誰と誰が付き合ってるだとか、そういう話題の中で、案の定僕と彼女についても噂になる。あまりに一緒に居るもんだから、付き合ってるんじゃないかという話が広まったりもした。だけど実際には僕達2人の間にそんな特別なものは無かった。一緒に居る事が本当に多かったから、今更冷やかすような友達も少なく、そんな噂話はあっという間に収束したのだ。



 関係が変わり始めたのは高校に上がってからだ。

 僕と彼女は学力も似通っていて、示し合わせた訳じゃなく、本当にたまたま同じ高校に進学していた。

 最初の内は、それまでと変わらず一緒に帰っていた。だけどお互いに新しい友達が出来たり、部活動や委員会の活動があったりで、どうにも帰る時間が合わなくなっていった。段々と一緒に帰るタイミングを失って、それに伴って会話をする機会も少なくなっていた。

 彼氏彼女の関係だったら違っていたのかもしれない。学校が終わる時間が大きく違っていても調節して待ち合わせて、一緒に帰ったりしたのかもしれない。だけど僕達はそんな関係じゃなかった。

 一度、彼女の携帯電話に一緒に帰ろうとメールをした事がある。今までそういう約束無く自然に待ち合わせて帰っていたので、ちゃんと誘ったのはこれが初めてだったかもしれない。お互いの部活動が終わる頃の時間だった。

『あ、ごめん。今日は友達と帰る。ごめんね』

 返ってきたメールを見てなんとなくショックを受けた事を覚えている。初めて誘ったから、ちゃんと断られたのも初めてだったのだ。

 それ以来僕はメールが送れなかった。断られる事に怯えていた。意地を張っていた部分もあるかもしれない。僕は彼女との関係を続けていくつもりなのに、彼女は新しい交友関係を優先するという事実に嫉妬していたのかもしれない。

 そして。そこで、気付いてしまったのだ。

 逆だ。

 彼女は新しく広がった世界を生きているのに、僕は彼女との繋がりにしがみ付いていた。僕の方を向いていた彼女の視線は離れて、だけど僕は彼女の方しか向いていない。

 どこかに行って欲しく無かった。誰にも取られたくなかった。彼女を独占したかった。

 僕は、彼女の事が好きだったのだ。

 それは、どうしようも無い程の恋愛感情。

 そうとしか思えなかった。もう友達としてだなんて自分で言いたくなかったのだ。

 友達として、なら、その内誰かに取られてしまう。

 異性として、彼女の事が好きな誰かに、きっと恋愛対象として取られてしまう。

 それが嫌だと、気付いてしまったのだ。



 もやもやした気持ちのまま遠慮無しに季節は巡り、高校3年生になった。

 彼女とは仲の良い友達で居られたと思う。だけどやっぱり関わる時間は大幅に減っていた。

 もう彼女の交友関係も詳しく知らない。きっと彼女の方も、僕の知らない事が増えたと思う。だけどそれをどう思っているか分からない。きっと気にも留めていないんだろう。僕と違って。

 幸いな事に……と言っていいのか、彼女が誰かと付き合ったという話は聞かなかった。僕の方は言うまでも無く、そんな青春は訪れなかった。

 そして事件は起きた。

 それは卒業式の日。

 僕は大学、彼女は専門学校に進学となり、ついに学校も分かれてしまう。一緒に帰るとかそういう次元の話では無くなってしまった。

 もう話をする機会さえ無くなってしまうかもしれない。ますますお互いに違う世界が広がって、どんどん疎遠になっていく。そんな不安で押し潰されそうだった。

 どうして、彼女の事が好きだと気付いた時点で、告白しなかったのだろうと思った。

 でもきっとそう考えたとしても出来なかった。それまで、一緒に居る時間が長過ぎたのだ。

 周囲の誰もが付き合っていると勘違いする程の距離感に居た僕達。改めて告白なんて、気恥ずかしくて出来なかった。もしも断られたどうしようという恐怖もあった。きっともう今までの関係には戻れない。その頃までかろうじて繋がっていた関係を、その瞬間に断絶してしまう可能性があった。そうしたら、もうとっくの昔に疎遠になってしまっていただろう。

 じゃあやっぱりこれが最善だったのだろうか。僕達はあの中学生の時から、こんな未来をなぞるようにして生きてきたのだろうか。

 そんな憂鬱に苛まれていた卒業の日。式の後に彼女に呼び出された。

 そして。

「私、ずっと好きだったんだ。中学生の頃から。ずっと」

 告白された。

 目の前が真っ暗になった気がした。だってそれは、始まりの言葉では無くて。

「待つの好きだから、ずーっと待ってたんだけどなぁ」

 まるで終わりのようだったから。



 後から聞いた話では、彼女はモテたらしい。

 何人かに告白されたけど、それら全て断って中学、高校と6年間フリーを貫いていたと、彼女と同じクラスだった友人が教えてくれた。

「……待ってたんだ」

「何を?」

 僕の独り言を丁寧に拾った友人に、僕は首を振って応えた。

 今はどうなんだろう。どんな風に過ごしているんだろう。

 危惧していた通り、僕と彼女は疎遠になってしまった。家が近いとは言え、姿を見掛けた事は一度も無い。もしかしたら、もう実家には居ないのかもしれない。携帯電話での連絡も取っていないから、登録されている番号が今も通じるかさえ定かでは無い。だけど試す事も無い。繋がったとして、何か用事? と聞かれるのが恐い。もう用事が無いと連絡を取れない相手になってしまったと思い知らされてしまうからだ。



「…………はぁ」

 溜め息をついた。部屋を西日が照り付け、扇風機では補えない蒸し暑さが肌を包む。

 山も谷も無い平坦な道を足を引きずるようにして過ごした青春は、起承転をすっかり忘れた4コマ漫画のように、何のオチも無い結へと収束していくように思えた。いまやもう大学4年生である。

 目の前のパソコンには作業途中の卒論が表示されている。

 題して、他者連続性信頼依存に関する考察。である。

 バカみたいだよなぁと思いながらも、心のどこかで思っている事があるのだ。それは矛盾した二つの期待と不安だが、どちらか一方を手放す勇気が、僕には無い。

 彼女はもしかしたら、今でも僕の事を想ってくれているかもしれない。好き、とまではいかなくても、その他大勢よりは少しだけ特別な存在と考えてくれているかもしれない、という期待。その連続性を信頼し依存してしまっているという不安。本当はそんな事無いのに。この濃密な数年間で、僕の事なんてすっかり忘れてしまっているかもしれない、という不安。

 このテーマは失敗だったと後悔している。書こうと決めてゼミの教授から了解を得たその時から、僕は彼女の事ばかり考えてしまっている。それまでずっと頭の片隅に、だけど完全には消えてくれなくてふとした時に浮かぶ程度だったが、今はもう頭全体を埋め尽くしてしまっていた。

 生温い風ばかり送り込んでくる憎らしい部屋の窓から、夏祭りの賑やかな音が遠くに聞こえた。

「あ。もうこんな時間か」

 友人と約束をしていたのを思い出す。集まるのは男3人である。なんと寂しい大学生活の最後だろう。

 一向に進まなかった卒論の作業を中断して、出る準備を済ませる。進捗からして本当は遊んでいる場合じゃないんだけど、気晴らしにはいいだろう。卒論についても、彼女についても。


 時間にルーズなのは僕だけじゃなかった。合流するはずの2人も、どうやら遅刻するらしい。

 そんなわけでお祭りの会場に男1人である。虚しさが加速する。これじゃあ卒論が進んでいない事への焦りも忘れられないし、彼女の事も、余計に頭に浮かんでしまう。

 ここは中学生の頃、彼女とよく遊びに来ていた夏祭りなのだ。

 金魚掬いの屋台の前に立つ。そういえば、調子に乗って掬っていたら水の中に落ちてしまった事があったな。店主のおっちゃんは慌てた様子で「大丈夫かい!?」と気にかけてくれたけど、彼女は実に楽しそうに笑っていたんだ。恥ずかしかったし悔しかったけれど、彼女の笑顔が見れたから、結果的には良かったなぁなんて思ったりしていた。

 そう。ちょうどあんな風に。

 手の甲で口元を隠しながら、クスクスと……。

「…………あ」

 …………あ。

 思考の中で溢れそうになるくらい何度も思い描いた彼女の姿が、目の前にあった。周囲の一切の音が消失して、時間が止まったような感覚に飲み込まれる。

 先に気付いたのは、彼女の方だった。

 人混みの中のほんの数メートル先。奇跡みたいに2人の間には障害物が何も無かった。

 数秒間見詰め合った後、彼女は笑顔になって近付いて来た。

「久しぶりだね。元気だった?」

「あ、うん」

 突然過ぎて、驚き過ぎてちゃんと返事が出来ない。あれ、僕どんな顔してるのかな。どんな表情が正解なんだろう。

 最後に会ったのが高校生最後の日。だから約4年振りくらいだ。

 凄く大人っぽくなった。だけど雰囲気は変わっていない。極端に言えば、中学生の頃からずっと。

「懐かしいよね。このお祭り。ずっと来てなかったんだ」

 それにしても……綺麗になったなぁ。

 少しだけ茶色に染まった髪と、小さく控えめなアクセサリー、あの頃よりずっと色っぽい浴衣姿。そういうのを見ると、今更当たり前なんだけど、距離が出来てしまった事を痛感する。

 どうしてだろう。ずっと頭から離れなかった彼女に再会出来たのに、ごく普通に会話しているのに、ひたすらに寂しく感じてしまう。

「……1人で来てるの?」

 そんなわけ無いと思いながらも尋ねてしまった。そうであって欲しいと祈りつつ。

「ううん。専門の友達と一緒。あそこでカキ氷並んでる」

 指差した先には赤い浴衣姿の女性が居た。良かった、と安堵する。男だったらすぐに逃げ出していたかもしれない。だってそうだったら高確率でそいつは彼氏だ。

 でも、彼氏が居ないという事にはならない。彼女には、今そういう関係の人が居るんだろうか。

 今は……僕の事をどう思っているんだろうか。

「そっちは1人?」

「あ、えーと……うん」

 彼女が尋ねてきた。友人を待ってはいるが、現状は1人だ。悲しい事に。

 説明すると「寂しいね」と言いながら笑った。口元を隠すその仕草は相変わらずで、あの頃よりも可愛く見えた。

 聞けないよなぁ、と思う。それを聞いてどうするつもりなんだと、自分に問う。

 彼女はあの日、ずっと待っていたと言っていた。僕が告白するのを、待っていたという事だろうか。そんなの自分勝手だよ、と思いつつも、自分の情けなさに涙を堪えていた。

 今も待っているだなんて事はあり得るだろうか。そうあって欲しいと僕が思っているだけなんだけど。でも彼女は待つのが好きだと言っていて、僕はずっと片想いのまま変わらなかった。

 他者の連続性信頼依存。こういう時もそう思えればいいのに。思い込みたい。勇気が欲しい。

 本当はそうじゃ無かったとしても。今ここで一歩を踏み出す為の勘違いをしたい。

 君は、今も。

「ねぇ」

 パンクしそうな頭に、透明で綺麗な声が染み込む。金魚掬いの屋台を見ながら、彼女が僕に尋ねた。

「今、付き合ってる人は居るの?」

 その透き通るような真っ直ぐな声に少しだけ混乱が落ち着く。聞き入ってしまいそうなほど優しい声をしている。

「居ないよ」

 正直に答えた。強がる勇気は無かった。同時に、君以外を選ぶわけないという細やかな主張でもあったんだけど、わかってくれるだろうか。

 それにしても。僕が怯えて聞けなかった事を、彼女は軽々と聞いてくるんだ。

「ふーん。そっか」

「…………」

 だけど尚、僕は聞けなかった。同じ質問を繰り返すだけで良いのに、縛り付けられたように口が開かなかった。

 ほどなくして、彼女の友人が両手にカキ氷を持って戻ってきた。僕の方にも携帯電話に友人から到着した旨のメールが届き、僕らは解散する事になる。

「それじゃあ、またね」

 運命のような再会はほんの数分で終わってしまった。

 何気なく言ったであろう「またね」の言葉に、僕は期待してもいいだろうか。

 後ろ髪を引かれながらも、でもやっぱりもう二度と会えないんじゃないかという恐怖を抱えながら彼女に背を向ける。

 あの頃ずっと待ってくれていた彼女。

 一度としてこっちから迎えに行かなかった僕を、あの頃に戻って殴ってやりたかった。


 その後僕は友人2人と合流してお祭りを楽しんだ。適当に食べて、適度にお酒も呑んだ。卒論の進捗やらお互いの浮いた話の無さを肴に、鬱屈した感情を薄めるには充分な時間を過ごせたように思う。

 もしかしたらこいつらとこうして騒ぐのも、今年が最後かもしれない。社会人になってどうなるのか見当もつかないけど、きっと僕達は少しずつ関係が離れ、疎遠となってしまうのだ。彼女と同様に。

 このお祭りは彼女との思い出で溢れていた。だけどそれが、今年はこの友人らとの思い出で上書きされていく。そうして新しい記憶が重なっていくたびに、彼女の存在はどんどんと影を薄めていって、いつしか、すっかり忘れてしまう日が来るのだろうか。今こんなにも僕の感情を支配しているのに。

 だけどそうでもしないと生きていけないのかもしれない。いつまでも過去を引きずっていては、未来を生きる事なんて出来ない。僕だけじゃない、皆きっとそうして生きている。自己がそうであるように、他者だって連続しない。なのに勝手にそれを信頼し、依存しているのだ。彼女だってそうだ。きっと僕との思い出も、別の誰かで上書きしている。そんな当たり前の事に気付けないのがつまり、信頼依存なのだろう。

 卒論の進捗が少しだけ進んだように感じて、思わず苦笑が漏れる。

 花火が上がった。それを男3人、並んで見上げる。むさ苦しい光景だけど、なんだかちょっとセンチメンタルにもなるのだ。

 暗闇を眩く彩りながら、思い出が弾けていく。それは儚い一瞬の輝きだけど、痛みを伴う程の存在感で脳裏に焼き付いて。

 同じ場所で同じようにこの花火を見上げているであろう彼女に、この想いが届けばいいのにと思った。



 卒業まで頑張ろうぜと熱く語り合い、友人と別れた。花火の終わりをきっかけに、会場の人混みも徐々に減っていき、それに倣って僕も帰宅の途に就く。

 明るく賑やかだったお祭りの会場から家路を歩くと、次第に暗さと静けさが増してどうにも寂しく感じる。これはいくつになっても慣れない。後の祭り、という言い回しが纏う寂寥感を身を以て実感しているようだ。突然世界で独りぼっちになったような気になってしまうのだ。

 誰かに隣に居てほしい。

 いや、自分を誤魔化すのはやめよう。

 願わくば彼女に。

「…………あ」

 お祭りの会場を後にしてほんの数分、交差点の角にある街灯の下に、浴衣姿の女性が立っていた。見慣れたような見慣れていないような、だけどどうにも懐かしい表情をした、僕の大切な女性が。

 高鳴る心臓を落ち着かせるように息を吐き、その人に近付いて声をかける。失ってしまったあの頃を再現するかのように。

「今日こそは僕が待つ番だと思ってたのに」

 すると彼女ははにかんで答えた。見慣れていないなんて事は無い。ずっと綺麗になったけど、その可愛らしい表情はあの頃のまま変わってなどいなかった。

「いいの。待つの好きだから」

 さっきは持っていなかった浴衣には似合わないビニール袋が、中学生の頃彼女が愛用していた水色のトートバッグを思い出させて、弾けたはずの思い出が鮮やかに蘇っていく。



 家までの道を、2人並んで歩く。あの頃と同じように、だけどあの頃には無かった様々な想いをたくさん抱えながら。

 彼女は専門学校だったから、去年から仕事をしている。学生時代はとにかく時間が無くて、勉強が大変だったらしい。今は東京に住んでいるが、夏休みを利用して実家に帰ってきているみたいだ。

「さっきの友達は?」

「方向が違うから。そっちは?」

「同じく」

「そっか。仕事はどう? 大変?」

「うーん。まだまだ覚える事がいっぱいで」

 本当に聞きたい事は聞けないまま、何とも無い会話が続く。まるでカウントダウンのように、家までの距離が近付いていく。

 僕達はすっかり大人になって、見事に関係を見失ってしまった。

 いつもどんな風に会話をしていたんだろうか。聞きたくて聞けなかったり、空気を読んだり距離感を測ったり、そんなぎくしゃくした2人だっただろうか。成長した結果不器用になっているだなんておかしな話だ。これじゃあ過去の僕に偉そうな事は言えない。過去の僕が、今の僕を殴りに来そうだ。

 そうこうしている内に、2人の分かれ道まで辿り着いてしまった。お互いここから家までは数分の距離だけど、道はもう同じでは無い。

 会話が途切れず盛り上がっている……というわけでも無いのに、なかなか別れが告げられない。まるで別れを惜しむカップルのように、無言のままゆっくりと道を歩く。

 そして、彼女が口を開く。聞きたくないサヨナラの言葉に怯えながら、平静を装って待った。

 すると彼女は予想外の提案をしてきたのだ。

「ねぇ、これから花火やらない?」

 そう言って、持っていたビニール袋から家庭用手持ち花火を取り出した。どうやらお祭りのくじ引きで当てたらしい。ついでに屋台のおっちゃんからマッチも貰っていた。

「持って帰っても、実家で一人でやってもつまらないし。両親とやってもなーって思って。どうかな?」

 断る理由なんか無かった。「いいね」なんて気取って返事をしたけど、内心舞い上がるように嬉しかった。

 そして僕達は花火を始めた。

 他に誰も居ない小さな公園。2人だけの空間に眩しい花が咲く。

「綺麗! 手持ちは、打ち上げとは違った風情があるよね」

 浴衣の彼女は笑顔ではしゃいでいる。ここまで歩いてくる途中には見せなかった、無邪気で無防備な笑顔だ。きっと僕も同じだ。楽しくて懐かしくて、幸せで仕方がなかった。

 あぁ、こうだった。彼女との関係はこんな感じだった。

 測っていた距離感の答えが出たのか、はたまた面倒になって考えるのをやめたのか。そんな煩わしい立ち位置を意識しなくても、僕達は簡単にあるべき関係に収まるのだ。だってずっとそうだったんだから。僕達は一度も付き合ったりしなかった。だけどそれとは別の、特別な関係だったのだ。

 歩くペースや思考が変わったり、行動が一貫したり流動したり、そういう変化がどれだけたくさんあったって、彼女が彼女であって、僕が僕である事はいつまで経ってもずっと変わらない。

 僕は彼女が好きだ。あの頃からずっと、変わらずに好きだった。

 この先何があっても、その事実だけは絶対に変わらない。彼女の事が好きだ……という事じゃなくて。彼女の事が好きな僕が居た、という事実が。

 彼女の事が好きじゃなくなっても。他の誰かを好きになっても。いつか彼女の事を忘れてしまう時があったとしても。この感情があったという事実は、永遠に消えない。

 これは後悔や未練の類では無い。

 誇りだ。

 こういう青春だったと、胸を張って生きていく。

 上書きされた思い出は消えていくだけのものでは無い。思い出は重なっていくからこそ、濃密で奥深いものになるのだろう。

 ベンチに並んで座り、花火に火を点けた。遠慮がちに僕を一瞥した彼女が火花を見下ろす。

「実はね、結婚する事になったんだ」

 手に持つ線香花火のように、儚い呟きが零れ落ちる。

 僕が持つ線香花火はまだ勢い良く火花を飛び散らせ、落ちる気配は無い。

「……そうなんだ」

 そこまで大きく動揺しなかったのは、途中からなんとなく感じていたからだった。

 こんなにも自然に彼女との距離が縮まったのは、彼女が近付いてきてくれたからだ。

 待つのが好きだった彼女が僕との距離を縮めてくれたのは、もう待っていないからだ。

 待っていない僕と一緒に帰ったのは、僕に話したい事があったから。

「幸せになってよ」

 笑顔になれた。自分で自分が何様のつもりなのか分からないけど、精一杯彼女を送り出す。

 僕と繋がりの切れた世界へ。いってらっしゃいと手を振る。

「ありがとう。私、君が大好きだった。だからこれは、本当に自分勝手な私の我儘なんだけど、サヨナラする前にしたかった事。君の中で、最低な女になる為のケジメ」

「どういう……」

 どういう意味、と尋ねる前に、口を塞がれた。彼女の艶やかで柔らかな唇で。

 呼吸と思考が止まった。静かな夜の闇に、線香花火の光と音だけが浮かび上がる。

 彼女の気持ちは連続していなかった。いつからか分からないけど、連続も流動も繰り返して、どんどんと僕のそばから離れていったのだろう。

 だけど……信じるのだ。これからどんなに色々な事があっても、記憶の片隅に僕の居場所を残しておいてくれている。そんな勝手な信頼を寄せる。

 その都合の良い可能性だけで、僕は幸せだった。

 彼女が好きで良かったなぁ。

 この感情には、ちょっとだけ強がりが含まれているかもしれない。だけど今だけは許してほしい。何しろ僕が持っている線香花火は、今もまだ必死に輝き弾けている。この小さな意地に、僕が負けるわけにはいかないから。


 この火が落ちるまでは、泣かない。

 彼女とサヨナラをするまでは、泣かない。

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