後編

 上がった部屋の床には蒸留酒の瓶が散乱していた。

 そりゃ、二日酔いにもなるわな。と、盛大なため息を、これ見よがしについた。


「飲みすぎだ」


 散らかったテーブルに紙袋を置き、締め切った窓を大きく開け放てば、冷たい秋風が吹き込んできた。


「明日にはいつも通りに戻るから……少将ちゃんにも、ちゃんと謝るから」


 ごそごそとベッドに潜り、背を丸くするのを見て呆れながら、散らかった空瓶をゴミ袋に放っていく。ガチャンガチャンと音を立てながら片付け、ひとまず己の座る場所を確保し、自前のナイフを取り出して買ってきた柿を剥き始めた。


「おい、マナト」

「サリーよ」

「軍人じゃねぇお前をその名で呼ぶ気はない」


 サリーとは、マナトの愛称みたいなものだ。本名は佐里さり愛翔まなと。生まれも育ちもこのヒノモリで、俺とは俗にいう幼馴染、腐れ縁ってやつだ。


 小さい頃からその名前が嫌いで、本名で呼ばれることを極度に嫌っているため、周囲にはサリーと呼ばせている。軍服の下はいつもボンテージ姿で、踵の高いブーツなんて履いているが、俺と同じ男だ。身長だってそう変わらない。

 本当は可愛いワンピースやフリルのスカートが好きらしいが、似合わないからと言ってボンテージを履くようになり、今に至る。まぁ、引き締まった体に似合っていて、俺的にはありな訳だが。


 そんなでかい図体を縮こませる姿は、いつものボンテージ姿からは想像がつかないほど弱っている。

 もごもごと不満を口にしているのを、聞こえるようにはっきり言えと怒鳴りたいのをぐっとこらえる俺は、なんて優しいのだろうか。


「今のお前を軍人とは認めない」


 そうはっきりと告げ、柿が盛られた皿と水を注いだコップをベッド横のテーブルに置き、床にどっかり座り込む。

 毛布から顔を出したマナトは唇を尖らせた。


「とりあえず水分を取れ。むくみと涙で酷い顔だぞ」

「……モーリスって昔から小姑みたい」


 ぶつぶつと愚痴りながら体を起こしてベッドの端に座ったマナトは手にしたコップを秒で空にし、口紅の跡が残る唇で盛大なため息をついた。そして、十数秒の沈黙ののち、ちらりとこちらを見る。

 話したいことがあるなら聞いてやらないでもない。むしろ、聴かなきゃ分隊長に報告も出来ないから聞くつもりで来た。


「話してみろよ」


 そう切り出せば、マナトは唇を突き出した不満そうな顔のまま、少しばかり思案した。

 どうせ男絡みだろうことは想像がついている。

 ややあって、かすれた声で「セイラちゃんが」と事情を語り始めた。


「結婚するの」

「あー、仕立て屋の娘か」

「うん……セイラちゃんの弟くんを助けたことがきっかけで、ご家族とも付き合いがあるんだけど」

「ん? まさか、その弟に手を出して訴えられたとか?」


 さらにそれが結婚相手に知られて破談になり、嘆いたうら若き娘が命をなげたのか、賠償問題に発展したのか。と無理くり事件にしようとすると、腫れぼったい目がぎろりと睨んできた。泣き腫らしていなきゃ、切れ長でもっと凄みがあっただろう。

 少しは元気が出てきたじゃねぇかよ。


「ないわよ! そもそも弟くんはまだ義務教育のお子様よ。守備範囲外だわ」


 ガサガサの声で怒鳴り声をあげたマナトは、コップをずいっと押し出して「水おかわり」と言った。

 ちゃんと話せるじゃないか。

 苦笑いを浮かべてもう一杯水を渡しつつ、その横に腰を下ろすと、グラスを掴んだ指先のマニキュアが一部欠けているのが眼に入る。


「昨日、婚約者を連れて挨拶に来てくれたの」

「で、一緒に夜通し祝い酒……て訳じゃなさそうだよな」


 そもそも楽しい酒で酔いつぶれるようなタイプじゃない。どちらかと言えば男所帯なうちの隊は、酒飲みも多い。何かしら口実をつけて酒盛りをすることもしばしばだ。その筆頭がマナトでもある。


 無茶な飲み方をするとしたら何かを忘れるためだろうことは、俺だけじゃなく、若い分隊長でも察しがつくだろう。


「祝い酒は飲んだわよ。セイラちゃんは妹みたいなものだもの」

「祝ってやりたい気持ちに嘘はない、と」

「そうよ。そうなんだけど……」


 マナトは涙声になる。

 嗚呼、また泣くのかよと頭が痛くなるが、腐れ縁ってやつだ。付き合うしかあるまい。


 しかし、ドア越しにガサガサの男の声を聞かされた分隊長の心中を想像すると、気の毒に思う。

 今時期は、流行り風邪が出回っている。それを心配して来てみれば、酔いどれのわがままで追い返されてしまったのだ。逆切れして文句を言っても誰も怒らないだろうに。それでも、彼女はこのどうしようもない大人を今も心配しているのだろう。


 蓋を開ければただの大人の情事の問題。これをどう報告すればいいのやら。

 気を抜けば、盛大にため息がこぼれてしまいそうだ。


 まだ硬さの残る甘柿をカリっと音を立てて齧ったマナトは、ぼろぼろと涙をこぼして鼻をすすり、ティッシュの箱に手を伸ばす。


「ね、誰を連れてきたと思う?」

「さぁな。誰だっていいよ」


 その婚約者とやらが付き合っていた男なのだろうことは容易に想像がついた。軍人なのか非戦闘員なのかまでは分からない。そもそも、そんなことはどうでもいいのだが。


「二股されてたことに気づかないなんて、バカよね……でも、本気だったんだから。本気で好きだから……」


 ティッシュで何度も涙をぬぐい、鼻をかみ、大きく息を吸う。


「ちゃんと笑顔でおめでとうって言ったんだよ」


 偉いでしょ。頑張ったでしょ。そうガサガサの声で訴えながら泣く姿に、マナトが幼かったころの姿が重なった。

 大切な人形が壊されたと言って泣いていたあの頃と、何も変わっていないのかもしれない。


「昔っから、お前は泣き虫だよな。人形が壊された、髪飾りを川に投げられたってよく泣いてさ」

「……急に何言いだすのよ」

「お前が泣くたびに、相手ボコりに行ったら、なんで喧嘩するんだって、また泣いて怒ってよ」

「だって、あんた怪我ばっかりして……」

「今回だってそうだ。お前泣かした男、ボコりに行ったら怒るだろ?」

「当たり前でしょ! 非戦闘員にケガさせたら、減給どころじゃ済まないわよ。バカ!」

「お前こそバカだろ。少しは自分を労われ」


 そうか相手は非戦闘員か。仕立て屋の娘ならそれなりに財力もあるいいとこの坊ちゃんなのだろう。マナトの男の見る目のなさは今に始まったことじゃないが、今回も遊ばれたってところか。

 膝を抱え「好きだから迷惑かけたくない」と消えそうな声をこぼされ、俺はいたたまれず、ため息で返した。


 いつだって本気なはのは、誰よりも知っている。付き合いは長いんだ。

 冗談ばかり言って生きているような顔をして、いつだって笑っているが、それは本気であることの照れ隠しみたいなもの。その本気を踏みにじられた今、辛く苦しいだろう。それでも、己を後回しにしてすぐ他人の心配をする。

 こいつは筋金入りのバカだ。

 未練たらたらなくせに大人であろうとするのが、見ていて歯痒かった。


「その女の前で腰砕けるくらいのキス、見せつけとけばよかったんだよ」

「冗談じゃないわよ。セイラちゃん、良い子なんだから……本当に、祝福、してるんだから」


 無茶苦茶で本音とは矛盾だらけの言葉は全て本気だから、厄介なことだ。そう呆れながらため息をつくが、それがまたマナトの魅力でもあり、この長い腐れ縁を切れない一つの訳でもあり。


 マナトを引き寄せ、絡まるピンクブロンドの髪をほぐすように撫でると、小さく「本当なんだから」と訴えてきた。いや、自分に行き聞かせているのだろう。

 繰り返し呟き、一度堪えた涙を再びこぼして肩を震わせ始めた。

 正直な話、俺は涙に弱いんだよ。ため息をつき、この場を和ませる何かはないかと考え──


「とりあえず、男食いに行ったらどうだ? 男食いのマナトって二つ名が泣くぞ」

「今でも愛してるのに、はい次なんて切り替えられないわよ」

「まぁ、そうだよな」


 おどけて言ってみたものの、あっさり否定された。

 不名誉な二つ名は振られた男たちが勝手に言っているだけのもので、マナトが純情一筋なことは十分に分かっている。しかし、目の前で泣きながら震える姿を見せられるこちらの気にもなってほしい。冗談でも口にしなければいられないだろう。


「今でもあの人との夜を忘れられないのよ……奪い返したいくらいなんだから」

「じゃぁ、それを一生思い続けて生きるのか?」

「それは……」

「奪い返しにいくか?」

「でも、セイラちゃんに幸せになってほしいのも、嘘じゃないの!」


 だったら諦めて歩き出すしかない。そう分かっているのだろう。

 勢いよく上げられた顔は涙でぐしゃぐしゃで、お世辞にも綺麗とは言えない。それをまじまじと見て、思わず噴き出して笑った。


「お前はそういうやつだよな。やっぱり、何も変わってねぇよ」

「何よ、笑うなんて酷いじゃない! あたしは本気で――」

「分かってるよ」


 振り上げられたマナトの手を掴み、遠慮なしにベッドに押し倒す。

 見下ろした顔は、酷いなんてもんじゃない。

 こうやって、こいつはあと何人の結婚を祝う気なのだろうか。知っているだけでも、今回で五人目だ。酒に溺れて逃げようとしたのは始めてだか。


 俺は、苛立ちを誤魔化したかったのかもしれない。

 唇を重ねてマナトの言葉も抵抗も奪うと、むわっとしたアルコールの匂いが口の中に広がった。


 嫌なら、本気で蹴り上げてくればいい。お互い軍人家業だ。いくらでも抵抗の仕方は知っている。

 身を捩る抵抗などただのポーズだ。

 合わさった口の端から涙が流れ込んできた。幾度と角度を変え、嗚咽を飲み込むような口付けをくり返す。そして掴んでいた手を自由にし、柔らかな髪をくり返し撫でつけながら優しく食むように口付けた。


 どれくらいそうしていたか。

 唇を離して見下ろせば、不愉快だと言いだしそうな顔が睨みつけてきた。


「なぁ、俺にしとけ」


 それは何年も何度も繰り返してきた告白。


「あんたみたいな女たらし、お断りよ」

「俺はいつだってお前一筋だろうが」

「嘘つき! 絶対、お断り!」


 ふんっとそっぽを向くマナトの髪に指を差し込み撫でれば、そのかさついた唇が尖って不満を表した。


「マナト、素直になれよ」

「その名前で呼ばないで!」

「俺が呼ばないで、誰が呼ぶんだよ」


 涙の跡を指でこすると、少し血色の良くなった頬が膨らむ。

 うっすらと無精ひげが出てるすね顔さえ可愛いと思うくらいには、俺はずっとお前一筋なんだけどな。他の奴みたいに、化粧したお綺麗なサリーじゃなくても、泣き崩れるまで抱き潰す自信もあるのにな。

 どうして伝わらないのか。


「ぶっさいく」

「ほんっと、失礼」


 体を起こすと、俺の背に両手を回したマナトは、胸に額を押し付けると「でも、ありがと」と小さくこぼした。


「明日から、ちゃんと歩けるから。ちゃんと、サリーになるから」


 別にマナトのままでいいのに。そう思いながら、俺の胸で泣くマナトの髪をほぐしながら窓に視線を向けた。

 分隊長に何と報告しようか。

 ふと現実問題に向き合う。きっと今も心配して小さな胸を痛めているだろう。


「とりあえず、俺と付き合うことにしとこうか」

「は?」

「いや、少将ちゃんへの報告な。恋人たる俺が慰めておいたから大丈夫だよ、みたいに軽く言えば、安心するかと思って」

「絶対無理!」


 そう言い放ったマナトは、涙でぬれた俺の胸に強く額をこすりつけて頬を膨らませた。

 冷たい雨が色付いた葉をぬらし、静かな音をたて始めた。

 窓から入る冷たい風は熱くなった身体に心地よく、堪らず小さな息を吐いて天井を見上げた。


 俺にしておけば良いのに。

 小さな声で繰り返した言葉は雨音に消えたのか、返事はなかった。

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腐れ縁をこじらせた俺の話を聞いてくれ 日埜和なこ @hinowasanchi

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