第25話「お母さんとお継母さん」

 炎に抱かれた幸の甘くて温かい匂いが包み込んだ。

 雪の匂いだ。いつも幸を膝の上に乗せて物語を読み聞かせてくれる。幸の大好きなお母さんの匂い。

 目に浮かぶのは在りし日の雪と幼い幸の思い出だ。

 火の灯った暖炉の前で揺り椅子ロッキングチェアに腰掛けた雪が膝の上に幸を乗せてくれる。そうしてたくさんの物語を読み聞かせてくれた。


「――そして燐寸マッチ売りの少女は死んでしまったのです」


 雪が読み聞かせる物語は、ほとんどの場合において初版であった。

 初版の物語にこそ作者の思いが詰まり、まっすぐ伝わる。版を重ねることで作者の伝えたい意思が薄らいでしまう。それが雪の口癖であった。

 だから悲しい物語も怖い物語も残酷な物語も、雪はそのまま幸に読み聞かせた。


「かわいそう……」


 幸が一番悲しい気持ちになるのは、燐寸マッチ売りの少女を読んでもらった時だ。

 寒空の下、燐寸マッチ売りの少女は、燐寸マッチの小さな灯火が見せる幸せな幻想に抱かれて死んでしまう。

 幻想は幻想のまま。夢は夢のまま。現実にはならず、冷たい雪に沈んでいく。

 一生懸命頑張ったのに報われないまま死んでしまう物語の結末に、幸は納得できなかった。


「どうして燐寸マッチ売りの少女は、幸せになれないのですか? 頑張ってもダメなんですか?」


 そんな問いかけに雪は、幸の頭を撫でながら答えてくれる。


「幸。人間は一人でできることに限界があるのよ。一人でどんなに頑張ってもできないことはあるの。どんな偉大な芸術家でも一人では何もできないわ」

「そうなのですか?」

「ええ。どんな天才的な画家でも、キャンパスや絵の具や絵筆がなければ絵を描けません。そういう道具を作る人がいなくては画家という仕事は成立しないのです。そしてそうした道具を買うお金がなくてはいけません。だから天才的な画家を金銭的に支える人が必ずいたのよ」

「一人で絵は描けない……ということですか?」

「そうよ。幸は本当に賢いわ。まだこんなに小さいのにそのことに気付けるなんてお母さんの自慢よ」


 雪は、幸に深い愛情を注いでくれた。

 女の子では神楽家の跡継ぎにならないと、周囲から陰口を叩かれることもあった。

 それでも雪は一切気にする素振りを見せず、幸を愛してくれた。


「幸。どんなに素晴らしい人でも人との縁がなくては生きていくことはできません。燐寸マッチ売りの少女が幸せになれなかったのは、誰も手を差し伸べてくれる人がいなかったからよ」


 雪の言う通り、こんなに可愛そうな少女はいない。だからこそあの時、幸は思ったのだ。


「幸が手を差し伸べます。この女の子のように困った人がいたら、幸が助けます」


 誰かに手を差し伸べられる人になりたい。そう願った。


「そうですね。そうしてあげてください」


 雪は大層幸せそうに微笑んでくれた。これが雪と幸が最後に交わした会話だった。

 そして二年後――。


「幸さんは、燐寸マッチ売りの少女の本が好きなのね」


 継母の光子は、シンデレラに出てくるいじわるな継母のような人ではなかった。

 血の繋がりがないにもかかわらず、実の娘と同じように大切に扱い、惜しみのない愛情を注いでくれる素敵な人だった。

 よく光子は、幸を膝の上に乗せて本を読み聞かせてくれた。雪がそうしてくれたのと同じように。


「私もこのお話はとても好きよ。少し悲しいお話だけれど」

「お母さんが読んでくださったんです……」

「そう。大切な本なのね」


 幸は、光子が大好きだった。それは彼女が幸の理想とする女性像であったからだ。

 弱者に手を差し伸べる優しさと男性相手にも怯まず意見する強さを兼ね備えた人だった。


「お継母様は、私を救ってくださいました。手を差し伸べてくださいました」


 だからこの人のように――。


「私は貴女のような女性になりたいです」


 それが幸の夢だった。光子は幸の夢を誇らしそうな顔で受け止めていた。


「なれるわ。だってあなたは私よりも優しい子だもの」


 優しく抱きしめて背中を撫でてくれる。大丈夫だよと、伝えてくれる。


「あなたが娘になってくれて本当に嬉しいわ。ありがとう幸さん」


 凛として涼やかで、竜胆の花のように心地の良い匂い。大好きな匂い。


「貴女の名前は幸。多くの人に、困っている人に幸せを運んでくれる。名前の通りの人になりなさい。あなたの手を必要とする人のためにも」


 雪のように賢く、光子のように優しい女性になりたいと思った。




 ――そうです。私は……まだ夢を叶えていません」




 炎に抱かれながら幸は思った。

 このまま死んでしまったら、あちらの世界で二人の母親に酷く叱られてしまいそうだな、と。

 だけど、できることはもう何もない。自分なりにやれるだけのことはやった。だからこのまま終わってもいいだろう。

 あの日、黒い影に――文魔の少女に大切な二人の母親を奪われた。

 さらには御伽の異能テイルセンスが暴発。母だけではない。父や使用人の命までもが失われてしまった。


「ごめん、ごめんなさい。お母さん、光子さん……諦めないでって言うけど、私があそこで死んでいたら……」


 御伽の異能がなにもせず、あのまま死なせてくれたら、父や使用人たちは死なずに済んだだろう。

 そう、罪と苦痛に苛まれて生きるぐらいなら文魔に襲われる恐怖に数瞬溺れて死んでいた方が――。


「恐怖? 怖かった?」


 雪が殺された時、幸は背筋を撫でる悪寒を感じた。

 光子が殺された時、幸は腹の底でなにかが煮詰まっていくのを感じた。

 あれは恐怖だったか?


「違います……あの時思ったのは」


 同じような感情の発露をつい最近目撃している。それは的場和馬の金色の瞳が発していた殺意だ。

 文魔の少女が雪を殺した場面に遭遇した幸に去来した感情。あの時抱いたのは母を失った悲しみでも、自分が同じ目に遭う恐怖でもない。

 眼前の黒い影が大切な母親を殺した確信と大切な母親を奪った存在に対する憎悪の念。


 だとしたらあの時、燐寸マッチ売りの少女が発動したのは幸を守るためではない。復讐心が幸の背筋を撫で、背中を押したのだ。幸の復讐心に呼応して母の仇を焼き殺すために炎を躍らせたのだ。

 幸を守ろうとした御伽の異能テイルセンスの意思ではない。文魔を殺そうとした幸の意思が異能を暴発させ、多くの人々に死をもたらしてしまった。


「そんな……私が? 私がみんなを?」


 藤堂は言っていた。文魔から幸の身を守るために御伽の異能テイルセンスの意思が異能を発動させたと。

 あくまで藤堂が提示したのは可能性だった。御伽の異能テイルセンスの意思が異能を暴発させたのだと断定はしていない。

 もしかしたら藤堂は、幸の復讐心が異能暴発の引き金になった可能性を知りながら伏せていたのかもしれない。正直に伝えたら幸の心が耐え切れないと判断して。


 幸はすっかり信じ込んでしまっていた。


 御伽の異能テイルセンスの意思が暴発を招いた。

 御伽の異能テイルセンスの意思が自分の不幸の原因だ。

 御伽の異能テイルセンスの意思が家族を殺したんだ。


 違う。


 全ては幸の意思が引き起こしたこと。幸の憎悪が生み出した結果だ。幸の殺意が文魔の少女を殺すべく、燐寸マッチ売りの少女の手を汚してしまった。


「私は、なんて愚かなんでしょう……」


 罪人になりたくなくて、罪の全てを御伽の異能テイルセンスに押し付けてしまった。

 愚かで卑しい主を愛し、罵詈雑言を浴びせられても懸命に守ろうとしてくれる優しい異能を貶めてしまった。


「私が殺した……大事な人も……大事な場所も……」


 己の罪を自覚する度、心が冷めていくのが分かる。

 身体が寒い。

 心が寒い。

 魂が寒い。


 気が付けば幸を抱いていた炎は消え失せていた。

 いつの間にか、凍てつく風が吹き荒ぶ雪道を歩いている。

 寒々しい深淵の闇の中。どこまでも続く白と黒の世界。

 罪人には地獄の業火すら与えてもらえないらしい。

 それでいい。いや、それがいい。復讐心に囚われた愚か者の末路としてはこれこそがふさわしいだろう。


 和馬に偉そうな台詞を吐いておきながら、なんと情けないことか。

 眼前で消えゆく人命を尊重するが故に、和馬は文魔を殺していた。

 己の欲のために異能を振るい、挙句家族や近しい人々を焼き尽くした幸とでは雲泥の差だ。


 いくら文魔と御伽の異能テイルセンスを知らない時分であろうとも、身勝手な感情に身を委ねてしまった罪の重さは変わらない。

 犯した罪の重さに相応しい絶望に溺れたまま、この無限と見紛う虚無の園を歩き続けるのが幸に課せられた罰だ。自ら手繰り寄せた不幸を他者のせいにし続けた者の末路は永遠の孤独。もう誰も助けてくれない。手を差し伸べてはくれない。


「うん……私には、こんな最期がお似合いですね」


 込み上げそうになる涙を押し殺す。

 どんなに泣きわめいても孤独は変わらない。

 叫び出しそうになる喉を両手で絞め上げる。

 声を上げたって誰も来てくれない。


 まだ未練を捨てきれないのか。

 まだ誰かと共にいたいと願うのか。

 そんな資格はないし、許されていいはずがない。

 だから一人で歩きなさい。

 絶望を背負って朽ち果てるまで歩き続けなさい。

 それでもきっと許されない。

 朽ち果てて骨になっても許されてはいけない。


 吹雪に背中を押されて凍える身体を引きずるようにして歩いていると、彼方でふわりと小さな灯りが灯った。けれど灯りはすぐに消えてしまう。

 また灯りが点いて、そして消えてしまう。消えては点き、点いて消え、明滅を繰り返す。


「あれは、なんでしょうか?」


 吸い寄せられるように、幸は灯りを目指して歩いた。そこはかとなく香る独特の匂いが鼻先を撫でる。燐寸マッチの匂いだ。


「なんで? どうして燐寸マッチの匂い?」


 辿り着いたそこにいたのは、一人の少女だった。

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