第13話「足を使え!」

 幸の肩に置かれた藤堂の手は少しだけ冷たい。焦燥で火照った身体に心地よい涼しさを与えてくれる。


「幸さん。君は何でも一人で背負いすぎるよ。もう少し肩の力を抜きなさい」


 寝入りばなに聞く小雨の雨音のように安らぎを与えてくれる声だった。


「幸」


 アリスの白魚のように細い指が幸の着物の袖を引っ張ってくる。


「幸は頑張ってる。私知ってる。手がかりが少ないのはしょうがない。私と藤堂も敵の正体は分からない」


 確かに手掛かりは少ない。だが手掛かりが少ないのは、裏を返せば被害が最小限に抑えられていることでもある。

 手がかりが増えるなら、それは多くの人々が犠牲になってしまうのと同義。


「はい……でも、早く文魔の正体を突き止めないと、多くの人たちが――」

「幸、肩の力抜いて。強張った身体じゃ頭も固くなる」


 肩の力を抜けと言われても、焦りの念がどうしても溢れてしまう。火の粉のように心へ降り積もってしまう。

 いや、焦ってばかりでは前に進めない。とにかく考えるんだ。現場の状況を見ろ。遺体の状況を考慮しろ。突破口を見つけるんだ。

 被害者は、首を絞められていただけじゃない。首の骨が粉々に砕かれている点も手掛かりかもしれない。


 人間を超えた力で首を絞める。とすれば今回の文魔は、人間の登場人物を模したのではない可能性もある。

 物語の怪物や動物?

 いや、縄状の物で首を絞められていたなら人間である可能性のほうが高いか?


 文魔の馬力は、人間のそれとは比較にならない。超常的な怪力は人体など燐寸マッチ棒のように容易く破壊してしまうだろう。

 縄で首を絞めるつもりが勢い余って骨を粉々にしてしまった。そうであっても不思議はない。


 やはり選択肢が多すぎてどんな物語か絞り切れそうにない。

 しかも幸が探偵事務所に入ったばかりの頃、藤堂はこう説明した。

 文魔や御伽の異能テイルセンスは、物語のどの部分から生じたかで名称が変わるのだと。

 分類は、題名級・主演級・悪役級・助演級・単語級の五つである。


 例えば藤堂の御伽の異能テイルセンスは、南総里見八犬伝で犬塚信乃が操る宝剣『村雨』という単語が象徴する部分が異能化した『単語級』の異能である。

 以前封印したヘンゼルは『主演級』であり、ヘンゼルとグレーテルという物語の主要人物ヘンゼルから生じた文魔であると言い当てなければ正体を突き止めたことにはならない。

 文魔封印の難しさを改めて思い知らされる。

 思考の迷路に迷い込み、出口を見失った幸の意識を救出したのは、頬に触れるアリスの手のぬくもりだった。


「幸、一人で頑張りすぎ。頑張る時はみんなで頑張る」


 藤堂は、アリスの頭を撫でてから幸を見やった。


「幸さん。君は十分役に立ってくれているよ。君が思っている何百倍もね。ただ一つだけ君に不満がある」


 不満。たった二文字の単語は、焼けた鉄の杭で心臓を打ち抜かれたような感覚を幸に与えた。


「な、なんですか? 今すぐに治します!」

「自分を卑下しすぎる気性だよ」

「そ、それは……」


 今までの人生で起きた悪いことは、全部自分のせいだとずっと思ってきた。

 しかも火事を起こしたのが御伽の異能テイルセンスの暴走だったのだから、まさに自分の責任だったのだ。


「でも……私のせいで悪いことがたくさん起きたし、家族も……」

「君がどれほどつらい人生を歩んできたのか。どんなに苦しい思いをしてきたのか、俺には想像もつかないよ。それでも俺から言えることがいくつかある。いいかな?」


 幸が頷くのを待ってから藤堂は口を開いた。


「幸さん。どんな生き方をしていようとも自分の価値を認められない人間は取り返しのつかない失態を犯す。自分を信じられないとは自分の判断を信じられないのと同義だよ。それは緊急時、迅速な判断が必要な時に迷いとなる」

「迷い……」

「迷いは躊躇を生み、躊躇は焦燥を焚き付ける。そして最後に待っているのは致命的なまでの杜撰ずさんな決断だ。自分の価値を信じられないがためにこうした事態が必ず起きる。これは幸さんが過ごしてきた日々によって形作られた性格だから今すぐどうこうなるものでもないだろうけど、御伽狩りとしてやっていくのならもっと自分を信じなさい」


 自分を信じる。幸にとっては、他者から信頼と信用を勝ち取るより難しく思えた。

 例えば藤堂やアリスが幸のことを信頼してくれている自覚はある。人から信頼と信用をされる人間であるには、ひとえに誠実であればいい。それは難しいことではない。

 相手の望みを推察し、欲求を満たせば簡単に得られる。

 では自己への信用と信頼とは?

 最も簡単な方法は自分を好きになること。これは今の幸にはどうしようもない難問だ。


「私は……自分が好きではありません。だから自分を信じたいと思ったこともないんです」


 幸にとって己とは大切な人を焼き殺す原因を作った者。憎悪の対象であれど、愛する対象にはなりえない。


「少しずつでいいよ」


 藤堂の手が幸の頭をすっと撫でた。火照った頭の熱を雪解け水のように涼やかな掌が吸い取ってくれる。


「今はそれでいい。だけどいつか君の判断で動かなくてはならない時が必ず来る。自分を信じて決断しなければならない時がきっとくる。その時までに答えを見つけられるよう俺とアリスも手伝うよ」

「うん。私も幸と頑張る」


 二人に優しくされる度、大切にされている実感が生まれる度、一層自分自身が許せなくなってくる。

 気を遣わせて、困らせて――再び自己嫌悪の輪廻に囚われかけた時、理性が声を荒げた。


 ――だめです! こんなことを考えている場合じゃありません。


 今やるべきは、次の事件が起こる前に手掛かりを手に入れて、文魔の正体を突き止めること。

 男性の絞殺体が発見された以上の手掛かりがないならどうするべきか?

 事件の発生を待つのではなく、こちらから能動的に動いて、手がかりを探しに行くべきだ。


「藤堂さん、アリスさん。文魔の姿と犯行の瞬間を直接確かめるというのはどうでしょう?」


 藤堂は、薄っすらと口元に笑みを浮かべると腕を組んだ。


「いい考えね。だけどどうやって見つける?」

「アリスさんに文魔の気配がある場所を探知してもらいます」

「でもうまく行ったところで、アリスの異能はせいぜい半径一キロ程度までしか範囲を絞り込めないよ。どうする?」


 藤堂は、質問を繰り返す。幸がどう判断するかを見定めようとしている。

 さっきの話の続きというところだろう。

 彼の真意を察しているのか、アリスも口を挟んでこない。


 アリスの魔法の鏡は、うまくいっても半径一キロまでしか絞り込めない。最近アリスは不調だというからもっと広い範囲になってしまうかもしれない。

 広大な範囲からどうやって文魔を見つけるのか?

 幸に浮かんだ策は一つだけだった。


「藤堂さん、犯行が起きたのは夜で間違いないんですね?」

「警察によればね。まぁ間違いはないと思うよ。検死報告でもそう言われているらしい」


 文魔の行動は元となった物語の影響を受ける。

 もしも夜という時間帯が物語を構成する重要な要素なら、今回の犯行が夜に行われたのと同様に、次も夜の犯行になるかもしれない。

 推理としてはやや飛躍しすぎているが、手掛かりを持たずに暗中模索を続けるよりはましに思えた。


「それならまた夜に次の犯行が行われるかもしれません。今夜からアリスさんの御伽の異能で場所を絞り込み、後は私たちで探します」

「探すって、幸さんどうやって?」


 幸は、袴の上から自分の太ももを掌で叩いた。


「足を使うんです!」

「……足?」


 藤堂は、目を丸くしていた。

 怯みそうになる心を奮い立たせ、幸は畳みかける。


「あ、足です! アリスさんが範囲を絞ってくれたらその範囲内をとにかく歩いて走って一生懸命しらみつぶし……草の根を分けてです!」


 策略らしい策略など思いつかなかった。ようするに泥臭く走り回ろうと提案しただけ。

 やらずに後悔するよりやって後悔なんて言うこともあるが、今回ばかりはやってしまったことを激しく後悔した。


「……すいません。私何言ってるんでしょうね……もっと他に何かないのかというお話でしたのに」


 がっかりさせてしまった。そんな幸の予想とは裏腹に、藤堂は感服しているようだった。


「いやいや。案外理にかなっていると思うよ。足を使って探すの。君からそういう肉体派の答えが出てくるのはちょっと意外だったけどね」

「そ、そうでしょうか?」

「俺は幸さんの策に賛成だ。アリスはどうだい?」


 アリスは日向ぼっこをする子猫のように目を細めた。


「賛成」

「よし。なら決まりだ。幸さん、やってみよう」

「……はい!」


 今夜するべきことが決まったところで、三人は犯行現場を後にした。

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