第11話「決断の重さ」

 もしも目の前で正体が分からない文魔に殺されそうな人がいたら、どうするのか?

 その人の命を優先し、力を増して復活することを承知で文魔を殺すのか。

 または後々に大きな被害を出さないために文魔の封印を優先するのか。


 今後幸が御伽狩りとして戦っていくのならば絶対に考えておかなくてはならない大事なことだ。

 だけど自分のことは自分が一番よく知っている。今ここで答えを決めても、いざ現実になったらきっと迷ってしまう。頭の中でいくら理屈をこねても、眼前にある現実に対処する時、何の役にも立たない。


 藤堂の村雨なら文魔を殺さずに動きを止める方法がいくらでも取れるだろう。

 だが幸の異能は炎を操るだけ。殺さずに文魔を無力化することはできない。

 もしも幸が藤堂と同じ状況に陥って、藤堂が隣にいてくれなかったら、きっと文魔を殺す選択肢しかない。


 どれほど愚かな行いかを理解しながらも、目の前の命を見捨てる真似はできない自負がある。

 それは優しさ故ではない。見捨てた人に恨まれるのが怖いからだ。単なる臆病さの発露だ。

 そういう状況に陥る可能性が常にあるのなら、やはり文魔を殺すことに特化している燐寸マッチ売りの少女は、藤堂探偵事務所のお荷物になるのではないか?


 幸がそう口にすれば、先程のように藤堂とアリスは慰めの言葉をくれる。だからこれ以上何も言わない。

 優しくされたいがために自己憐憫じこれんびんを口にするほど落ちぶれたくはなかった。


 幸はアリスの隣に腰掛け、湯呑のお茶を一口含んだ。新緑のような青い香りと程よい渋みが絶妙である。

 藤堂の淹れるお茶は、かなりの物だ。お茶の葉も相応の物を使っているようだが、何よりも藤堂の腕が見事である。帝都の甘味処でもこれほどのお茶を飲ませる店はそうそうない。

 一息ついた幸がアリスを見やると、彼女は神妙な面持ちで鏡を覗き込んでいた。


「……藤堂、幸、文魔の気配を探知した」


 アリスが鏡に映った地図を見せてくる。そこには藤堂探偵事務所を含めた浅草の全景が映されていた。先程の地図よりもさらに広範囲である。

 アリスの肩越しに鏡を見つめる藤堂も梅雨空のように曇った顔をしている


「今日はいつにもまして大雑多だね……この事務所も範囲内だけど」


 藤堂の指摘を受けたアリスは、冬眠間近で餌袋が破裂寸前になった栗鼠リスのように頬を膨らませた。


「だから最近調子悪いだけ……うまく気配を探れない」


 表面的には怒りを表現しているが、内面ではすっかり落ち込んでしまっているのが分かる。ここは年長者として励ます場面だ。


「大丈夫ですよアリスさん! 日本地図や世界地図じゃないんですから!」


 アリスの瞳が放つ紫の輝きは萎れ、青い虹彩を取り戻すと怯える子犬のように潤んだ。


「……幸いじわる」

「ご、ごめんなさい! そういうつもりじゃ!」


 思いもよらず会心の一撃を与えてしまった。

 どう取り繕えば許してもらえるだろう?

 駄目だ。何も思い浮かんでこない。

 どうしたらいいか分からず、慌てふためく幸の肩を藤堂が軽く叩いて慰めてくれる。


「まぁまぁ二人とも。とにかく調べてみよう。そうしないと始まらないよ」

「でも藤堂さん、調べるって……どうするんですか?」

「知り合いを当ってみるのさ」


 藤堂は、彼の机の上にある電話の受話器を手にした。


「ああ俺だ。藤堂だ。実はアリスが……そうだ。それで……そうか。やはりか」


 澄み切った黒い瞳が微かに水色を帯びて輝いた。


「分かった。こっちで調べたいから現場に入れるようにしてほしい。頼むよ」


 受話器を置いた藤堂は、形の良い唇に雪解け水のように涼やかな微笑を含んだ。


「今電話した彼は、警察官でね。御伽狩りではないけど、諸々の事情を知っている。文魔の関与が疑われる事件の情報を流してくれるんだ」


 藤堂の反応を見るに、どうやらアリスの感じた気配は勘違いではないらしい。

 この付近に文魔がいて、既に事件を起こしているのだ。


「幸さん、今から出かけられるかい?」

「は、はい」

「……幸さん、ちゃんと燐寸マッチは持ったかい?」


 薪が爆ぜるように、幸の肩が跳ね上がった。


「あ、いえ。そのなんといいますか……あの……持ってないです」


 藤堂は、父親が娘を諭すような柔らかい笑みを浮かべた。


「異能が怖い?」

「……はい」


 幸の異能は、自身の周囲にある炎を操るモノ。自ら炎を生み出す力はなく、火種がなければ扱えない。

 幸にとってこの欠点は、むしろ好ましかった。

 火種となる物が手元になければ何も焼かずに済むのだから。


 けれど異能を自覚した今、燐寸一本にすら恐怖を覚えてしまう。

 手の内に万物を焦がす焔がある感覚。大切な人たちを焼き溶かしてしまうもしれない恐怖を否応なく突き付けられる。

 だから幸は燐寸を持ち歩いていない。いつ戦闘になるかもしれないのに、御伽狩りの自覚に欠けると言われてしまえばそれまでだ。

 さすがの藤堂も幸の臆病風を苦々しく思っているのか、眉尻をわずかに下げた。


「幸さん、いざという時のために力を使えるようにしておかないといけないよ。君は御伽狩りだ。自分で御伽狩りの道を歩むと決めたんだ。力を恐れるばかりじゃなくてどう使って人々の安寧あんねいに役立てるかを考えないといけないよ」


 藤堂の言葉は、雨水のように幸の胸を打ち、自覚の念が心の奥底まで浸透していくのを感じた。


「はい……」


 もう逃げるのは、やめだ。ヘンゼルを封印したあの夜、心にそう決めたからここにいるはず。

 勇気を振り絞れ。罪を償う義務が神楽幸にはある。恐れに負けることを自分に許してはいけない。

 覚悟を決めて幸が藤堂をまっすぐに見つめた。

 藤堂は、頷きながら机の引き出しから燐寸箱を取り、幸に手渡した。


「アリスもついてきてくれるね?」

「ん。分かった」

「じゃあ行こうか」


 文魔を封印するべく、三人は事務所を後にした。

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