第13話 タイムスタンプ

 ハイツに帰った僕は、葵さんと二人でゆっくりと昼食を取った。

 早織さんは一昨日の営業が実って、作品をどこかのギャラリーに置いてもらえることになり、今日はその打ち合わせでまたも外出中だ。金垣内さんは普段通り仕事。夕方までは帰ってこない。

 一号室には小出さんがいるはずだが、相変わらず外には出て来ない。そもそも僕が帰った時にはもうラーメンの差し入れは済んでいて、キッチンには空になったどんぶりが戻ってきていた。


 それはえらく立派な、絵にかいたようなラーメンのどんぶりで、外側は深みのある赤、内側は輝くような白に、精緻なタッチで雷紋と神龍が描かれているものだった。


「それはラー……小出さんの私物なんですけど、ずいぶん高い物らしいんですよ」


 葵さんはそのどんぶりを、いかにも大切そうに洗って戸棚に収めた。


「へぇ……」


 どうにも変わった人らしい。部屋にこもりきりで日に二食のインスタントラーメンだけを食べ、そのどんぶりは葵さんさえ緊張させる高級品。夜中になると誰もいない一階をひそやかに歩き回る――僕が見たものが何かの幻でなければ。


「変なこと訊きますけど、小出さんってもしかして髪を赤く染めてます?」


「え?」


「一昨日の夜中に、それらしい人が歩きまわってるのを見たような気がするんです、僕が寝ぼけてたんでなければ」


「まあ」


 そういうと、葵さんはじっと僕を見つめた。


「知らないふりをしてあげて、って言ったじゃないですか……だめですよ、あの方のことを詮索しては」


「は、はい」


 まずいことを言ったかと縮み上がる僕に、葵さんは厳かな声で言った。


「でも見ちゃったのは仕方ないから、答えを教えてあげますね――ええ、小出さんの髪は赤いです。熟柿……よりもっと暗いかしら。そうね、堆朱の細工物みたいな暗い赤。珍しいから、後ろ姿だけでも他の人と見間違えはしないでしょうね」


 それだけ言うと、葵さんはまたいつもの優しげな笑顔を取り戻した。


「忘れてましたけど、買い物のお礼に」


 そう言いながら、千円札を二枚手渡してくる。


「出かけるときにあげればよかったですけど……杜嗣さんの口座はちょっと心細かったみたいですし、私が預かっているお金は本当に大事なことに使う分ですから、こんな感じで別に時々お渡しします。何かちょっとした――雑誌とか、飲み物とか、欲しいものがあるときに使ってくださいね」


「ど、どうも」


 ありがたいが、そこまでしてもらうのもどうかと、ちょっとだけ気が引ける。はたから見れば、まるでヒモのようだったりしないだろうか。

 ともあれ、それから午後一杯はスマホにあれこれとアプリを追加したり、僕の作業に興味を持った葵さんがあれこれと聞いてくるのに答えたりしながら過ごした。

 僕はまだ葵さんの婿とか言う立場を心底から受け入れたわけではなかったが、まあ今の生活は楽だし、心地いいと言えば心地いいのは間違いない。本当に、このままこの醤油坂ハイツでずっと過ごすのもそれはそれでいいのではないか――



 夕刻。食事のあとしばらくして、僕がいったん部屋に引っ込んだころに、不意にスマホのアラームが鳴った。メロディーから察するに、メールの着信を知らせるものだ。


 タップして画面を見てみると、なるほど受信箱に新着が一件あった。


===========


おっ、メールありがとうです!!

これで賭けはあたしの勝ち、みんなに奢らせられる(*^▽^*)ヤッタネ!


あ、定期の診察忘れないでねーノシノシ


Kaoru


===========


 新宮さんからだ。えらく軽い感じの文面でちょっと笑ってしまった。年は多分僕より一つ二つ上だと思うが、メールではいっそ年下のように感じる。僕は頬の肉が妙に活発に動いて口元が緩むのを感じながら、彼女あてにさらに返信のメールを書いた――書いているその途中で、ふと奇妙なことに気が付いた。


(これ、間一日もあけてから送るような文面かな……?)


 どちらかというと、これはすぐにその場の勢いで打ちこんだ、そんな感じだ。だが、届いたのはたった今。メールの送信日時も今日になっている。

 であれば、昨日あたりに夜勤の最中か直後だったとしても今は自由にメールの返信ができる状況であるはずだった。



 ところが、僕の返信に対する新宮さんのさらなる返信メールは、またしてもその夜には届かずじまいだった。

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