第17話


 朝の内に道場を出た歳三と八郎は、昼より前に浅草門前に着いていた。今日は休みなく歩いてきた。本来なら休憩を取る必要のない距離である。


 ほんの半月振りだが、酷く久しぶりの心持ちで歳三が歩いていると、通りの先から大きな声が聞こえて来た。これからの段取りを話しながら歩いていた二人は、声の方へ同時に顔を向けて、その表情を一変させた。


「あれは…っ、土方さん!」

「──ああ、行くぞっ」


 すぐに二人は駆けだした。向かうは今まさに、刀を突き付けられている、質屋店主の元だ。


「──…はよう出しちょき、言うちょろうが!」

「じゃから、渡す道理がないと言うとろうに。お前さんもしつこいお方じゃな」

「こっの…、爺ぃ、これが見えやーせんか!」


 すでに同じやり取りが、何度も繰り返されていた。刀を向けられても、縁台に座ったままつれない素振りの店主に対して、黒ずくめの男は苛立ちを隠せず、顔を真っ赤にしていきり立っている。


「──おいおい。丸腰の相手に、何物騒なもん振り回してやがる」


 その土佐訛りの男の前に、歳三はすっと身体を滑り込ませると、男の視界から店主を隠して立った。


「っ! 誰ね、おまんっ」


(俺を知らない…ってことは、こいつ、あいつらの仲間じゃねえのか?)


 歳三の正体に気づかぬ様子に、一瞬だけ八郎と視線を交わす。阿吽あうんの呼吸で、それぞれ役どころを理解する。


「……俺は通りすがりのもんさ。それよりあんた、その喋りで何処の出か丸わかりだが、…良いのかよ?」

「あ? 何言うちょろう!」


 歳三が男と対峙している隙に、八郎が店主を店の奥へと促した。為すすべもなく、すぐ後ろで立ち尽くしていた金物屋の男も一緒である。


 二人をひとまず奥へ連れていき、すぐに八郎も歳三の後ろに立った。すでに野次馬が通りを埋め、彼らの周りにちょっとした人の壁が出来ている。


「ちょっと後ろ見てみろよ」

「…後ろち?」


 未だ覚めぬ怒りに任せて、勢いよく後ろを振り返った男は、その肩をびくりと震わせた。よほど頭に血がのぼっていたのか、まったくもって周りが目に入ってなかったようだ。


「こんな衆人環視の中で、まかり間違って刀傷沙汰なんぞ起こした日にゃ、まず、言い逃れはできねえぜ。…あんた、良いのかよ?」


 あえてもう一度訊ねる。すると面白いようにうろたえ始めた。ようやく状況を理解し始めたようだ。この江戸に置いて地方から来たとわかる者は、それだけで出自が知れる。


「くっ…、わしはただ…っ」

「悪い事は言わねえ、ここは引いた方が身のためだぜ」

「くそっ、覚えちょきや…っ」


 悔し紛れの捨て台詞を吐くと、そのまま黒ずくめの男は人垣を押しのけるようにして去っていった。


 すっかりその姿が見えなくなってから、歳三は野次馬に散るよう手を振ると、ようやく後ろに振り返った。


「うん、見事じゃな」

「──…親父さん、あんま無茶すんなよ」

「わしゃ、何も悪いこたぁしとらん」

「頑固もほどほどにしとかねえと、命なくすぜ?」

「次はもっとうまくやるさ」

「そうしてくれ…」


 店主の代わりとばかりに、切々と八郎に一部始終を語る若い男を横目に、歳三は小さく安堵の息を吐いた。




 騒ぎがすっかり収まってから、歳三と八郎は店主と一緒に、向かいにある質屋へ移動した。


「さあさ、こっちへ……ん?」


 店主に続いて敷居をまたいだ歳三が、暗い店内に目を瞬いていると杖が一際高い音を立てて止まった。そのまま店主の言葉が宙に浮いた。


「どうかしました?」


 歳三の後に店へ足を踏み入れた八郎も、入口すぐに立つ歳三らの後ろから顔を覗かせた。そしてすぐにその理由を知る。


「なっ! これって…」


 薄暗い中でも、店内の異様さが目に飛び込んでくる。入口付近は比較的手つかずに見えるが、奥へ進むごとにその様子は一変していた。


 並べられていたはずの質草は、手で払われたのか、あちらこちらに折り重なるように偏り、床に落ちた装飾の見事な香炉は、繊細な持ち手が折れていた。奥の畳の小さな小上がりは、さらに酷い有様だった。何かを探し回った様子がはっきりと見てとれる。


 机の引き出しは、開け放たれて掻きだされたままで、使い古された座布団の横には、小さな火鉢が横倒しになっていた。中からこぼれた灰が畳を汚している。


「酷い…誰が、こんな…っ」

「──…」


 その場を動かない二人に対し、店主は杖の音を響かせて、奥の小上がりまで急いでにじり寄ると、いくつか確認して回っている。


(そうだ、ここにはあれが…っ)


 歳三はぐっと拳を握り込んだ。そこでふいに、頭の中に先ほどの騒ぎがよぎり、はっとする。



「──…そうか、さっきのは、これの陽動ようどうかっ」

「え、陽動って、まさか…」

「目の前じゃからと油断しとりました。その隙をつかれてしもうた。……わしの落ち度じゃ」


 店主は淡々と言葉を紡ぎながら、さらに座敷の奥をごそごそとまさぐっている。


 八郎は思わず通りへ身を乗り出して、通りの向こうを仰ぎ見るが、日常を取り戻した通りに、奴らの影はない。


 確かにこの店の目と鼻の先に、店主は居た。誰かが店に入るなら確実に見える位置で、店番を兼ねてあえて表の縁台に座っていたのだ。


(…そこに、騒ぎが起きた)


 奴らの目的の対象であるはずの歳三の顔を知らず、怒りに我を忘れていた、あの男。今思えば、これまでの相手と比べて、余りにもお粗末だ。


「…あの男に騒ぎを起こさせて、別の奴が店を探る、鼻っからこっちが目的だったんだ」

「じゃあ、あの男は…」


 奴らの真の目的は、店主の気を逸らす事だったと考えれば辻褄が合う。歳三はぎゅっと眉根を寄せると、吐き捨てるように言った。


「いいように使われた、当て馬って事だ。…奴も、俺らも」

「……っ」


 八郎が言葉を詰まらせた。店主に絡んで来た男は、最近預けられた高価な品を渡せと、言って来たという。その横柄な態度に、ぴんと来た店主がのらりくらりと交わしている所に、偶然にも歳三らが現れた。


 もし、店主が突っぱねることなく、あの男がお目当ての物を手に入れればそれで良し。拒絶され騒ぎとなれば、今度はそれを利用する。むしろ、野次馬自体が彼らの息のかかったサクラだった可能性もある。


「どうやら、刀をいくつか持って行った様じゃ。使いもんにならん刀も手当たり次第にな。あとは…、ほれ。帳簿も釣り銭用の金も手つかずじゃな」

「土方さん、これって…」

「ああ、わかってる」


 歳三の刀を狙ったと考えるのが筋だ。歳三とこの店の繋がりを突き止め、さらに歳三の大刀が手元にない事を知り得る人物。


(──…あいつらしかいねえ)


 ここ数日の店主の行動は、探られていたのだろう。陽動役の男を目くらましに、別動隊が確実に遂行できるよう、綿密に計画されている。


 これまでの状況から、組織ぐるみで事に及んでいることはわかっていたが、ここまで統率は取れていなかった。


(先方に一人、厄介なのが出てきやがった)


 爪が手の平に食い込むほど、拳を強く握り込んだその時、ずっと座敷の奥をまさぐっていた店主が、ようやくこちらに振り向いた。


「──…では、これからのことを話し合う必要がありますな」

「! それ…っ」


 そう言って差し出したそれに、目を見開いた。そしてすぐに小さく笑うと、しっかり頷いた。


「…ああ、そうだな」



◇  ◇  ◇



「──では、わしはしばらく、娘の所へ参ります」

「ああ。面倒かけるが、そうしてくれ」


 三人で今後の対策を話し合った。店主には、しばらく娘の所へ身を寄せてもらうことになった。


 元より、歳三の一件が済めば高齢を理由に店を畳むつもりで、すでに店じまいの準備を始めていた。言われてみれば金物屋の男にもらった最初の文に、それらしい事が書いてあった。なんだかんだで、すっかり抜け落ちていた。


「俺のせいで、隠居が延び延びになっちまったな。済まない、親父さん」

「いやいや、金物屋のあんちゃんと楽しく過ごしてましたぞ。こうして、隠居の練習まで出来るしの」

「はは。店じまいの時は手伝いに来るよ」

「ほほ、そりゃ助かるわい。この門前で、深い付き合いのもんはおりませんでな。わしの家が何処かも、ましてや家族の事なんぞ、誰にも話した事なかったが、……こうなってみれば、付き合いの悪さが功を奏しましたな」


「前から言おうと思っていたんだが、……商売人のくせに付き合い下手って、いざって時困るだろうが」

「なんじゃ? どうも、最近耳が遠くなってのぉ」

「……このクソ爺ぃ」

「誰が、クソ爺ぃじゃ」

「聞こえてんじゃねえか」


 軽口を言い合って、明るく笑い飛ばした。諦めるのではなく、次への糧にするために笑う。そうすると、自然と力が湧いてくる。


 店の中の荒んでいた重い空気が、笑いと共に押し流されて行く。冗談を言い合いながら話がまとまった。


 すでに準備を進めていたおかげで、持ち出す品も風呂敷一つで事足りる。言われてみれば、最初に来た時よりずいぶんと品数が減っていた。わずかに残る高価な品だけを丁寧に包み、店主は木戸を閉めて回った。


 最後に小さな張り紙を表に貼り、店主は去って行った。歳三らも、足早に裏口から出た。どこで見られているかわからない。長居は無用である。


 その時、腹の虫がなった。歳三の腹だ。顔を上げれば陽が真上を過ぎている。


「何か食うか」

「いいですね」


 いつぞやの会話をなぞり、にやりと笑って踵を返そうとした二人に、後ろから声が追ってきた。


「あ、お兄さーん、無事、済みましたー?」

「! そうだった…っ」

「うっわー、めっちゃ手振ってる…。親父さんの言う通りでしたね」


 他人の振りをしたい気持ちを押しとどめて、八郎と目で頷き合うと、くるりと身体を反転させた。


「いやあ、あんたかー。それがだな…聞いてくれるか?」

「え、何です? あれ? 親父さん、もう店閉めたんです?」


 歳三は金物屋の男の肩に腕を回すと、がっちりと掴んで言った。


「そうかっ、聞いてくれるかっ!」

「ここじゃ何ですから、さっ、行きましょう」


 八郎も反対側から腕をがっしと掴んで、ぐいぐい引っ張った。


「えっ、えっ? 何? え?」

「よし、行くぞ」

「行きましょう」

「何これっ、怖いっ!」

 

 両側から腕を掴まれて顔を引きつらせる男を、二人でなかば引きずるようにその場から連れ出して行った。




 二つ通り向こうの店に腰を落ち着けて、歳三の質草が盗まれ、安全のためしばらく店を閉めると、男に説明した。この男は歳三の質草が何であるかを知らない。


 事の次第を知らないこの男を、こちらへ引き込むよう進言したのは、他ならぬ質屋店主である。


「──事情はわかりました。にしても、物取りとか物騒ですね…。親父さんに怪我なくて良かったですけど…。お兄さん、本当付いてないですねー。厄年にはまだ早いですよねー」

「まぁ、そうだな…」


 神妙な顔で頷く歳三に、八郎は背中を向けたまま、肩を震わせている。そんな八郎を無視して、歳三は男にぐっと顔を寄せた。



「なあ、目と鼻の先でやられるなんざ、気が気じゃないだろ? そこでだ。あんたに協力してもらいたい事があるんだが…」

「そりゃ…もちろん、俺にできる事なら」

「ああ、あんたが適任だ」


 歳三はにやっと笑って、男の肩を叩いた。これも質屋店主の勧めに従った上での行動だ。ものおじしないこの男は、人の悪意を好意に変える力を持っていると、太鼓判を押されたのだ。 


「…ってことで、あの騒ぎの最中、怪しい男を見た奴が居ねえか、探ってくれ」


(実際は〝探るフリ〟なんだが、それを言う必要はない)


 歳三が話を追えると、金物屋は胸を叩いて大きく頷いた。


「──…わかりました。任せて下さい!」

「悪いな、仕事もあるのに頼んで」

「いえいえー、大丈夫ですよ。何せ、暇なんで!」

「そこは威張んなよ」

「あははー」


 知らずに力んでいた身体から、ふっと肩の力を抜くと、呟くように言った。


「…あんただけは、何があっても大丈夫な気がするな」

「え? 何です?」


 何故だか、この男だけはそう思えるから不思議だ。決して状況は良くないのに、気づけば笑っている。ふと隣を見ると八郎も明るい表情をしていた。


「いや…、何でもねえ」

「そうですかー? あ、これ美味しいっ。どうです、おひとつ」

「頂きます。…ほんと、美味しいですね。俺も頼もうかな…」

「でしょ、でしょー。ふふーん」

「ふっ…」


 楽観的というのか、能天気というのか、思わず吹き出してしまった。この短時間で、そう思わせる金物屋が一番の強者かもしれないと歳三は思った。


(これがあっちの耳に入れば、油断するだろう)



 それからしばらくして、店があるからと金物屋は先に席を立った。強引に連れ出した詫びを言うと、明るく笑い飛ばされてしまった。不思議な男である。


「ふう…」


 二人同時に息を吐きだした。ひとまず伝えるべきことは伝えた。まだやるべき事はたくさんある。


「すっかり蕎麦がどっか行っちゃいました」

「よく言うぜ、ちゃっかり蕎麦団子まで食ってただろ」

「あれ、美味しかったです!」

「そりゃ、良かったな…」


 何気ない会話をしながら、店内に目を配る。そして八郎の背中に隠れるよう、身体の前に小さく指を二本立てた。それに八郎がわずかに頷くのを確認して、大きく伸びをした。


「さあて…。あてが外れた事だし、そこいら冷やかして帰るか」

「そうですね」


 勘定を済ませて通りに出る。時刻は昼八つを過ぎていた。手をかざして中天を過ぎた日を仰ぎ見た。


(今日は、長い一日になりそうだな)


 すぐに隣に並んだ八郎と、連れ立って歩き出した。その後を男達が追ってくるのを確認して──。



◇  ◇  ◇


 市中へ向かいながら、ふいに歳三らは細い路地に身体を滑り込ませた。遅れて後をつけてくる男が、角から先を確認した時には、すでに二人の姿は見えない。


「えっ、どこ行っちゅう…っ」

「遠くに行っちゃあせん──」


 男らが慌てて走り出そうとした瞬間、細い路地から伸びて来た腕が、すばやく路地の中へ二人を引きずり込んだ。


「ぐっ…」


──ドサっ。


 年輩の男の口元を覆い、さらに数歩路地奥へ押し込んだ時には、もう一人の若い方はすでに地面に転がせていた。


 そして、路地の入口をふさぐように、影からゆらりともう一人現れた。歳三である。足元に転がる男を見向きもせず、ゆらりと奥へ歩み寄って来た。


「こそこそ付けまわりやがって…。いい加減にしろよ、てめえら…」

「お、おまんはっ!」

「ん…? お前はどこかで見た面だな…。ああ、思い出した。俺を番所に突き出してくれた奴じゃねえか」

「ひ、人違いやなか…っ」

「おっと、下手に動かないで下さいよ。手元が狂っちゃいそうだ」

「──なっ」


 いつの間にか、背後から男を押さえていた八郎は、小さな小柄こづかを男の喉元に添えている。普段刀のさやに納められているそれは、小さいながらも立派な刀である。喉をかき斬るくらい動作もない。

 

「さーて、……何から教えてもらおうか」


 見せつけるように大刀の柄に手を置くと、歳三はことさら低い声で語りかける。


「お、おまんのそれは偽物やかっ」

「…ほぉ? だったら、試してみるか、手前の身体で」


───シュンっ


「…ひっ」


 目を見開く男の鼻先に、歳三はスラリと抜いた愛刀の剣先を突き付けていた。


「な、なんでおまん、それ持っちゅうがやっ?」

「それに答える前に…、どうして俺が大刀を持ってないと思ってんだか、聞かせてくれよ」


 男は見る見るうちに脂汗が滲みでてきた。鼻先で鈍く光る刀を凝視したまま、口元を引き結んでいる。


「お前らの相手はこの俺だろう。まっとうに生きてる連中を巻き込みやがって、…あんまり舐めた真似してんじゃねえぞ」


 綺麗な顔で凄まれると、底知れぬ迫力が出る。それを知ってか知らずか、歳三は不敵に笑う。言い知れぬ恐怖に、押さえられた男の身体が、細かく震え始めた。


「こ、殺さないでとおせ…」

「それは、あんた次第だな」


 賑やかな通りから、少しだけ入った細い路地の奥。世間から切り離された薄暗い世界で、静かに歳三の反撃が始まった。



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