第15話


 ほどなく腰に大小携えた二人が、道場の中央に立った。その横には審判役の近藤が立ち、よく通る声で宣言する。


「これより真剣仕合いを行う。決定打となる一打を寸止め、その一本をもって仕合い終了とする。では、──始め!」


 開始の合図と同時に互いに間合いを取り、腰を落として対峙する。二人から一切の表情が消え、相手のいかなる動きも見逃さない構えだ。


 真剣を扱う場合は、居合いも有効である。実戦で大きな打撃となる居合いは、真剣でしかできない。それもあってか、どちらもまだ抜くそぶりを見せない。


 否応なしに、歳三も気持ちが高ぶってくるのを感じる。総司に言われたからではないが、気を抜いて扱えるほど、刀は甘くない。しかも対するはあの八郎である。総司といい、八郎といい、病み上がりには荒療治すぎる相手だ。


 どちらも絶妙な間合いを保ったまま、じりじりと円を描くように移動していく。


───キィン!


 先に抜いたのは歳三だった。僅かな迷いが太刀筋に現れ、キレに欠ける一刀は軽い動きで弾かれた。反対にすぐさま二手、三手と打ち込む隙を与えてしまう。僅かな息使いと、金属の打ち合う音が辺りを満たしていく。


「くっ…」


 どれもギリギリで凌ぐものの、反撃の糸口はまるで掴めない。鈍った己の身体を嫌でも痛感する。実は握力と腕力の鍛錬だけは続けていたが、稽古不足は否めない。そしてそれは、足に現れた。


 僅かな隙をついたはずの反撃の一手に、頭が思い描いた場所に足が来なかった。遅れた踏み込みは中途半端な一打となって、その分相手に付け入る隙を与えた。


 甘い一打は、高い音を響かせて横へ大きく弾かれる。胸が開いて重心を失った身体は、無防備極まりない。もし実践で複数を相手にしていたなら、そのまま袈裟斬りにされてもおかしくない。


 とっさに後ろへ飛びのく事ができたのは、歳三のたぐいまれなる防衛本能によるものだが、八郎はさらに上手だった。


「甘い」

「っ!」


 一足飛びに歳三の懐深くまで踏み込み、重い一打を見舞われた。反射的に顔前で凌いだのもつかの間。体勢を整える暇を与えない猛攻に、防戦一方になる。


「くっ…」


 歳三は意地だけで八郎の刀を押し返すと、今度こそ大きく間合いを取り、改めて刀を掴んだ。じっとりと手のひらに汗をかいている。


「はぁ…はぁ…」


 たったこれだけで、息が上がっていた。情けなくもこれが現実である。先ほどからこめかみがチリチリと傷み始めている。一瞬の判断が命取りになる、まさに真剣勝負である。


 先日見た八郎の刀さばきとは別物だった。あの日、八郎が手を抜いていた事には気づいていたが、おそらく今も全力は出し切っていない。一方こちらは、いつ手足が飛んでもおかしくない。悔しさが焦りとなりじわじわと心を覆いつくしていく。


 歳三がぎりっと奥歯を噛んだ瞬間、八郎が一息に踏み込んできた。咄嗟に受け止めた手が痺れるほど重い。それなのに重さを感じさせぬ素早い動きで、どこまでも歳三を翻弄していく。


───ギィンっ…


 一際大きな金属音に、気づけば歳三の喉元に刀が横一文字に添えられていた。弾かれた歳三の刀は、剣先が床に向いて垂れ下がっていた。


(くっ、ここまで、か…?)


 負けの二文字が頭をよぎるが、近藤は口を閉ざしている。歳三が何かを思うより早く、八郎の怒声が耳をつんざいた。


「──こんなもんじゃないだろう! あんたの力は!」


 大きく顔を歪めたその叫びは、歳三を縛る何もかもすべて吹き飛ばした。代わりに腹の奥底から反骨心が一気に膨れ上がった。


「くそったれ…っ!」


 零れ落ちた言葉と同時に、柄を握る手に力が入る。八郎の左脇を狙い、逆手に持った柄頭を打ち込むが、素早く反応した八郎の肘で防がれた。


 だがそれは歳三の誘い手だった。不発に思われたその手に握っていた刀が、カランと床へ落ちた。


「──っ!」


 歳三の予想外の行動に、八郎にこの日初めての隙が生まれた。柄を避けた拍子に下がった剣先を交わして、歳三が八郎の懐深くに入りこむ。逆手で八郎の右手首を掴むと同時に身体を反転させた。


 ここまで、瞬きするような僅かな時間である。そして次の瞬間、八郎の足先が浮いた。



───ダァン!


 強引な体勢からの背負投げである。すかさず受け身を取った八郎は、背中が床についた途端、その勢いのまま、ぐるりと攻守を入れ替えてしまった。


「あっ」と誰かの声が聞こえた時には、今度は歳三が床に背を預け、片膝をついた八郎が上から覆いかぶさるように、大刀を突き付けていた。


 そこでようやく近藤が手を上げた。


「そこまで! ──両者、相打ちとする」


 近藤の声は、息を呑む道場の隅まで響き渡って消えた。仕合終了を告げても道場は静まり返っている。



「え、なんで──…あっ!」


 誰かの困惑した声がこぼれ落ちると、すぐにそれは驚きの声に変わった。


 床に背中をつける歳三が、その左手で脇差しを八郎の脇腹に突き付けていたのだ。短い脇差しの利点を生かして、逆手さかてで抜いていた。


 その事実にようやく気付いた周りが、一斉に声を上げた。


「なんだなんだ、どうなった! 俺、目瞑っちまったよ!」

「よくわかんねえけど、凄え!」


 それを遠くに聞きながら、近藤に促されて二人がようやく力を抜いて立ち上がった。


 最初の八郎の一刀は打ち込み不足だった、と近藤から説明される。確かに添えられただけでは、決定打とは言い難い。


 興奮した様子で湧き上がる仲間に囲まれて、歳三は乱れた息を整えるべく深く息を吐きだした。総司が拾い上げた刀を手に近づいてきた。歳三は殊勝に頭を下げて、腰から大刀の鞘を抜いて返した。


「済まねえ、投げちまった」

「別に…、大丈夫です。……まあ、さっきよりはましだったんじゃないですか」

「嫌味にしか聞こえねえな。……刀、助かった」

「礼なら、あちらにどうぞ」


 その言葉に振り返ると、八郎が歳三をじっと見据えていた。こちらもすでに刀を納めている。


「お見事」

「…抜かせ」


 いつかと同じ会話を交わすと、八郎の顔に笑みがこぼれた。色々と思う所はあるが、歳三も自然と笑みが浮かんでいた。


 周りが異様な興奮状態にある中、八郎は笑みを湛えたまま口を開く。


「やっぱりあなたは強い。勝ったと思ったんですけどね。──また仕合って下さい。今度は竹刀か木刀で」

「嫌なこった」


 即答する歳三は、ふてぶてしい表情をしていたが、八郎は今度こそ声を上げて笑った。


「困った人だなぁ」

「手前にだけは言われたくねえ」


 どこかで歳三の全快祝いだ!と歓声が上がり、これまでの腫れ物を触るような日々を吹き飛ばさんばかりの大騒ぎである。そんな仲間に囲まれた歳三を、総司は呆れ顔で、近藤は目を細めて眺めていた。



◇  ◇  ◇



 その日の晩、快気祝いと称した宴会に連れ出された歳三は、ここ半月ずっと晴れなかったもやが、いつのまにか消えているのに気が付いた。


 若い頃大病を経験し、どうせ死ぬなら好きなように生きると腹をくくった。二十歳をとっくに過ぎ、遅まきながらも近藤の元へ転がり込んだ。それ以来、剣の道に生きると決めた。


 最初から悩む余地などなかった。それが分かっていながら、待ってくれた仲間に頭が下がる。そして、心が定まった今、歳三には考えなければならないことがあった。


(さて、どうするか)


 ちびりちびりと口をつけていた盃を床に置き、歳三は月を見上げた。いつかの様に細い月が顔を覗かせていた。


「邪魔するぜー」


 その声に隣を見ると、左之助がとっくり片手に腰を下ろしていた。さらに反対側には総司がそしらぬ顔で座った。


「で? このまま泣き寝入りなんて、湿気しけた事言わねえよな?」

「これだけ迷惑こうむってるんですから、当然僕も一口噛みますよ」

「───それなら、俺も」


 新たな声の主がもう一人。八郎である。


「てめえら…」


 片眉を上げてみるも、何故か怒る気になれず、代わりに笑いがこみあげてくる。


「好きにしろ」


 堪えきれずに口端を上げて答えた。それを見て三人の距離がぐっと近くなる。


言質げんち、取りましたよ」

「ほんと、往生際が悪いんだから」

「うっせえよ」

「なんか策はあんのか。相手が相手だからな…」


 左之助の言葉に他の二人も黙った。迷惑がかからないよう、近藤には〝面倒に巻き込まれた〟とだけ伝えたが、薄々勘づいているように思う。


「関係ねえよ。相手が誰だろうと」


 あっけらかんと言い放ったのは歳三である。すでに平治から預けられた文を左之助を介して受け取っている。まだ熱が高かった頃だ。


 黛は人気の花魁である。馴染みとはいえ、登楼した後はひたすら花魁が来るのを待つのが客の仕事だ。つまり、客は暇を持て余すということだ。


 時には大引け(午前二時頃)を過ぎても相手が来ない日もあった。大引けを過ぎると、そのまま客と朝まで寝所を共にするのがならわしである。つまり大引けを一人で迎えるということは、一人で朝を迎えるということと同意である。


 少しでも長く過ごすために、最後を歳三と決めている黛が、それでもおいそれと抜けられない客。廓総出で、もてなさなければならない、特別な上客を相手にしているのだ。


 一人きりで過ごす長い夜。皆が寝静まった後は、不寝番ねずばんが行灯の油を継ぎ足して回りながら、夜が明けるまで文字通り、寝ずの番をする。定期的に訪れる彼らの気配に、歳三が気づかぬはずがない。


 障子を静かに開けた所でやおら歳三が話しかけると、最初は皆驚いた。だが、滅多に人と、ましてや客と関わることのない彼らは、総じて寡黙かもくで真面目、そして意外と気の良い男たちだった。


 歳三が他の若い衆や不寝番、さらに下男下女と、言葉を交わすようになったのは、いわば自然の流れともいえる。そこから敦盛の異名が生まれた。


 そんなことを繰り返す内に、噂は嫌でも耳に入ってきた。夜闇の襲撃で花魁の名が出た時、もしや…と思いはしたが、決め手に欠けるそれを口に出すのははばかられた。


 それを裏付けたのが黛の文だった。だが、花魁を騒動に巻き込むようなことはあってはならない。


 そこで花魁の文を手にしてすぐ、まだ熱が高い中、左之助に代筆を頼み、文を書いた。下手をすると命に関わるからだ。たとえ花魁といえど、所詮女郎の立場は弱い。これ以上、踏み込ませてはならないと判断したのだ。


 少なくとも、今回の黒幕と襲撃の相手は同じだろう。番屋の連中は金で買われただけとみて間違いない。そうでなければ、途中で態度を変えないはずだ。





 しばし思考の波に漂っていた歳三が、おもむろに顔を上げた。三人の目が集中する中、歳三はつづけた。


「喧嘩する相手を間違えた事、後悔させてやらねえとな」


 不敵に笑う歳三に、八郎は知らず知らずの内に武者震いをしていた。



「──もう、大丈夫そうだな」


 そんな彼らの背中を遠目に眺めていた近藤が、ぽそりと呟いた。


「ん? なんか言ったか?」


 その声に赤ら顔を向けたのは新八だ。近藤は新八の方へ身体を向けると、明るく笑った。


「いいや、何も」


 その日は主役そっちのけで大いに盛り上がる傍らで、歳三らは遅くまで顔を突き合わせて話し込んでいた。



◇  ◇  ◇



 翌朝。いつになく静かな早朝、人気のない道場に歳三は居た。手にするのは木刀。静かに神棚に頭を下げると、一人木刀を空に構えた。


───ビュッ、ヒュン…。


 黙々と木刀を振り、動きを確認していく。まだ辺りは薄暗い。もうすぐ夜が明ける。昨晩、遅くまで騒いでいた連中は未だ夢の中だ。歳三もよく寝たとは言えないが、あえて一人になりたくて、この時間を選んで起き出した。


 すでに皆の前で醜態しゅうたいを晒したとはいえ、鈍った身体を好き好んで見せびらかす趣味はない。晒さずに済むなら二度と見せたくない。道場から足が遠のいたのも、半分はこれが理由である。それで腕が鈍ったのでは本末転倒だが、元より見栄っ張りなのは自覚している。


「ふぅ…」


 一通り一連の動きをさらうと、額に汗が滲んでくる。腕の振りは昨日よりましにも思えるが、いかんせん、足回りが覚束おぼつかない。幾日か寝て過ごすだけで、筋力は落ちるのだ。


(その内、戻るだろ)


 息を整え、再度木刀を掴む手に力を入れたその時──。


「おはようございます」


 ぴたりと動きを止めた歳三を、するりと追い越して八郎が真横に立った。


「随分と早いですね。ご一緒してもいいですか」

「……嫌だつっても聞かねえんだろ」

「では、お言葉に甘えて」

「ほんと、聞いてねえな…」


 外はようやく空が白み始めた頃である。偶然を装っているが、かなり白々しい。この青年も歳三と同時刻に布団に転がり込んだ口だ。一刻寝たかどうかである。


 このまま稽古を続けるか逡巡するが、さすがにここ数日で、伊庭八郎という人物を理解している。嫌味なくらい強くて、うんざりするほど面倒臭いのだ。


(困った事に、そういう奴は嫌いじゃない)


 小さく笑うと、八郎の横に並んで立った。





 数刻後、すっかり日が昇ってから朝餉をかき込んだ面々は、そのまま眠い目をこすりつつ、道場へ向かった。誰よりも早く箸を置いた総司が、道場へ足を踏み入れて立ち止まった。


「──何、あれ」


 その目線の先にあったのは──…。


 床に四肢を投げ出して、爆睡する歳三と八郎だった。互いに意地を張り合って、我武者羅に稽古を続けた結果である。


「馬鹿が…二人?」


 追いついた皆が、総司の肩越しに二人を見つけて爆笑する中、総司は呆れた目線を投げかけていた。



◇  ◇  ◇



 歳三が大部屋に戻った翌日、近藤から呼び出しを受けた。少し身構えて、近藤の部屋の障子を開けた。


「おお、来たか。まあ、座れ」


 近藤は歳三の顔を見るなり破顔して、目の前に座る歳三をニコニコと眺めている。


「朝から、何の用だ」


 思い当たる節はあり余るほどあるが、素知らぬ振りをする。近藤は笑顔を崩さないまま、懐から小さな包みを取り出すと、歳三の目の前にゴトリと置いた。


(これは、…金か?)


 包みの正体に、歳三は眉をしかめる。


「……なんの真似だ」

「いいから、必要なんだろう。持って行け。これは皆には内緒だ」


(全部バレてんな。当然か)


 本音を隠したまま、歳三は迷いなく包みを突き返した。


「いらねえよ。貰う義理もねえ」

「そうは言うが、今後また奴らが来るだろう」


(それは間違いなく、来るだろうな)


 左之助が定期的に平治と連絡を取り合ってくれている。花魁に表立った変化はない。すでに花魁に…というより、恥をかかされた歳三本人に執着を見せている。この程度で引き下がるとは到底思えない。


(むしろ、俺が終わらせねえ)


「心配いらねえよ。取られた分は取り返す主義でな」

「おい、あんまり無茶はしてくれるなよ」

「多少の無茶は必要さ」

「だが、お前…」


 眉根を寄せる近藤は、すっかり兄の顔だ。一つしか違わない兄に、つくづく出来の悪い弟で申し訳ないと思うが、性に合わない事はやるもんじゃないと、この半月で身に染みている。ならば、やりたいようにやるだけだ。


(これ以上無様な面、晒せるか)


 含みのある笑みを浮かべると、歳三は明るく言った。


「迷惑はかけねえ。……これは気持ちだけ貰っとく」

「歳…。大丈夫か、本当に」


 腰を上げた歳三を引き留めるように、近藤が言葉を重ねる。それが金策の事だけでないのは明らかだ。


「俺ぁ、バラ餓鬼の歳だぜ? やられっぱなしで引き下がれるか」

「…………」


 まだ何か言いたげな近藤に背を向け、障子を開けて振り返る。


「迎えに来てくれてありがとうな。……恩に着る」

「何を言うか。何を差し置いても駆けつけるさ。当然だろう」

「もし勝っちゃんがやられそうな時は、俺が助ける」

「ああ、頼りにしてる」


 目で頷いて部屋を後にした。近藤に宣言した事で、気持ちがまた一つ前を向いた。


「一丁、かますか」


 濡れ縁を歩きながら考えを巡らせる。昨日の八郎との稽古は年甲斐もなく無茶をしたが、おかげで勘が戻ってきた。そのまま歳三は、見慣れた面々が集う道場へ足を向けた。



 個人主義を改めた(改めさせられたとも言う)歳三は、なし崩し的に巻き込んだ連中の事を考えていた。


 万が一のことを考えて、人数は必要最低限であるべきだ。間違っても、近藤や道場に火の粉が降りかかる事のないように、十分気を付けなければならない。


 まず、左之助の事。喧嘩っ早いが弁は立つ。後腐れない性格が人好きするのか顔が広い。歳三とはまた違う部類の男前で、女にもよくもてる。つまりその筋の伝手つても使えるということだ。


(これ以上ない人選だ)


 次に、歳三が怪我をして以来、いやそのずっと前から、不機嫌続行中の総司だ。あの快気祝いの席で、


『これ以上もたついてる様なら、一人で闇討ちに行く所でしたよ』


と言った時の目は少しも笑っていなかった。思わず苦笑いする。


(腕は文句なし。扱いが面倒だが、ま、なんとかなる)


 最後まで迷っていたのが八郎である。彼は彼で未だ問題を抱えている。何より食客とは名ばかりの、借物である。


 そんな状態で巻き込む事に抵抗があったが、『すでに巻き込んでるし、巻き込まれてる』と先の二人に言われて腹が決まった。


 本人は予想通り、笑顔で快諾した。というより、既に一人で調査を始めていると言い出したのには驚いた。歳三の寝所に顔を出さなかったのはそのせいだった。


 八郎とは距離を取っていたはずなのに、気が付けば懐深く入り込んでいる。歳三が百姓の生まれをどうしようもないように、八郎も生まれは選べないのだ。


 要は、どう生きるか。今を、これからを、己の力で切り開いていけば良い。そんなわかり切った答えにたどり着いた時、若い頃から心に刺さっていた棘が、溶けていくような心地がした。


 そしてそれは八郎の悩みにも通じていた。静かに歳三の決意表明ともとれる話を聞いていた八郎は、しばらく黙り込んだ。そしておもむろに顔を上げると、隣に座る歳三の腕をがっしと掴んだ。


『土方さん』

『あ?』

『師と呼んでもいいですか』

『は?』

『あんたは心の師匠だ! 俺はあんたに着いていくぞ!』

『断固拒否する。すり寄ってくんな! 誰だこいつに飲ませたの!』


 酒の席が良くなかったのか、歳三はやたら距離を詰めてくる酔っ払いを、思いっきり突き飛ばしたのだった。




「──土方さん」


 道場へ向かっていた歳三を、左之助が呼び止めた。後ろから駆け寄って小声で告げた。


「例の件、大当たりだぜ。見つけたよ」

「っ、どこの店だ」


 歳三は、まず取られた金を取り戻す策を講じていた。早速その指示通りに動いていた左之助が、収穫を上げたのだ。


「行きながら話そう。あいつら呼んでくる」

「ああ、わかった」


 歳三はそのまま大部屋に戻り、支度をする。向かうは小石川である。



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