第29話 砂の鎧の正体
いったいいつ廊下を歩き始めたのか、諒太郎にその記憶はない。
砂、すな、砂の鎧。
なにが現実でなにが幻想かわからぬまま、階段の前で立ち止まる。あ、授業受けなきゃ、と不意に思い出し、仕方なくまた歩き始める。学生の本分である授業が、自分とは関係のない、どこか遠いところで行われている紛争のように感じた。通いなれた高校の廊下なのに、未知の通路を歩いているような気さえした。
「ウタの呪いじゃなかったのかよ」
あの応接室にいた全員が、砂の鎧をまとっていた。
入った時に、見えていなかったのはどうしてだろう。
自分が頭を下げ続けていたわずかの間に、応接室にいた自分の体から飛散したウィルスにあの五人が感染して、その感染源である諒太郎の病状を一気に追い抜いたというのか。
いや、普通に考えてそれはありえない。
だったらどうしてこれまでに出会ってきた、それこそ神薙や、あのコスプレオフ会に参加していた人たちは発病しなかったのか?
同じ空間にいるだけで感染するのなら、諒太郎の両親がまず発病していないとおかしい。
やはり、元から砂化症にかかっていたと考えるのが妥当だ。
だとすると、感染源は聖澤か――いや、それもない。
だって、諒太郎は聖澤と全く接点がない時に、砂化症を発病している。
いったいこの病気はなんなんだ。
どういう原理で起こっているんだ。
そもそもこれは病気なのか。
第一、一番おかしいのは、校長室で誰も困惑したり動揺したりしなかったことだ。
人間が急に砂化する。
その異様な現実に直面すれば、誰かが発狂したっておかしくない。
けれどあの場にいた大人たちはそれまでと同じように、他者が砂に覆われていることに気づいていないかのように振舞っていた。
「……つまり」
逆転の発想だ。
あの砂の鎧は、諒太郎と聖澤以外の人間には見えていないことになる。
だとすると、やはりこれはウヨの呪いなのか?
手すりにもたれかかるようにしながら、一段一段、必死の思いで階段を上っていく。
「そうか、ということはそっちも逆の可能性が……」
諒太郎は考えた。
あの場で発病、もしくは前から砂化症になっていて一気に病状が進行したのではなく、もとからあの五人が砂の鎧を身にまとっていた可能性を。
そして、あの人たちにとってそれが普通だったから、驚かなかった――そうなると全世界の人間が砂の鎧で覆われていたことになる。
つまりおかしかったのは、一部しか発病していなかった諒太郎や聖澤の方だ。
「それはない……か」
即座にその考えを否定する。
であるならば、アニメで描かれる登場人物たちはみな砂の鎧をまとった姿をしているはずだ。
諒太郎と聖澤以外の人間にとってそれが普通なのだから、イラストは砂の鎧をまとっている姿になるはずである。
「くそぉ」
考えてもらちが明かない。
やはり、これはウヨの呪いなのか。
だから正解が見つからないのか。
踊り場で立ち止まり、休憩を取る。
校長室を出た時からやけに体が重く感じ――
「――まさか」
諒太郎は、はっと顔を上げて階段を駆け上った。
すぐ近くのトイレに駆け込んで鏡の前に立つ。
「あ、あああああ」
声にならない声が漏れ、顔中をかきむしる。
ざら、ざら、ざら。
手袋をとってみる。
制服をまくってみる。
ズボンの裾をまくってみる。
学生服の裾を持ち上げて腹を出してみる。
「俺、も」
顔も首も、もちろん手も腕も足首もお腹も胸も。
砂になっていた。
砂の鎧で覆われていた。
「……なん、で」
鏡を拳で叩く。
その拳も砂でできている。
泣きたいのに、砂の瞳から涙が落ちてくることはない。
「くそぉ! くそぉ! くそぉ!」
その時、学生服のポケットに入れていたスマホが震え始めた。
誰だよこんな時に、と思いながらスマホの画面を見る。
神薙だった。
「もしもし」
『ちょっとなにやってんの!』
いきなりの怒鳴り声。
砂になった耳でも、その声を捉えることはできている。
「いきなり大声出すなよ。こっちは疲れてんだ」
『疲れてるってなに? あんた今なにやってんの?』
「なにって、学校だけど」
『なんで学校なんかにいんのよ』
神薙の怒りは収まりそうにない。
しかも言っていることの意味がわからない。
「学校にいてなにが悪い? 高校生なんだから当然だろ」
『私が言ってるのはそういうことじゃない』
「じゃあなんだよ!」
『なんでリサのとこにいかないのよ! メッセージ来たよリサから。あなたと喧嘩した、もう近づくなって言われたことがショックで学校も休んじゃったって』
ああ、なるほど。
それで神薙は怒ってるのか。
「喧嘩なんかしてねぇよ」
諒太郎はスマホをぐっと握り締める。
「あれは喧嘩なんかじゃねぇ。ただ、もうあいつとは会わない方がいいって思っただけだ」
『はっ? なによそれ』
「だから、俺はもうあいつとかかわらない方がいいんだよ。不幸にするから」
五臓六腑までもが砂化しているかもしれない。
このまま体がぼろぼろと崩れ落ちていくのなら、それでもいい。
「あ、でもお前は変わらず遊んでやってくれ。あいつ、コスプレする時は自分が出せるって、そう言ってたから」
『なんでそうなるの!』
神薙の声に涙が混じったのがわかった。
「なんでってそりゃあ」
『あんた、なんにもわかってない。あの時と、ウヨを否定した時となんにも変わってない!』
「は?」
『過去を変えたいって思うんじゃなくて未来を変えようとしてよ! あんただけは変わっててよ! 変わろうとしてるって思ってたんだよ私は!』
この場には自分しかいないのに、目の前に立っている神薙に、胸を拳で何度もたたかれていると、そう思った。
『だって私は、望んじゃんったの』
彼女の声から力強さが失われていく。
『あんたがウヨを受け入れないことを。ウヨはあんたに相談する前、私に相談してたの。ウタに俺の本心を伝えるって』
「……え?」
ウタが、神薙に?
本心を伝える?
そんなの初耳だ。
知らない。
でも、だとしたらあの神薙の要領を得ない電話にも納得がいく。
友達なんだよね、と執拗にたしかめてきた、あの電話。
『私だって驚いた。急に男が好きだって言われて、受け入れないわけにはいかなかった。だってそうでしょ? それで今からウタに真実を告げるって、あんなに真剣な顔で言われたら、絶対大丈夫だよって言うしかなかった』
諒太郎は神薙の言葉を受け止めきれていない。
内容を脳内にとどめておくのが精いっぱいだ。
『でも私は、本当は断られてほしかった。だって私はウヨのことが嫌いじゃなかったから。むしろ好きだったから。だから私はあなたが受け入れなくて、茶化してくれてホッとしてしまった。ウヨが正気を取り戻して、男として生きてくれるんじゃないかって、心のどこかで思ってしまった。私だって、リサと遊ぶことを贖罪だと思ってるんだ』
今のが、神薙がウヨに抱いていた本当の気持ち。
そういうことなら、当時の神薙がそう思ってしまった理由はわからなくもない。
でも。
「なんだよそれ。だったらお前に俺を糾弾する権利はなかったはずだ!」
『ごめん、なさい』
「じゃあ今までお前は、自分のこと棚に上げて俺ばっかり責めて」
『そんなのは百も承知で、だからお願い! リサのことをあなたは今度こそ』
「もういい。じゃ」
諒太郎は一方的に電話を切った。
スマホの電源も落とした。
くそくそくそ。
こんなことが言いたいんじゃない。
神薙に対して怒っても意味ない――本当にこの感情は神薙に対してのものだろうか?
違う気がする。
諒太郎は自分がなんに対して怒っていて、なんに対して失望しているのか、全くわからなかった。
心で混ざり合っている感情の名称も総数もわからない。
「ふざけんな」
ぐちゃぐちゃな気持ちのまま、諒太郎はトイレの壁に背中を預けた。
もう、無理かもしれない。
いったいなにが?
なにもかもが。
謎の自問自答を繰り返していると、トイレの扉が開いた。やばっ、隠れ――
――また、驚愕した。
入ってきた生徒も、砂の鎧をまとっていた。
うそだろ?
しかも、同じように砂の鎧をまとっている諒太郎を気にも留めずに、横を素通りしていく。
諒太郎はトイレの外に飛び出した。
授業間の休みに入っていたようで、廊下は生徒であふれている。
教師も何人か歩いている。
そのすべてが、砂、砂、砂。
砂の鎧。
「……なんだよ、これ」
もしかしてみんな、今まで見えていなかっただけで、砂の鎧をまとっていたのか?
じゃあなんで今更、こいつらの姿が見えるようになったんだ?
見えるようになる前と見えるようになった後の違いは――
「――砂の鎧」
諒太郎はそう呟いていた。
見えるようになった前後で自分に起こった変化、それは――
――泰道諒太郎自身が砂の鎧で、完全に覆われたこと。
もし仮にそうだとしたら、自身が砂の鎧に覆われたことでみんなの砂の鎧が見えるようになったのだとしたら。
それはなぜだろう。
わからない。
わからないけれど。
あれだけ荒れていた心が落ち着きを取り戻していく。
感情が凪いでいく。
みんな同じなんだ。
みんな砂の鎧で覆われていて、そんな自分を受け入れて生きている。
砂の鎧に覆われていることは、悪いことではないんだ。
おかしくないんだ。
普通なんだ。
「そうか。そうなんだ」
胸に手を当てて、深呼吸を繰り返す。
みんな同じなんだ。
そうやって諦めると、砂の鎧について悩むのを放棄すると心が楽になる。
「そういう、ことか」
――いろんな場面や感情を諦めるのが、大人になるってことだよ。
先ほど担任から言われた言葉がふいに脳裏をよぎった。
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