閑話2 ささやかな抵抗 ~諒太郎、中学時代の話~
これは、ウヨが砂化症の話をする、少し前のことだ。
後から考えると、この時からウヨはずっと不安を抱えていたのかもしれない。
「シンドウ、ウタ。またな」
クラスメイトの
二人で職員室の中に入り、数学教師の
「弓削田先生」
ウヨがそう呼ぶと、ものすごい猫背で小テストの採点をしていた弓削田が、のっそりと顔を上げた。彼はウヨを見た瞬間、子供のように笑う。
「おお、近藤か。それに泰道も。また質問か?」
「はい」
「そうかそうか。今日はなにを聞きたいんだ?」
「今日は、これについてちょっと聞きたくて」
ちなみに、この学校には二種類の先生がいる。ウヨが質問した時に身構える人と、どんな質問が来るんだろうと楽しむ人。弓削田は後者だ。わかり合える人にようやく出会えた、って感じの顔をする。前者の先生の気持ちもわからなくはない。神童の質問にちゃんと答えられるか不安なのだ。
「おう、これか」
「はい。ちょっと先生の意見を聞きたいんです」
「待ってろ、目を通すから。一分くれ」
弓削田のテンションがどんどん上がっていく。普段ローテンションな分、その変わりようが少しだけ気持ち悪い。こんなにも目を輝かせている弓削田を見たことがあるのは、きっと諒太郎とウヨだけだろう。
ただし、弓削田の目の輝きが向けられているのは、ウヨだけだ。
にもかかわらず諒太郎がウヨについていくのは、毎回ウヨに誘われるからだ。職員室に一人で入るのが緊張するらしい。面倒だから断ればいいのだけど、わかったふりをしたいというプライドを無視できなくて、毎回誘われるがままついてきてしまう。
「ほほぉ、この問題を持ってくるとは、さすが近藤だな」
弓削田がウヨだけに笑みを向ける。
諒太郎は見られてもいないのに後ろで小さくうなずいた。
ウヨの質問に弓削田が答えるたびに、わかったふりをしてうなずく。うなずくたびに疎外感を覚える。ウヨが遠い世界へ離れていくような気になる。
――いや、もうすでに遠いのか。
興奮気味に話す二人を見て、不意に諒太郎は理解した。
だって自分は今、悔しがってない。
ちょっと前までは、二人の言っていることがわからなくて悔しがっていたはずなのに、今はもうそんなこと思っていない。ただ単純に、ウヨはすげぇな、と思っている。
それに、ウヨが質問する相手は弓削田なのだ。親友のはずのウタには質問しない。それは心のどこかで、ウタに話しても意味がない、理解してもらえないとわかっているからだ。その事実を認識してなお苛立たない自分は、もうウヨとの差を詰めようなどとは思っていない。詰められるとすら思えていないということだろう。
そうか、と諒太郎は思う。俺はずっと諦めたかったんだ。天才である二人の会話を聞き続けて、ウヨは自分とは違うんだって、諦めてもいい理由を見つけたかったんだ。
諒太郎の体からすぅっと力が抜けていった。
これからは俺も、ウヨのことをシンドウと呼ぼう。ウヨが神童であることを受け入れよう。これまでウヨのことをシンドウだと呼ばなかったのは、ただのささやかな抵抗だったのだから。
諒太郎は目を閉じて、笑った。
ウヨと弓削田の数学トークも終わり、二人で職員室を出る。すれ違う同級生たちとあいさつを交わすが、やっぱりウヨは「シンドウ」と声をかけられている。
下駄箱で二人きりになった時、ウヨが苦笑いを浮かべながら言った。
「そういや、もうウタだけだな。俺のことウヨって呼んでくれるの」
「そうだっけ?」
とぼけたふりをする。
そんなの、とっくの昔から気づいていたくせに。
「あれ、さ。なんかちょっとだけ悲しいんだよ。俺的にはシンドウって呼ばれると、そいつと友達じゃなくなったって感じがするからさ。周りを固められていく感じ? 神童でいなきゃいけないっていうか、そうであることが普通なんだって。世間の普通を押しつけられてるって。ま、勉強も楽しいからいいんだけど」
ウヨは俯いたまま、上履きからスニーカーに履き替える。
「でもウタにはさ、ずっとウヨって、そう呼んでほしいんだ」
「俺はずっとウヨって呼び続けるつもりだけど」
諒太郎は即座にそう宣言する。
さっきまでは俺もシンドウって呼ぼうと思ったけど、ウヨの寂しそうな目を見てしまったら、そんな裏切り行為はできない。
それに、ウヨはウヨだ。
ウヨ以外の何物でもない。
もしウヨが、シンドウという多くの声に惑わされ、他人が押しつけてきたものに染まってしまい、自分自身を見失ってしまいそうになったとしても、俺だけはウヨの隣で、神童の部分じゃない本当のウヨを見てあげよう。尊重してあげよう。大事にしてあげよう。
そう思った。
「そっか。ありがとな。ウタ」
「だってシンドウよりウヨの方が二文字で呼びやすいじゃん」
「それが理由かよ。感動して損したわ」
ウヨが安心したように笑ってくれて本当に良かった。
この瞬間から、諒太郎にとって近藤洋平のことをウヨと呼ぶことが、ウヨの気持ちを尊重しないみんなに対するささやかな抵抗になった。
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