第11話


「心当たりはある?」

 鏡花と北斗は出版社を出てすぐにある小さな喫茶店に来ていた。正面にはガラス張りのチェーンのカフェが会ったのだが、鏡花はこちらのほうが外聞を憚る話に向いていると言った。古い喫茶店で、打ち合わせによく使うのだと言う。半分個室のようになっている席は確かに打ち合わせに向いている。鏡花はコーヒーとチョコレートケーキ。北斗は紅茶とプリンを頼んだ。

「心当たり?」

 北斗の問いに鏡花が繰り返す。

「見つかった遺体の」

 鏡花は首を傾げた。それから、

「ない」

 と言った。北斗の目には、嘘に映った。心当たりが、ある。

 君が殺したの?

 聞いてみたかった。だがまだそのときじゃない。だがまだそのときじゃない? 小説に出てくる探偵みたいだ。北斗は自嘲する。でも今聞けば、鏡花は北斗を警戒するだろう。そうなった鏡花がどう行動するのか考えるのが恐ろしかった。鏡花はなんでもするだろう。

「桐生はどう思うの?」

「全然わからない」

 鏡花は笑った。

「本当に名探偵なの?」

「そう言われてるだけだよ。別にたいした推理ができるわけでもなんでもない」

「じゃあ今までどうやってきたの?」

「なんとなくわかるんだ。それだけだよ」

 北斗はぼかして説明した。

「なんとなく?」

「なんとなく」

「それって再現性がないじゃない」

 北斗は頷いた。

「その通りなんだよ。たまたま今まで失敗しなかっただけだ」

「役に立たないなあ」

「これからだよ」

「ふーん」

「役に立ってみせるよ。必ず」

「ふーん」

 自分に誓うように言う北斗に、鏡花は目を細めた。

「君は?」

「え?」

「小説はどういうふうに書いているの?」

 怒るかな、と思ったが、鏡花は怒らなかった。注文の品が届き、鏡花は小さく頭を下げた。フォークを手に取って、ぽつんと尋ねる。

「どういうふうに書いてると思う?」

「え?」

「小説ってどういうふうに書くと思う?」

「え……うーん……どうって言われても。プロットを作って、その通りに書いていくんじゃないの」

 北斗は大学の創作の授業を思い出す。必修ではないので鏡花は受けなかったが、人気のある授業だった。他大学で准教授をしている現役の小説家が担当していて、課題として短編小説を書かされる。北斗は自分なりに創作というものに敬意を払っていたつもりだったが、これほど書けないものかと驚いた。他の学生も似たり寄ったりだった。面白いとかつまらないとか言う次元ではなく、小説にならないのだ。何も起こらない間に終わってしまう。高校生のときに地方の文学賞を取ったという学生がいくらかまともなものを仕上げていたが、北斗にはそれもたいして面白いとは思えなかった。それでもそのたいして面白くもないがきちんとひとつの物語として完成されているものを、ちょっとした奇跡のように感じた。授業のあと、学生たちは鏡花のことを話題にした。それはおおむね好意的だったが、北斗はなんだか気まずかった。鏡花のことを他人に語ってほしくなかった。彼女が何を考えてどんなふうに小説を書いているのかを、ひとつのニュースのように語られるのは嫌だった。彼女は北斗の友人であり、特別な、大切な、人だった。鏡花は北斗にそう思われるのを好まなかっただろうが。

「小説はね、書きたくて書くの」

 鏡花は重要な秘密を明かすように、北斗に囁いた。

「……書きたくて?」

「そう」

 学生時代、鏡花はコーヒーには何もいれなかった。昔のことを思い出していると、今の鏡花も何も入れなかったので、北斗は安堵した。安堵するのもおかしいが、知った通りの鏡花であることが嬉しかったのだ。鏡花はチョコレートケーキを食べる。

「……もう書きたくないの?」

 フォークを小さく咥えたまま、鏡花は首を傾げた。

「昔はね、私って、ずっと、一生書きたいんだろうなって思ってた。書くしかないから。私には書く以外には何もない。でも、書かなくても生きてはいける。みんな生きてる。みんなくだらないなりに生きてて、私もくだらなくて、でも生きてる。たまにくだらないってことに耐えられなくても、そういうことには慣れる。そのうちに、くだらないってことも忘れる。忘れてきた」

 北斗には鏡花の言っていることが何もわからなかった。意味はわかるのに、何一つ共感ができない。同時に、いつも感じていた不穏な違和感は、消えていた。鏡花は本当のことを言っていた。言葉の意味だけではなく、本当のことを吐露していた。普段は大人しい顔や、生意気な若い女のかたちに押し込められているものを、見せている。

「十二歳のとき、本当に耐えられないと思ったの。このままくだらないまま生きていくのかって。多分書かなかったら何か少し大人に反抗して、だんだん落ち着いて、そのままくだらないまま生きていったんだと思う。でもそうじゃなかった。耐えられなかったから、書いた。そうしたら、そこから出ていくことができた。成功体験だった」

「うん」

「この世界に何十億いる人間の一人。社会のちょっとした動きに人生ごともみくちゃにされる人間の一人。自分の思ったことを言っても他の似た意見の人間とまとめられて集団の頭数になるだけの人間の一人。そういうことに耐えられない。自分の感情が自分だけにしか大事じゃないことに耐えられない。でも書けば違う。私は違う。社会に私の手が届く。一冊書けば自分が拡大していくのがわかった。私が書くことで、社会が少し書き換わる。書き換えたかった。私をどこまでも大きくしたかった。もっと偉くなりたかった」

 小さな細い声だった。北斗以外誰にも聞こえない。ただ若い女の子たちが、ケーキを食べながらおしゃべりをしているようにしか見えないだろう。それでも、北斗は聞いていた。この小さな少女めいた女性の声には、確かに何かがあった。強烈な熱量。自分の小さな輪郭を不服として今にも燃え上がろうとするものが。そして、北斗は長い付き合いの中で初めて、鏡花のその熱を一番近くで感じていた。彼女はずっと、こういうものを抱えていたのだ。誰にも話さず、ただ書くために。書くことで自分の熱を誰かの心に移すために。

「今は違うの?」

 鏡花は首を傾げた。その目は北斗を見ていなかった。

「偉くなったからって、なんなんだろう」

 何の表情も浮かんでいなかった。平坦な声。平坦な表情。その言葉にふさわしい表情を作ることを、北斗に見せることを、鏡花は拒んでいる。

「本が売れて、お金が入る。芸能人が紹介する。映像になって、お金が入る。Amazonレビューが1000を超える。書評家が記事を書く。私の本を卒論に使う学生がいる。大量にファンレターが届く。キャラクターのイラストを海外のファンが描く。バレンタインにキャラクターあての大量のチョコが届く。そういうの……そういうの、私が望んだのかな。望んだんだと思う。小学生のとき、そういうことを夢見てた。そういうふうになりたかった。馬鹿みたいだけど。でもそういう夢を見ていたの。最初は嬉しかった。反応があるっていうこと。一言いえばものすごい声が返ってくるっていうの。そういうのって快楽でしょう」

「うん」

 わからなかった。北斗は今の自分以外の何かになろうとしたことなどない。自分の手が届くところで、自分の声が届く、顔の見られる相手だけに、個人的なことを話す。それで満足だし、必要以上の大きな責任は負いたくなかった。探偵は大きな責任だが、やらざるを得ないこと、やるべきこと、そしてやりたいことがあり、自分の能力がそれに値する。だからやっている。それだけのことだった。北斗はそれほど自己にこだわりがない。重要なことはいつも自分の外側にある。対象との自己との関係を考えることはあるが、自分自身がどうだとか、それだけを考える趣味はなかった。だが鏡花にとって、そして多くの人間にとって、そうではないらしいことを、なんとなくは知っていた。鏡花にとって、自己は大きな問題だった。どこまでも拡大し、どこまでも深みに陥る。

「でも、慣れるよね。嬉しくなくなる。嬉しかったこと全部が何回も何回も繰り返されて、古びていく。お金とか、もうどうでもいいもん。ある程度稼いだらもうなんでも同じだよ。誉め言葉も同じ。誰かが喜んでも、どうでもいいもん。なんか、むしろ腹が立ってくる」

「そう?」

「そうだよ。救われたとか人生が変わったとか一生大切な本になったとか、めちゃくちゃじゃん。コストパフォーマンスがおかしいよ。本じゃん。本読んだだけじゃん。買ってもいないかも。それなのに向こうは勝手に救われて、ありがとうございますじゃないんだよ。何勝手なことしてるの」

 何も面白くなさそうに鏡花は笑った。

「ありがとうございますってなんだよ。嬉しくないよ。印税って高くても十パーセントなんだよ。そんで私はたくさん刷るから一冊当たりの値付けも安めなわけ。で一冊あたり百円ちょっととか、何十円とかで人の人生を照らしてるの。おかしいでしょ」

 似た話を、前にもしてもらった。同じ熱量で鏡花は語る。だが北斗には、今のほうが切実に響いた。あのときは気付かなかった。

「そうなんだ」

「そうなんだよ」

 鏡花は言うと、じっとどこかを見つめていた。無表情に、うっすらと感情が滲んでいた。表面は凪いでいる。だが押さえつけているものが、溢れてこようとしている。どうしても抑えられない感情が。

 それは、北斗には怒りに見えた。

「私には……なにもなかったよ。結局書いても何も救われなかったんだよ。どれだけ読まれても救われない。本は人を救うとして、私が救ったのは、別にどうでもいい誰かだけだったんだよ。私は救われなかった。何にも変わらなかった。成功したって無意味だった」

「何かあったの?」

 小さな火が消えるように、その北斗の問いで、ふっと、その場にあったものが消えた。鏡花は我に返ったように小さく首を振った。

「何もないよ」

 それは、北斗に話すことは、あるいは誰かに話すことは何もない、という意味だった。鏡花はケーキを一口切り取って、口元に運んだ。北斗もプリンを食べた。皿の上に自立している丸いプリン。その脇には真っ白いクリームが添えてある。カラメルの苦い、硬いプリンだ。卵由来のはっきりした硬さがある。北斗は硬いプリンしか食べない。こだわりというか、柔らかいタイプのプリンをプリンと認識できないのだ。鏡花が呟く。

「多分さ、偉くなりたいってだけでやり続けられる人が、いるんだよね」

「そうなんだ」

「人より偉くなりたい。人に褒められたい。お金がほしい。そういうことだけがものすごいエネルギーになる人って、いるんだよ。生活のためとかじゃなく、偉くなるために。偉くなったあとにそのままで居続けるために。私にはわかんないけど。わかると思ってたけど、わかんなかった。やってみたら、ずっと続けるほどのものはないから」

「うん」

 北斗の相槌のあと、ためらうように瞬きをすると、鏡花は小さな声で、さりげないふうに言った。

「すごい小説を、書いてみたいと思うことは、まだあるよ」

「すごい小説?」

 鏡花は頷く。

「すごい小説……今まで私が書いたことがなくて、この世のどこにもないような小説。私はまだ自分を拡大したいって気持ちがある。これまでの自分よりもっといいものを書きたい」

「うん」

 またしてもまったく理解できない欲望だった。だが共感どころか理解が出来なくとも、そういう欲望がそこにあることはわかった。どこまでも膨れ上がろうとする力。そういうものがある。誰の理解も必要とせずに膨れ上がっていく。理解ができないのと同じように、留めることもまたできない。

「でも書いて……どうするんだろうって思う。書くって、毎回やったことがないことだから。結局」

「推理が毎回やったことがないことみたいに?」

 北斗のあげた例に、鏡花はすぐに頷いた。

「そう。毎回違う事件を、毎回違うアプローチで解明するわけでしょう」

 推理小説の考え方だなと北斗は思った。

「同じものを書いても意味がないから。新しいことをするのって、苦しい」

「うん」

「そんなことをして何か書いて、それでどうするんだろうって思うの。得られるものがない。意味がない気がする」

「そうなんだ」

「うん」

 黙ってケーキとプリンを食べた。北斗は、なるべくさりげなく響くように気を付けて言う。

「君は、書くと思う」

「そう?」

「うん。すごい小説を、書くと思うよ」

 鏡花は北斗を見た。北斗も鏡花を見た。チョコレートケーキのかけらが、小さな唇の端にくっついている。普通の女の子だった。小さくて可愛らしいお嬢さん。いかにも頼りなさそうな若い女の子。何をしていても、そう見える。何者なのかを知っていてもなお、そんなふうに見えるのだった。北斗は胸が痛んだ。彼女が決してそんなふうにいたくないことを知っているのに、彼女が普通の女の子に見えると、安心してしまう。

 ケーキのかけらをくっつけたまま、鏡花は微笑んだ。

「ありがとう」

 小さな、だが心からの感謝だった。北斗にはわかった。

 わかる分、隠し事をしていることが、後ろめたかった。



 夕方の地下鉄の駅は、それなりに混んでいた。鏡花と北斗の使う路線は別だ。鏡花の駅の下りの階段の前で、二人は別れた。

「解決すると思う?」

 鏡花の問いに、

「わからない」

 と北斗は答えた。本心だった。鏡花はいくらかほっとしたような、曖昧な笑みを浮かべた。

「捜査は基本軽井沢みたいだし、私にできることがあるかどうかもわからない。また何かあったら連絡するよ」

「はーい。またね」

 そう言うと、鏡花は北斗に背を向けた。北斗は後ろから来た人を避けて、邪魔にならない位置に佇んで、ぼんやり考え込んでいた。これまでに起こったこと。わかっていること。おそらくそうだろうと思われること。これからしなくてはいけないこと。とりあえず、警察とは別の動きを取る必要がある。鏡花をどうにかしなくてはいけない。警戒されず、彼女ともっとコンタクトを取る必要がある。

 悲鳴が聞こえた。

 悲鳴。ざわめき。嫌な予感がする。北斗は全力でそちらに向かって駆けだした。

 鏡花が倒れていた。

 階段から落ちたのか。うつぶせになって倒れていた。誰も声をかけず、かと言って通り過ぎることも出来ず、遠巻きに足取りを緩めて様子を見守っている。

 声をかける前に、鏡花が上体を起こした。立ち上がることがまだできないのか、座り込んでいる。髪が乱れて顔にかかっている。

「大丈夫……大丈夫です……すみません……」

 小さな声で言いながら、めくれ上がったスカートを慌てたように直して、頭を下げている。そういう時の都会の常で、人々はなんとなく視界の端に鏡花をなるべく保ちながらも、彼女の周りから去っていった。

「大丈夫?」

 あえて周りに聞こえる声で尋ね、差し伸べた手をつかむ前に細い腰を抱えて、彼女を立ち上がらせた。鏡花は自分の体重を支えるすべを思い出せないかのように、北斗にだらんと体を預けた。

「どうしたの?」

 大丈夫かと聞けば、彼女は大丈夫と答えるだろう。わかっていたからそう聞いた。

 鏡花は返事をしなかった。彼女を半ば引きずって、隅に設置してあるベンチに隣り合って座る。自販機がある。

「何か飲む?」

 鏡花は首を振った。頬骨のあたりが軽く擦り剝けている。唇に色がない。北斗はわずかにためらってから、鏡花の手を握った。ひどくつめたい。ぴくりと指先が動いたが、ふりほどかれはしなかった。きつく握りこむ。鏡花は浅く速い苦しい息を繰り返していた。北斗はそっと彼女の肩を抱いた。鏡花は拒まず、ただじっとしていた。泣いている気配がした。それには触れず、北斗は待った。鏡花の息が落ち着いたところで、北斗はそっと離れた。俯いたまま、鏡花が指先で涙をぬぐった。顔を見られる位置で、北斗は尋ねる。

「誰かに押されたの?」

 鏡花は充血した目を見開いた。驚きと、迷いと、それからおそらく諦めが、その顔をよぎる。

 それから、頷いた。ちいさく、だがはっきりと。

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