第7話

 桐生北斗は須藤鏡花を初めて見た日のことを、今でもよく覚えている。

 大学の入学式で、鏡花は目立っていた。女子も男子も大多数がスーツの中、彼女は紺色のワンピースを着ていた。行儀のいい可愛らしいワンピースに、地味な髪形と薄化粧。スーツ以外の服装は少数派だがいないわけではないし、顔立ちもスタイルも目立つところなどないはずなのに、彼女は妙に人目を引いた。力の抜けた立ち姿に、不思議にあか抜けたところがあったからかもしれない。持ち物の全てが地味だが、高価なものだった。そういう金の使い方をする十八歳はそういない。そして、彼女は人の視線に慣れていた。

 須藤鏡花? と誰かが言い、すぐにざわめきが広がった。誰かがスマホを向けて、彼女を撮った。シャッター音に、北斗は青ざめた。好奇の視線を向けられる鏡花は小さく、弱そうで、保護者も周りにおらず一人で入学式に来たようだった。可哀想だった。声をあげようと思ったとき、

 何。

 と、低いよく通る声が、ざわめきを制した。しん、と、沈黙が降りる。

 勝手に撮らないで。消して。

 ここまで声で苛立ちをあらわにできるのかと北斗は驚いた。声にかたちがあるなら、周辺は血まみれだっただろう。慌てて彼女の近くに立った。守ってあげるというほどの意識はなかったが、ここまで攻撃的で、ここまで弱そうな人間を一人で立たせていることが不安で、なんだか耐えられなかったのだ。

 何。

 驚きに、ほんの少しの不安をのせた声で、鏡花は北斗を見上げた。北斗は安心させるように微笑んだ。周囲の人込みは、鏡花が一人ではなくなったことで気まずげに意識をそらした。

 最悪。こんな大学入るんじゃなかった。

 ぼそぼそと鏡花がつぶやく。いらだちと、悔しくてやりきれないという様子だった。

 どこの学部?

 水を差すように北斗が尋ねると、鏡花は文学部、と小さな声で言った。耳を澄まさなければ聞き取れないような声で、だから北斗は彼女のほうにかがみこみ、耳を澄ませた。彼女がそういうふうに話したのは、おそらくわざとだった。声の大きさ。乗せる感情。それをコントロールすることで、彼女は相手を自分のペースに巻き込む。

 一緒だね。じゃあ、一緒に行こう。

 鏡花はじっ、と、睨むような強さで北斗を見つめた。

 あなた、私のファン?

 北斗の耳に、囁きで尋ねた。眼差しの強さと、声の小ささが合っていない。北斗はすぐさま首を振った。

 違うけど。

 本当? よかった。じゃ、一緒に行こう。

 にこ、と、鏡花は笑った。それは、北斗の思考を一瞬で凍り付かせるような、強烈な微笑みだった。それまでの警戒を一度に解いて、心の一番柔らかい部分を差し出すような。北斗の恋愛対象が女性であれば、一瞬で恋に落ちただろう。その微笑みひとつで、距離を取りながら彼女がどういう人格の持ち主なのか計っていたのに、すべてをめちゃくちゃにされてしまう。強烈な可愛さだった。彼女の一見平凡な顔立ちさえ、その笑顔を引き立たせるための準備なのかと思うような。

 危ないな、と、入学式の最中も、家に帰ってからもずっと、北斗は須藤鏡花と、そのときの微笑みのことを考えていた。この子は危ない。周囲も危険だし、彼女自身も危険だ。彼女の強烈さは普通の人間が本来守っている場所を危険にさらすことで得られるものだった。近くにいないと、きっと何かよくないことが起こる。

 そしておそらく北斗は、それを見てみたかった。何かが起こることを。須藤鏡花は桐生北斗が初めて出会う非日常だった。非日常そのもののような少女。十八歳の北斗は、その魅力にあらがうことができなかった。彼女は危険だった。だが危険そのものが魅力だった。北斗は危険の気配は感じとれても、実際の災難を思い描く経験にまだ欠けていた。

 大学時代、北斗は鏡花について回った。学部も振り分けられたゼミも同じ。授業も共通しているものが多く、行動を共にするのに苦労はなかった。

 小説書いてる?

 初めのころにそう聞かれた。北斗は首を振った。小説を書こうと思ったことはなかった。

 書いてない。

 よかった。読んでくれとか紹介してくれとかいうの、鬱陶しいから。

 そうだろうなと思った。目立つ存在でいるのは大変だろう。近くにいると鏡花は小さく、手首なんか壊れそうに華奢だった。実際教科書や資料のような重たい荷物があるとき、彼女はごく自然に、当然の権利のように北斗に持たせた。北斗は拒まなかった。

 召使みたいになってるね。

 鏡花は楽しそうに、馬鹿にしたように言った。北斗はちいさく笑った。

 あの人と一緒にいるの、疲れない?

 鏡花は新入生たちには「あの人」と呼ばれ、遠巻きにされていた。北斗は鏡花といるとき以外はいろんな学生と一緒にいた。昔から友人が多いのだった。北斗は人間が好きだった。

 そうでもない。

 そう答えた。実際、鏡花のわがままを聞くのは苦ではなかった。彼女は相手の献身を自然に受け止めるので、案外居心地がよかった。堂々としているが、自分が相手にどんな負担をさせているのかはちゃんと把握している。彼女にはわがままの才能があった。わがままをかなえても、かなえなくても、どちらも負担にならない。それは悪徳のように見えるが、稀有な才能だった。

 彼氏みたい。

 よくそう言われた。もっと直接的に、性的な関係があるのかと聞かれたこともある。そんなものはなかったが、北斗はそういう噂には慣れていた。昔から女の子に好かれたし、交際を申し込まれたことも何度もある。どうとも思わない。だが鏡花はどうだろう。

 へーえ。

 鏡花はその噂を聞くと、北斗の腕に両腕でしがみついた。

 身長的にはちょうどいいかもね。

 北斗の直線的な肩に小さな頭を預けて笑った。可愛いな、と北斗は思った。自分とはまったく違う彼女に近づかれると、性的な感情に近いような動悸がした。「お金があまってあまって仕方がない」と北斗には言う彼女はなんでも高いものを使っているので、柔らかそうな髪からはいつもとてもいい匂いがした。

 でも私、彼氏がほしいな。男の。

 どういうのがいいの?

 うーん。

 鏡花は北斗にしがみついたまま考え込む。

 顔がよくて若い男。

 北斗は笑ってしまった。鏡花も楽しそうに笑った。

 それでね、私の本とか全然読んだことない男がいいの。本なんか難しくて読めません! みたいなの。

 じゃあ、大学で探すのは難しいね。

 そうなんだよ。ホストクラブとか行こうかな。

 いきなりホスト?

 ホスト行こう! ってなったらついてきてね。お金は払うから。

 はいはい。

 入学当初は北斗以外とはほぼ交流しなかった鏡花だが、いつまでも避けるわけにもいかず、周囲もおそるおそる、と言った様子で彼女に近づき、彼女も少しずつそれを受け入れた。ただ、サインは「絶対にしない」ときつく断り続けていた。あれでは二度と頼まないし、二度と読む気にもならないだろうな、と心配になるような断り方だった。

 自分のファン嫌いなんだよね。

 と、ある日鏡花は言った。

 写真撮られたりとか、大変だよね。

 北斗は入学式の日を思い出して相槌を打ったが、鏡花は首を振った。

 そういう迷惑行為じゃなく、ファンってものが嫌いなの。

 え?

 適当に読んで「知らない作家だけど面白かったー。次見たら買おうかな」ぐらいがちょうどいいわけ。ファンレターとか送って「人生変わりました」とか言ってくるやつ嫌いなの。小説に重いもの載せすぎじゃない?

 そうなの?

 鏡花はうなずいた。

 私の本なんて一冊千五百円とかじゃん。文庫にもすぐなるから八百円とか? そんな金で人生変わりましたとか言ってくるのさあ、そっちが得してるだけじゃん。お前の人生とかどう変わろうと興味ねーんだけどこっちは。

 あまりの言いように北斗は言葉を失った。

 自分に好かれて嬉しいでしょう? あなたの書いたものが心を動かしたんですよ! って、感じで。嬉しくないし別に。勝手に得してるんだからその分小切手でも入れてこいよって。

 すごいね。

 人生変わったとか言うならめちゃくちゃ金積むかまじで私のために人でも殺すぐらいはしてくれないと私の変わらせ損じゃん。むかつくんだよね。

 北斗は笑った。笑いながら、彼女にとって、好意というのは弱みなんだなと思った。好意を示されることを服従だと思っている。生きづらいだろう。だが、多分どういう受け止め方をしたとしても、「人生が変わった」というような手紙が多数届くような人生そのものが、難しそうだ。彼女はそういうふうに難しさを処理している、ということなのだろう。北斗は基本的に、他人を好意的に見ることにしていた。

 そういう人には言いにくい本音は北斗にだけぶつけるようにしたのか、鏡花は他の学生には割合穏当な態度で接するようになった。それでも何かあるたびに棘のある対応をするので、親しい友人はなかなかできないようだった。別行動をしてから合流するとき、鏡花はいつもぽつんとしていた。周りに遠巻きにされながら、ぽつんと座って、本を読んでいる。彼女はいつも本を読んでいた。そのほとんどが小説だった。推理小説が多かったが、それ以外のものも読んでいた。海外のものも多かった。本当にいろいろなものを読んでいた。北斗はほとんど自分から小説を読まないとは言え、国文学科で周囲には読書家が多かった。人並み以上の知識はあるはずだが、まったく見覚えのない作者、タイトルのものばかりだった。

 その本なに?

 聞くと、普段の不愛想からは信じられないほど丁寧に教えてくれるのだった。北斗はそれを聞くのが好きだった。デビューしたばかりの新人も、今ではすべての作品が絶版の作家のものもあった。内容については辛辣な、ほとんど罵倒と言ってもいいものになることもあったが、普段は極めて物事の悪い面をみようとしているのに対して、小説に対してはまずいい面を見ようとしているようだった。罵倒しながらも、何か琴線に触れる長所があればそこは褒めて、どう活かすべきか自分なりの見解まで聞かせてくれた。北斗はそれを聞くのが好きだったし、褒められている本をどうしても読みたくなって買ったりもした。出版されてからそう時間は経っていないのに大きな書店にも売っていなくて、わざわざ古本で買ったこともある。そうやって手に入れた本を大学で読んでいるとカバーを掛けていたのに、

 新坂里美だ! 好きなの?

 と勧めた当の本人に嬉しそうに聞かれたりした。表紙ではなくちらっと見えた本文で判別したらしい。自分の本は読んでほしくないのに好きな本は共有したがる。だが鏡花の語りにあった情熱を、本の中には見つけることができないことに北斗はすぐに気付いた。その情熱は鏡花自身のものだった。北斗は、それを好んだ。尊いものだと思った。

 鏡花は北斗からすれば高価な鞄ばかり使っていたが、それも常に入っている何冊かの本の重みですぐにだめにしてしまっていた。

 本だけ入れる安い鞄買ったら?

 ほんの一カ月で角が崩れてきた革の鞄を嘆く鏡花に北斗が提案すると、鏡花は顔を顰めた。

 やだ。美意識に反するもん。

 そして北斗に重たい鞄を当たり前のように預けた。財布もスマートフォンも鞄に入っている。他人を必要以上に警戒するのにそういう無防備なところが、北斗をいつもなんとも言えない気分にした。不安、哀れみ、庇護欲、多少の苛立ち。それから、自分でも気付かないようにできる程度の、優越感。

 鏡花は人との適切な距離の取り方というものをまったく知らない人間だった。だが、そう思っている北斗も似たようなものだった。他者から与えられる優越感というものが、一体どれほど自分の目を曇らせるのか、まったくわかっていなかった。

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