第4話

 握りしめた手に、汗をかいていた。こっそりとショートパンツで拭く。

「緊張しているの?」

「いつもしてます」

「そっけないねあなたは。いつも」

 それはてめーがじじいだからだよ。と、いつもの習慣で頭のなかだけで反論して、別に口に出してもいいんだなと思った。もうどうなってもいいから。でも黙っておく。その沈黙は波風を立てたくないという消極的保身ではなくて、これから起こす物事を警戒されることなく円滑に進めたいという積極的保身だった。勇気が出てくる。

 居間に案内されて、椅子に座る。古びた木のテーブルと、雰囲気はあっているけどばらばらの椅子。全部アンティークなのかもしれない。趣味がいいので鳥井さんが選んだんだろう。私は薔薇の彫りのある椅子に座った。普段なら彫りを指でなぞったりしてしまうけど、やめる。

「何か飲む?」

「あ、いいです自分のがあるんで」

 私は水のペットボトルをリュックの脇から取った。

「ああそう。でも自分の分を淹れようかな。珈琲とかはね、自分で淹れるんだよ」

 だからなんなんだよ珈琲自分で淹れるなんてすごーいとでも言われたいのか? 三歳児か? 三歳児珈琲飲まないけど。と思いつつ無言でいると、じじいはキッチンに引っ込んでいった。ここはたいした料理をする気がないのか、キッチンは見た感じわりと小さい。お昼ごはんを作るのに不便はしないだろうけど、人を呼んだパーティーをするにはかなり工夫がいりそうだった。どの程度の人間がここに出入りするんだろう。

 私は居間を見回す。全体的にこぢんまりとしていてあたたかみがあるけれど野暮ったくなくて、センスがいい。鳥井さんはここを結構きちんと管理しているのだろう。壁には名前を憶えていないけれど去年展示会をやっていたアメリカの画家の風景画。その下に、灰皿があった。ガラスの、重たげな灰皿。こういうのって値が張るんだろうか。

「どうしたの?」

「いえ、先生って喫煙者じゃないですよね」

「ああ、うん。来客用だよ」

「そうなんですか」

 手に取ってみる。重たい。これでいいや。

「君も吸わないよね?」

「いえ、凶器にいいかと思って」

「ははは。みんな考えることは同じだね」

 適当に言った冗談でも誰かとかぶっていると言われるのは腹が立つほうだけれど、今回ばかりはそうでもなかった。冗談ではなかったので。これにしよう。そう決めて、挨拶のように指先で撫でた。使われない高価な調度品に命を与えてやる。命を奪う役目。あなたを凶器にしてあげる。どうせあのじじいは灰皿にも嫌われてる。そう思うと、なんだか心強くなってきた。この灰皿は、私の味方だ。手に取ったままテーブルに運ぶ。

「そんなに気に入った? お菓子食べてもいいよ」

「こういう灰皿あんまり見る機会ないですからね」

「そうかもね。昔はこういうのどこの応接間にも置いてあったけど。みんな煙草はもう喫煙所でしょ」

 一点ものっぽい大ぶりのマグカップに珈琲と、クッキーの箱を持ってきた。

「好きに食べてね」

 私は黙ってペットボトルの水を飲んだ。

「最近はどう? 順調そうに見えるね」

「売上は順調です。いつものことですけど」

「いつものことですけど、かあ。言いたいねえ」

「売れるもの書けばいいだけですよ」

「はっはっは。あーすごいね。あなた、恨まれてるでしょう」

 唾が飛んだ。うざい。

「天才が払うべき税金ですね」

「はー……いやー……立派になったねえ……」

「そんなに変わってませんよ」

「可愛かったじゃない。赤ちゃんみたいだったよ」

「誰よりも売れる小説を書ける赤ちゃんです。今も同じですよ」

「はー……つまり、君の作家としてのプライドは売れることにあるの?」

「ただの事実です。でも売れないエンタメってなんなんですか? とは思いますけどね。私たちが相手にするべきはまず大衆心理なんじゃないですか? それが嫌なら普通に純文学とかやってればいいと思いますけど」

「推理小説のトリックの前例を知っているからこそ面白い小説ってあるでしょう。ああいうものにエンタメ小説としての価値はないと?」

 私は首を振った。

「価値っていうか……マニアックな小説があって、それを読んでいることを前提とした小説を書いたとして、それが売れる最大のポテンシャルって前例になってる小説の部数より低いですよね。商業的にそれが成り立つと思うのはちょっと馬鹿げてませんか? サークル内の同人誌でやりゃいいと思いますね」

「ははあ……なるほどねえ……」

「別に売れるかどうかで小説の価値が決まるとは思いませんよ。ふとしたことで過去の小説が爆発的に売れるってこともありますし、売れるか売れないかって結局運のほうが大きいでしょう。でも私たちは芸術家じゃなくて一応出版っていうビジネスの一端を担ってて、売れたいとは思ってるのが大半なんじゃないですか? 売れないのは目的を達してないってことでしょう。まずそれは認めるべきだと思いますけどね。売れたいって感情は売れなきゃ満たされませんよ。売れてる若い作家を馬鹿にしたところでどうにもなりません」

「面白い講義だね」

「売れてるだけあるでしょう」

「ははは」

 じじいは明らかに苛立っていた。苛立っていたが、私にむかついてるじじいの大半が、それを口には出さない。こんないかにも小娘という外見の相手に怒ることが、ある程度以上の年齢の男には難しいのだった。

「でもね」

 体勢を立て直したじじいが舌なめずりをする。怒っていると、口には出せない。だから教え諭そうとする。もっと陰湿なやり方を考える。

「どんなに才能があっても、やっぱりどこかで一度は行き詰るでしょう。順調にやってきたならなおさらね。続けていくのは大変なことだよ」

「まあ……ほとんどの作家が続けた分ぐらいならもう稼いでしまいましたからね。確かに続けていくことに困難を感じてはいます。もう七年です。成人してからデビューした人にはどうかわかりませんけど十三歳からは大した時間ですよ」

 ここまで言う予定はなかったけれど、売られた喧嘩は買わなくてはいけない。ここで買ったところでなんの意味もないけれど。

「そうやって意地張っても損するのはあなたでしょう? 今は可愛いお顔してるから僕みたいなおじさんもはいはいって言うこと聞いちゃうけど、年は取るんだから」

 気色悪い説教だ。

「ま、若いときは多少生意気でもいいけどね。今度は何を書くつもりなの? プロットを見せてくれるって話だったけど」

 私はうなずいた。ここのところ、うまく書けていないのは、悔しいが事実だった。今までとおなじ方向性なら、まだ書ける。そう思う。でももうそういうものを書きたくない気がする。もっと違うものを書きたい。そんなことをちらっとパーティーで漏らすと、早坂雄一郎が食いついてきた。漠然としたトリックにもならないようなアイディアを話すと小説にするアドバイスをしてきて、実際、それは的外れではなかった。確かにその方向ならいけるかもしれない。すっと頭の中に道筋ができる感覚。もやもやとしたアイディアが物語になる気配がようやく出てきた。これは、今まで書いてきた軽めのミステリではなくて、ミステリだがもっと重い読み物だ。多分読者層も異なる。編集者はじめとする出版社は当然私には出せば稼げるシリーズものか、新しいものだとしてもこれまでと似た傾向のシリーズになるものを期待している。違う系統のものに挑戦するのはもっと先だと思われている。まだ二十歳なのだ。転身するには早い。そう思われているし、他人のことなら私もそう思ったかもしれない。ラディゲが「肉体の悪魔」を書いたときだって十九歳なのだ。

 それでも私はもう、七年やっているのだ。小学生のときに書いたものが本になり、成人している。小学生だったのだ。いつまでも同じことは、やれないだろう。読者が同じことを望むのは、わかる。私はそれだけのものを書いた。いつまでもこれを読んでいたい、この世界がいつまでも続いてほしいというものを。でも十代の前半でそこまでやる人間が、いつまでもそこにいてくれると考えるのはただの馬鹿だろう。私は先に進む。そうするべきだ。私は突出しているから。

 でも、突出しているということは、なんの前例もないということだった。なんのロールモデルもない。自分とまるで違う人間から、似ている部分を切り取って、つぎはぎのロールモデルを作るしかない。そしてそのつぎはぎの化け物は、たいていの場合、私を裏切る。十三歳のときからずっと、裏切られ続けていた。誰も、切り取った一部分でさえ、私の望む姿ではいてくれない。たいしたことは望んでいない。聖人君子であることも、天才であることも、私は望んではいなかった。それなのに、みな裏切る。

 早坂雄一郎もだ。作家になったと誇らしかった、十三歳の私の頭を撫でた男。

 私は黙ってリュックサックから紙束を取り出した。早坂が目を輝かせて、でも喜びを悟らせないようにしているのがわかる。

「プロットです。とりあえず印刷してきました」

「見させてもらうよ」

「はい」

 神妙な顔で頷く。うーん、と早坂が唸っている。私は立ち上がる。灰皿を持ったまま。重い。その重さに励まされる。お前は私の味方。この世界でたった一つだけ、お前だけが私の味方。私の共犯者。

「うーん。なるほど……なるほどね……」

「はい」

 私は早坂の後ろに回り込む。紙を同じ方向から覗くため、というふりをして。早坂はあっさり納得し、私に背中をさらす。私の接近に、創作への没頭以外の意味を読みとっている。汚い。憎い。

「こういう描写ね、あなたにはできるかな」

 な、の声に、微妙なほのめかしがある。指さした先には、女性主人公が熱烈な恋に落ちるシーンが書かれていた。ここがうまく描写できなければ、すべてが安っぽくなる。そういう部分だった。私は恋愛に主軸を置いたものを、書いたことがない。

「今までみたいな動きが多い話ならね、キャラクターの心情はそれほど重要じゃなかったけど、こういう話はね、やっぱり経験してないと書けないからね」

「経験してないと」

 私は声をひそめて繰り返した。私の声のニュアンスに、肯定を感じて、早坂は勢いづく。私は顔に出さずに嘲る。こんな小娘の媚態にあっさりと騙されるくせに、経験してないと書けないとか、なんだ? じじいは愚か。馬鹿ばっかりだ。

 でも馬鹿じゃない読者もいる。経験してないことを、見抜く相手もきっといる。だったら、経験したかった。すべてを経験したかった。

「そう。経験してないと、やっぱりわかっちゃうからね。あなたの処女作も、背伸びしてるのが可愛かったけど、やっぱりねえ、わかっちゃうよね。ああいうシーンは」

 私のデビュー作にも、セックスシーンがあった。ただ登場人物に肉体関係があって、それがミスリードになると思ったから書いたまでだ。セックスを書きたいとか、セックスしたいとか、そういうことは全然思っていなかった。小学生の私は、ただ、必要だからそれを書いたのだ。

「そうですか」

「うん。今すぐにとは言わないけど、今日一日ゆっくりして、それから二人でね、うん」

「なるほど」

「うん……うん。ねえ。面白いと思うよ。ちゃんと書けたらの話だけど。これで大人の作家の仲間入りだね。うん。売れればいいって、本当はあなたも思ってるわけじゃないんでしょ? ちゃんと経験に裏打ちされた描写って、自信がないと書けないから。大丈夫だよ。ちゃんとできる。誰にも言わないから、」

 不安なことでもあるのか、早坂はぺらぺらと話続け、加齢でしまりがなくなった口元から唾が飛んでプロットの紙を汚した。もう耐えられない。汚い。死ね。私は黙って手を振り上げ、灰皿をその頭に振り下ろした。

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