第3話


 あの頃私は二十歳で、今よりも少しばかり素直で、今よりも愚かで、今よりも可愛かった。一つ一つならどうでもいいが、組み合わせとしては最悪だった。

 自分がどうやら可愛らしいということにようやく気付いたころだった。人目にびくびくしながらも化粧やファッションを少しずつ学び、楽しみ始めていた。装った結果の見た目がどう、というより、装うということそのものが軽薄で不似合いで恥ずかしい気がする。そういう屈託を、ようやく解消できるようになった。二十歳の夏。何枚ものワンピースを買って、それを一人暮らしのマンションのクローゼットにずらっと並べて、毎日違うアイシャドウを使った。お金ならいくらでもあったし、いくらでもあるお金をようやく自分で使えるようになった。マンションも、私自身の持ち物だった。

 軽井沢に行くのは初めてだった。色々考えて、安物のリュックに荷物を詰め、髪を編み上げてキャップを被り、サングラスをした。真っ赤なリップを塗る。服装はオレンジのカットソーに白いショートパンツとグレーのインヒールのスニーカー。オレンジと黄色の付け爪。全部普段の私なら選ばない服装だった。こんなに派手な格好をして、と思うが、私自身が地味なので、ごく普通の女の子にしか見えない。やや低めの身長。痩せても太ってもいない体形。小さな胸と肉の薄い尻。すとんとした脚。目立つところが何もない。私が可愛いことを否定する人間はそんなにいないだろうが、どんな格好をしていてもまるで目を引かない。そう。それが、私だった。いいことなのかはわからない。胸に多めにパッドを詰めて、インヒールで身長をごまかす。よく見れば私だと気づかれるだろうが、よく見なければわからない。

 カードは使えないので現金を多めに入れておく。日焼け防止用の手袋があることをしっかり確認する。よし。出かける。

 東京駅でおにぎりを買って、新幹線の中で食べた。混んでいるかと心配したけれど、それほどでもなかった。自由席で、二人掛けの席を一人で使うことができた。新幹線で一時間。なんとなく、スマホの電源は切っていた。本を読もうとする。未解決事件の本。なんの本を読んでいても、推理作家になってからは何も言われなくなったのはよかった。私は小学生のときから血なまぐさい本が好きだった。推理作家には解決しない謎に関心を持たない人間も多いだろうが、私はどちらも好きだ。解決する謎。しない謎。だいたい、現実には謎なんてものはないのだ。謎は見ている人間が勝手に見出す。本当は、ただ現実があるだけだ。

 解決させない。

 あっという間に濃い緑へと色を変える景色を見て、決意する。私は殺す。絶対に解決させない。私がやったとは悟らせない。私にはできる。殺すことも、逃げおおせることも。

 考えただけで息が切れた。深呼吸をする。早坂雄一郎の顔を思い出す。初めて会った時のこと。十三歳の私はお気に入りのトレーナーにデニムパンツという格好で、実際の年齢よりも多分、さらに幼く見えた。小学校の高学年によく間違えられた。

 かわいいね。

 早坂雄一郎は私を見て、三歳児でも相手にしてるかのような言い方をすると、頭を撫でた。私は、びっくりした。周りの人間はみんな笑っていた。頭を撫でたことにも、私がびっくりしたことにも。

 屈辱を覚えたのは、家に帰ってからだった。

 殺してやる。

 そう呟いて、ノートにも書いた。授業に使うためにまとめて買ってもらったノートのうち一冊を、こっそり小説用に使っていた。メモとか、日記とか、殺意とか、そういうことを書いていた。殺してやる。殺してやる。殺してやる。何度か書いて、自分にも判別しがたい文字を見て少しだけうれしくなった。

 そのうち殺してやる。

 あのときは屈辱と気色悪さを感じても、相手の意図がよくわからなかった。今ならわかる。あれはマウンティングだった。早坂雄一郎は、私を恐れていた。私の才能。それから、私の若さ。幼さ。私はそれまで誰も見たことのない何かだった。本格ミステリを書くことのできる十三歳の可愛いおとなしい女の子。そんなものがどう育つのかなんて、誰にも予想できるわけがない。早坂雄一郎は、私の頭に手を置いて、手懐けようとした。そうできると思ったのか? 私は猛獣には見えなかっただろうし、もちろん猛獣じゃない。もっと性質の悪い何かだ。すぐ激高し、執念深く、知恵があり、可愛らしく、金もある。

 捕まるわけがない。

 そう思う。そう思った時、胸に湧き上がるのは恐怖ではなく、高揚感だった。やってみせる。誰にも知られずに。そして、誰もが読めるかたちに加工して、そのへんのしょぼいじじいの生涯賃金より稼いでやる。指が震える。もうすぐ軽井沢につく。

 迎えに行こうかと言っていた早坂を断ったので、タクシーを拾って近くまで行く。話しかけられないようにイヤホンをして、電源の入っていないスマホをいじっていた。下りてから十分ほど歩く。地図は頭に入れていたし、別荘の外観はネットのインタビュー記事で知っていた。小説関係のサイトではなく、建築会社のコラムだった。おおまかな間取りと、書斎の写真も載っていた。使いやすそうな大きなデスクと高いチェア。私も欲しい。私は小学生のときに買ってもらった学習机をいまだに使っていた。私の親はそういうものに金を掛けたがるので多分いいものなんだと思うが、小学生の時につけた彫刻刀の跡がいつまでも残っている。買い替えないのは貧乏性とかではなく、単にまともなデスクとチェアには合うサイズがなかったのだ。一つも。全部大きすぎた。社会は150センチちょっとの人間をビジネスの主体とみなしていない。そのうちオーダーで作ろうと思う。くそったれ。金が惜しいわけじゃない。じじいがデパートに行くだけでたやすく手に入るような快適な環境を手に入れるのに、余計な手間がかかるのが腹が立つ。デパートの店員は、私に合わない机とチェアを買うように言ったので「は?」と黙らせた。まじで全員死ねばいいのに。

 タクシーに金を払って、少し迷って釣りを受け取った。釣りを取っておかせるほうが目立つだろう。小さく頭を下げて下りる。白髪頭の運転手はぼんやりした表情のまま去っていった。さくさく歩く。夏で、よく晴れていて、軽井沢は快適だった。夏の風が心地いい、という感覚が久しぶりだ。歩いていても空気が違うので東京とは疲れ方が違う。息がしやすい。別荘地というものに初めて来たけれど、私もそのうちどこかに別荘を買ってみてもいいかもしれない。小さな一人用の別荘。執筆用にこもるための。このあたり治安はどうなんだろう。人殺しが治安を心配している。

 早坂邸はすぐに見つかった。明るいオレンジの屋根。写真では派手に見えたけれど、晴れたこの空気にはなじんでいて悪くない。そう大きくはないけれど隣同士とは余裕がある。確認してほっとする。

 時間を確認してチャイムを鳴らすと、すぐに早坂は出てきた。赤っぽいチェックの長袖のシャツにベージュのチノパン。会うたびに髪が減っているような気がする。私を見て、意外そうにたれ目を見開いた。

「誰かと思った」

「一張羅です」

「若いっていいねえ」

 気色悪。げんなりする。同時に、今、このじじいの家で、このじじいと二人きりなんだ、ということに、生理的な恐怖を覚える。土足のままあがれるのがまだましだろうか。男のテリトリーで二人きり。理屈ではない居心地の悪さ。相手は腹のたるんだひょろいじじいにも関わらず。これが弱い生き物としての本能なのか、女性としての私が社会的に刷り込まれた恐怖なのか判断がつかない。この恐怖、克服したい。見ないふりをするとか、相手を「信じる」ことによって、ではなく。そんなもんは敗北を常態化しているだけだ。私は勝ちたいのだ。私自身が捕食者になる。恐怖を与える側になる。

 私が殺す。殺してやる。

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