第27話 十八歳 二人だけの世界

「二日もフローラに会えなくて、気がおかしくなりそうだったよ」

 ある日の夜。隣国のパーティーに出席するクラリス様の同伴で、数日家を空けていたお兄様が、帰ってきて早々地下室へやってきて、わたしをきつく抱きしめてくる。


「お兄様ったら、たった二日で大袈裟だわ」

 本当は、わたしだってお兄様が隣にいない夜を寂しいと思っていたのだけれど、つい強がりを言ってしまった。


 正式に婚約が決まってからというもの、クラリス様はお兄様をパートナーにして、あちこちのパーティーに連れまわしている。


 遠出をするときなんかは、数日お兄様に会えなくて……そのたびに、わたしの心には仄暗くドロドロとした感情が宿るの。

 わたしがこの狭い地下室にいる時間、ずっとあの人はお兄様を独占しているなんて。


「オレはいつだってフローラが目の届く範囲に居てくれないと不安なのに、フローラは素っ気ないな」

 寂しそうに少し拗ねた声を出すお兄様に「わたしだって本当は寂しかった」とキスをして素直に言うと、彼は機嫌が直ったように、うっとりと目を細め微笑んだ。


「いい子にしてた?」

 言いながらお兄様はわたしの服を脱がせ、素肌に指を滑らせてくる。

 性急な行動に顔を赤くしたわたしには気付かずに、彼は真面目な顔でわたしの肌に見覚えのない傷やアザがないかチェックを始める。


「この指先の傷、どうしたの?」

「ど、読書をしていて紙で切ったの……」

「この足のアザは?」

「本棚にぶつけてしまったの」

「気をつけて。二日で二ヵ所もケガをするなんて、フローラは相変わらずドジだな」


 まじまじと身体を見られるのは、まだ慣れないし恥ずかしい。

 けれど、心配性のお兄様がこれで安心してくれるならと、わたしは羞恥に耐えそれを受け入れた。


 彼は、わたしのことならなんでも把握していたいのだと言う。


 身体検査を終え、満足そうに微笑む彼を見ると愛しい気持ちが湧いてくる。

 こんなにもわたしを想ってくれる人は他にいない。世界中探してもきっとお兄様だけだわ。


 そう……思い返せば、今までの人生でこんなにもわたしに思いを向けてくれる人はいなかった。


「今日は朝までずっと一緒にいられるよ」

「嬉しい」

 キスの嵐を降らせながらお兄様がわたしを優しくベッドに押し倒す。


 お兄様と体を重ね合わせるこの一時だけが、寂しさで折れそうなわたしの心を唯一別の感情で満たしてくれる。

 快楽だけじゃない。お兄様の温もりや熱の孕んだ眼差しが、わたしに向けてくれるその愛が、わたしに幸せをくれるの。


 でも……その反動のように、会えない時間は、孤独で押しつぶされてしまいそう。


 本当に、お兄様はずっと一緒に居てくれる?

 わたしを置いていなくならない?


 クラリス様はきっと愛人の存在を許さない。

 この部屋が、この関係が知られてしまったら、わたしたちは引き離されてしまうに違いないわ。


 わたしが大切に思った人たちは、みんな、わたしを置いて遠くに行ってしまうから……。


 わたしは、いつかその日が来るのではないかと頭に過るたび、恐怖で息が詰まる思いがした。






「――っ、もう朝……」


 ポツリと呟いて、気怠い気持ちのまま毛布の中で丸まりながら思う。

 早く夜にならないかなって。


 地下室で暮らすようになって、数ヶ月が過ぎていた。

 今では毎日、夜が待ち遠しい。お兄様を独占できる一時が。

 昼間もたまに様子を見に来てくれるけれど、すぐにこの部屋を出ていってしまうから。




「……お兄様、今日は、いつもより会いに来てくれるのが遅いわ」

 夜になり地下室にやってきたお兄様は、不満げなわたしの顔を見て「ごめんね」と笑った。


「今日は、クラリスの相手をしていて」

「…………」

 その名を聞いて、思わず眉をしかめてしまう。


 最近は、遠出をすることもなくなりお兄様が地下室で過ごしてくれる日が増えていたから、少し不思議に思っていたのだけれど。やっぱりクラリス様は、お兄様を夜会に連れ回すのをやめたわけではないようだ。


「そんな顔しないで、フローラ。オレが愛しているのはキミだけだよ」

 そう言いながらキスをされても、わたしの中のモヤモヤは晴れない。

 今はそうでも、結婚すれば情が湧いてくるだろう……それがいつか愛にならない保証なんてない。


 そんなの嫌よ……わたしだけを見ていてほしい。

 わたしだけのお兄様でいてほしい。


「フローラ、なにを考えているの?」

 キスの途中で気もそぞろなわたしに気付いたお兄様が、顔を覗き込んでくる。

 わたしは自分の中に渦巻く感情を知られたくなくて「なんでもないわ」と言葉を濁し、キスの続きをねだった。


 この時間だけは、お兄様の愛を独り占めできているって、全身で感じられるから。


 けど……この優しい指先で唇で、お兄様はいつかクラリス様に触れるのかと思うと、今日は最後まで気分が晴れることはなかった。






「明日は、もっと早く会いに来てくれる?」

 情事の後、月の光が差し込む地下室のベッドの上で、お兄様に頭を撫でられながらそう聞くと、お兄様は少し困った顔をする。


「ごめんね、明日の夜は大事な仕事があるんだ」

 日付が変わるまでには帰ってくるからと、お兄様はわたしの額にキスを落とすけれど……


「それって、またクラリス様と?」

 わたしが寄せた眉間のしわを指で突きながら「そんな顔も可愛いよ」とお兄様は笑う。

 肯定も否定もしないお兄様の態度に不満が募った。


 わたしは、いったいいつまで日の当たらない薄暗い部屋で、ただお兄様が来てくれるのを待ち続けなければならないの?


 きっと、クラリス様がいる限り永遠に、この生活は続くのだ。


「フローラ、どうしたの?」

 人の気も知らないで……。わたしの中に渦巻くドロドロとした醜い感情が、もうどうすることもできず涙と一緒に溢れ出す。


「ねえ、お兄様……わたしが最近、どんなことを考えているのか知ってる?」

 お兄様が驚いた顔をしてわたしの顔を見ている。

 それでも、わたしの言葉は止まらなかった。


「あなたを独り占めしたい。誰にも渡したくない。そのために、どうしたらいいかって、一人でいる間ずっと、そんなことばかり考えているのよ」


 わたしにはお兄様だけなのに、お兄様にはわたしとは別の世界があるみたいで。それがたまらなく嫌なの。不安になる。


 こんな気持ち……生まれて初めてで、どうしたらいいのか分からない。

 これは愛なの?

 こんな感情を愛と呼べるの?


「クラリス様さえいなくなってくれればって、そうすればお兄様を独り占めできるのにって……そんな自分が嫌だし、胸が苦しいっ」

 これは、わたしの中だけに止めておきたかった気持ちなのに。

 こんなことを思っているなんて知られたら、お兄様に嫌われてしまう。

 けれど、取り消すことはもうできない。


「……フローラ」

 わたしに幻滅するお兄様の顔を見るのが怖くて、わたしは固く目を閉じ耳を塞いだ。


「キミって子は……最高だよ、フローラ」


 だから、お兄様がなんと呟いたのかは分からなかったけれど、優しいキスを瞼に額に頬に何度も贈られ、恐る恐る塞いでいた耳と目を開けると……


「好きだよ、愛してる、可愛いフローラ」

 恍惚とした表情をして、わたしに愛を囁くお兄様の姿がそこにあった。

「っ……こんなわたしが、可愛い? こんなにもドロドロした醜い気持ちを持っているわたしなのに?」


「醜い? どこが?」

 お兄様は、わたしの言うことが本気で分からないと言いたげに首をかしげる。


「こんなにも、オレの事を想い求めていてくれたなんて、嬉しいに決まってる。俺も同じ気持ちだよ」

「お兄様も?」

「ああ、キミの瞳にオレ以外の存在を映してほしくない、可愛いフローラを誰にも見せたくない。いつだってフローラを独占していたいと思っていたよ。昔から、ずっと」


 大好きな人から同じ分の愛を貰えることが、こんなに心満たされることだったなんて。

 わたしは、生まれてはじめての喜びで震えた。


「世界に二人だけになればいいのに。そうすれば、お兄様の願いもわたしの願いも叶うわ」

「そうだね」


 そう思うと、いつだってわたしたちしかいないこの地下室が実は理想郷なのではないかと思えた。ここは、クラリス様さえ立ち入れない二人だけの世界だから。


「さあ、もう遅い。今日は眠ろう」


 お兄様は、わたしの額におやすみのキスをすると、わたしが眠るまで優しく頭を撫でてくれる。

 そうしてもらえると、わたしはいつも安心して眠くなる。


「もう、お兄様以外望んだりしないから。だからあなただけは、ずっと傍にいて……離れないで、ね……」

 うわ言のように呟いたわたしの言葉に、お兄様は「大丈夫」と返してくれる。


「オレたちは、ずっと一緒だよ。だから、安心しておやすみ」


 わたしはいつの間にか眠り、お兄様の腕の中で久々に幸せな夢をみた。

 小さなチャペルで二人だけの結婚式を挙げる夢を。




「なにも心配いらないよ。オレたちを引き裂こうとするやつらは、みんな消してあげるから。、ね」


 幸せなこの日々が、永遠に続くように。

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