第20話 十七歳 二人の距離感

 ――ねえ、フローラ……キスして?


 お兄様にそう言われ気付いたけれど、わたしからお休みのキスをしたことは一度もなかったかもしれない。

 わたしはベッドに座るお兄様の正面に立ち、前髪を横に流すと露わになったその額にちゅっと短く口付ける。


「おやすみなさい、お兄様」

「……それだけ?」

「え?」

「……もういい。おやすみ」

 言われた通りにキスをしたのに、お兄様の表情はなぜか不満そうだった。






「昨日はありがとう、苺タルトとっても美味しかったわ」

 週明けの昼休みわたしとアルガスはいつものように中庭の隅っこでお昼を食べた。

「だろ、店自慢のタルトだからな」

「またお兄様と一緒に行くわね」


「ああ……」

「どうしたの?」

「いや、別に。ただ、上手く言えねーけど……距離感が近いんだな。お前ら兄妹って」

「そう? 兄妹だもの。距離感が近いのは当たり前じゃない?」

「そういうんじゃなくて、なんか雰囲気が……」


 わたしが首を傾げると、アルガスは「なんでもない」と話題を切り替えた。


「噂には聞いてたけど、絶世の美男子ってやつだな、お前の兄貴。店中の女性客が全員釘付けだったぞ」

 アルガスはわたしに気を使っているのか、どんな噂かあえて口にしないでくれたようだけど、彼が思い浮かべたのであろう数々の噂は、わたしも面白おかしく友人たちに聞かされたことがる。


 お兄様に一目惚れして婚約者を捨てた令嬢が何人もいるとか、マダムさえ夢中にさせるとか、あとこの学園の理事長の妻を誑かしたとか……。

 わたしが知っている家族の前でのお兄様は、浮いた話もなく女ったらしの片鱗もないのに、世間での評判はとんだ色男だ。


 もう結婚してもいい歳なのに結婚どころか婚約者も作らない所が余計に誤解を招いているのかもしれない。

 事件により傾きかけたローレンソン家を支えるため頑張ってくれているお兄様に、女遊びをする暇なんてないというのに。


「けど、いつまでも未婚だった理由は、なんとなくわかった気がする」

「え?」

「でも、今回ばかりはまだ断ってないんだろ? 三年の公爵令嬢との婚約話」

「なんのこと?」

 初耳のお話に、思わずわたしは目を丸くして驚いてしまった。


「なんだよ。最近は、学園中その話でもちきりだろ」

「そうなの?」

「情報に疎いやつ」


 そんなこと言われても、友達とも距離を置いて学園での話し相手がアルガスしかいないわたしの耳には入ってきていない。

 というか、お兄様からなにも聞かされていない。そのことの方がショックで、わたしは言葉を詰まらせてしまった。


(お兄様に、結婚の話?)

 いつかそんな日が来ることは分かっていたけれど、なぜだかわたしの心にはぽっかりと穴が開いてしまったような虚無感があり、ちっとも喜べないのはどうしてだろう。


「その話、詳しく聞かせて?」

 アルガスにそう頼んだ時、間が悪く昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴り響いた。

「俺から聞くより、直接兄貴から聞けばいいだろ」


 それはそうなのだけど……。


「お願い……だめ?」

「……だめじゃねーけど。ったく、しかたねーな。今日はバイト休みだし、放課後どっか行くか」

 放課後に友人と寄り道なんて普段しないから、その言葉でわたしの中にあった動揺が少しだけ落ち着いた。


「ええ、行きましょう!」

「言っとくけど、高い店には連れてけないからな」

「高いお店よりアルガスのお気に入りの場所に連れて行って」

 わたしがそう言うと、アルガスは少し照れくさそうな顔をしながら頷いてくれた。






 その日の放課後は、迎えの馬車を断りアルガスと一緒に学園近くの公園へ立ち寄った。

 アルガスに出店で売っていたスイーツを買ってもらい、二人で食べ歩き。お作法の先生に見つかったら卒倒されてしまいそうなことだけれど、とても楽しい時間だった。


 そこで聞いたお兄様の婚約の話はというと、同じ学園の三年生にいる公爵令嬢のクラリス様は昔からお兄様に御執心で、末っ子の彼女を溺愛している公爵様はそんなクラリス様のためにお兄様に縁談を持ちかけているのだとか。


 公爵家の娘が子爵家に嫁ぐなんてこの国では、あまり聞かないことなのだけど、公爵様はお兄様の社交界での振る舞いや仕事ぶりをかって認めてくださっているのだと言う。


 あの事件以来、肩身の狭い思いをしている我が家にとって、公爵家の令嬢を迎え入れその後ろ盾を手に入れられるなんて、願ってもないお話だわ。

 社交界ではご令嬢たちに難攻不落と言われているらしいさすがのお兄様も、今回ばかりは断る理由もなく受け入れたことから噂が一気に広がったそうだ。


 お兄様は、そんな大事な話をどうしてわたしに相談してくれなかったのかしら……


 お兄様の口から聞きたかったような、聞きたくなかったような、上手く説明できない複雑な気持ちのわたしを、アルガスは屋敷の前まで送ってくれた。


「なあ……」

「なあに?」

 アルガスの表情が珍しく少し硬いような気がして、わたしはなにを言われるのかと思わず身構えたのだけど。


「また、こうやって遊びにいこう。俺のバイトが休みの日とか……」

「まあ、もちろんよ! 今日は楽しかったわ、ありがとう。アルガス」

 喜んで頷いたわたしを見て、アルガスの表情も明るくなった。

 

 アルガスにお礼を言って屋敷の中へ入った頃には、すっかり日が暮れていた。




「おかえり、フローラ。随分と遅かったね。心配したよ」

 なぜかずっと玄関で立っていた様子のお兄様にわたしは目を丸くする。


「お兄様! もう帰っていたの? 今日は早かったのね」

 いつもは遅くまで外に出て帰って来ないことが多いお兄様がこんな時間から屋敷に戻って来たことにわたしは、少し驚いたのだけれど。


「……それは、どういう意味?」

「え?」

 顔を上げると仄暗い目をしたお兄様がゆらりとわたしの方へ歩み寄ってくる。


「オレが早く帰ってきたら、なにか不都合なことでもあった?」

「なにを言っているのお兄様。そんなこと、あるわけないじゃない」

 今日は一緒に夕食を食べれるわね、と嬉しくて笑みを零したわたしを見て、少し硬かったお兄様の表情は和らいだ。


「最近は、いつもこんなに帰りが遅かったの?」

 授業はとっくに終わっている時間のはずだけどと言われ、わたしは素直に遊んで帰って来たことを話した。

 やましいことはなにもないけれど、婚約の噂を聞いていたことには触れずに。


「いつもはもっと早いわ。今日はアルガスのお仕事がお休みの日だったから、公園でおしゃべりをして帰って来たのよ」

「……油断も隙もない」

 お兄様がなにかボソッと呟いたようだったけれど、声が小さすぎて聞き取れなかった。


「安心して。アルガスがちゃんと屋敷の前まで送ってくれたから、なにも危ないことはっ」

「安心できるわけないだろ」

 普段穏やかなお兄様の尖った声音に、わたしは驚いて目を丸くした。


「お兄様?」

 そんなわたしにはお構い無しで、お兄様はわたしを逃がさないよう廊下の壁にドンッと手を付いたのだった。

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