脱出



 それから私達はしばらくの間、大人しくエルフに飼われる生活を続けた。緑野さんは逃げ出そうとするのをやめ、私も彼の隣で静かに過ごした。アシャとウニャは夫婦になったらしく、緑野さん曰く「ペットを構う」頻度は激減しているらしい。


 それでも彼らは甲斐甲斐しく私達の世話を焼こうとしたし、自分達は花や果物しか食べないのに、わざわざ川へ行って魚を獲ってきてくれた。そんな風にされると私も少しだけ打ち解けてきて、夜のくつろいだ時間には彼らの耳を撫でてやるようになった。


「はじめからこうしていれば良かったのか……」


 とろとろになって眠り込んだウニャの懐から檻の鍵を取り出し、緑野さんがガックリ項垂れて言う。


「ごめんなさい。私、知ってたのに」

「いや……仕方ないよ」


 緑野さんが大きなため息をついて、そして私を疲れたように見上げた。


「私はここを出ていくけれど、君も一緒でいいのかい? 確か……生きていくのが嫌になったと言っていたけれど」

「……私も行きます」


 一瞬迷ったが、頷いた。元の生活よりはいくらかマシに思えても、軟禁され愛玩されるのが幸福なわけでは決してない。アシャのことは嫌いではないが、好きにもなれなかった。この森を出てたらまたどこか別の森に行こうと思っていることは、しかし言わないでおく。


「まあ、私もそれがいいと思うよ。人間の街に帰れさえすれば、大抵のことはどうにでもなるしね」

「……そうですね」


 この人はきっと絶望なんてしたことがないんだろうなと、少し羨みながら頷く。どうにでもなるって、私も言えたらいいのに。それだけの自信があって、力があって、お金があって……将来に希望を見出せる人間だったら良かったのに。


「じゃあ、行こうか」

「え?」


 と、突然彼がそう言ったので、私はきょとんとしてしまった。


「行こうって、もしかして今すぐ逃げるんですか?」

「勿論。せっかく鍵を手に入れたんだから」

「本当に?」


 彼が当たり前のように頷くのを、呆然と見つめる。緑野さんはそのまま玄関から顔を出し、注意深く周囲を見回して、素早く縄梯子を降り始めた。私は困惑しながらも一応背後に向かって「ありがとうございました」と言ってから後に続く。


「おい」


 と、地面に降り立ったところで声をかけられ、私達は飛び上がった。振り返ると苦々しい顔をしたローシェだ。


「ローシェさん」

「逃げるのか」


 まずい、と思った私はローシェに飛び掛かって、驚いた様子の彼の耳をさっとつまんだ。「はあ!?」とエルフが大きな声を出す。


「大人しくして」


 私はそう言うと、すうっと彼の耳を撫ぜた。これでよし、と思って手を離す。ごん、と頭に拳骨を喰らった。


「痛っ!」

「いつでもどこでもそれでハラットの民が眠りこけると思ったなら、お前は相当な馬鹿だ」


 吐き捨てるようにそう言うローシェに、緑野さんが表情を暗くした。またダメだった、と思っている顔だ。


 しかしローシェは言葉を続けた。


「……が、お前が無礼を詫びるなら協力してやってもいい」

「え?」

「生き物を捕らえて飼うのは好かない。鳥も、猫も、虫も、お前達人間も、動物は動物なりに誇り高く生きているものだ。愛玩されるために生まれてきたわけではないからな」

「ご、ごめんなさい! いきなり耳を撫でて」


 私は慌てて謝った。ローシェはそれに舌打ちをして、不満そうに眉を寄せる。


「え、何か……お詫びの品とか必要ですか」

「もう一度やれ」

「ごめんなさい!」

「違う」

「え?」

「……もう一度耳を撫でろと言っている!!」





 私と緑野さんで片方ずつ、じっくり両耳を撫でられてしまったローシェは確かに眠らなかった。が、かなりとろけた感じの目になっていることに本人は気づいていないらしい。


「あの、これで協力してもらえるんですか?」

「ふん……せいぜい人間なりに自由に生きろ……」

「ありがとうございます」


 自由に生きろ、という言葉が重く私の胸に突き刺さる。けれど、私はどうにか笑みを浮かべて頷いた。しかしローシェは既に背を向けて歩き始めていて、こちらを見ていなかったようだ。


「――ああ、ウニャの奴に散歩を押し付けられた。全く、俺も暇ではないというのに」


 声をかけてくるエルフ達に、だんだん正気に戻ってきたらしいローシェがイライラと嘘を返す。その苛立ち具合が演技なのか本気なのか分からないが、いつも通りの様子にエルフ達も信じきっているようだ。


 流石は森の生き物というべきか、ローシェは木々の間をさりげなく通り抜けながら、するすると通行人の死角へ入ってゆく。そうして細い獣道を通り、しばらく歩くと、だんだんと木々が見覚えのある「普通の日本の里山」めいた様子になってきた。


「ほら、ここを真っ直ぐ行けば人間の集落に出る」


 そう言うなり、ローシェがくるりと踵を返して来た道を戻り始めたので、私達は慌てて彼に何度も礼を言った。


「あの、もしかして帰り道、探してくださったんですか?」

「……アスタリエンがアシャに捕まったのは、俺にも責任があった」

「ありがとうございます! あの、もう一度耳……」

「いらん!!」


 叫ぶように言ってエルフが去ってゆく。美しい金髪が木立の向こうへ消えると、途端に遠くから、幽かに電車の走る音が聞こえてきた。


「……思ったより、優しい人でしたね」

「そうだね……」

「日本の山奥に住む妖怪って、ほら天狗とか鬼とか……古風な着物を着ているイメージがあったんですけど、まさかこんなに西洋のエルフみたいな人達が住んでいるなんて」

「……そもそも、日本の文化に準じた暮らしをしているという想像が、人間の驕りなのかもしれないな」


 緑野さんが言って、「ああ、戻ってきたんだ」と片手で目を覆った。私は正直言ってそこまで嬉しい気分にはなれなかったが、とりあえず「おめでとうございます」と声をかけた。


「うん、ありがとう」

「では……私はここで」

「え?」


 緑野さんが手を下ろし、そして下ろした手で私の腕を掴んだ。


「葵さん。君は何を考えている?」

「別に何も」

「やめておきなさい。今の生活が苦しいなら……その、私と籍を入れればいい!」

「へ?」

「や、その、心配しなくても君一人くらい養える。仕事を辞めて、住まいを引き払って、新しい生活を一から始めてみたら、気持ちも変わるかもしれない。悲しい決断をする前に視野を広げてみなさい。その、何なら帰りに役所へ寄ったっていいんだ」

「緑野さん?」


 私が目を白黒させていると、緑野さんはいつもの大人びた表情を消して、照れた高校生のような顔でそっぽを向いた。


「アスタリエン、君は……私を『いいと思います』と言っただろう。……私も結構好みだよ、君みたいな人。失うのは、とても、辛い」


 沈黙が落ち、それに耐えかねたように緑野さんが私を見た。今まで一度も見せなかった熱が、奥の方に燃えていた。


(……まあ、奥多摩の森でエルフに飼われる生活と比べたら、転職するくらい何でもないかもしれない)


 私はもう少しだけ黙って考え、そして小さな声で呟くように答えた。


「……葵ですよ、翔さん」



〈完〉





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奥多摩の森にはエルフが生息している 綿野 明 @aki_wata

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