第7話 両川の目

 小六は目の前の光景を一生忘れないと思った。


 黒田官兵衛と安国寺恵瓊えけいの事前調整は、信長の死を悟らせぬように、ものすごい速さで進められ、秀吉と毛利首脳の会談となった。

 ここで無事和睦の約定書をかわせば、京への帰還の第一歩を踏み出せる。


 しかしいざ会見に臨み、毛利の両川と呼ばれる吉川元春と小早川隆景を前にすると、この二人を相手に嘘をつき通すことなど、到底無理だと思わせる貫禄を感じた。

 真っ直ぐにどこまでも相手の心を貫き通すような元春の目と、柔らかな視線で相手の心の壁を回避して心の裏を覗き見る隆景の目、この二つが合わさるとどんな者も心の奥に潜めた真実を話してしまいそうになる。


 小六は、自分なら一時ももたずに全てを話してしまうと、今日は何があっても口を開かぬと、心に固く誓った。


 ところが、秀吉は違った。都から来た大国の将軍として、堂々とした態度だ。人一倍小柄で鼠に似た貧相な相貌の男が、今このとき、底知れない深い器を見せつけていた。

 毛利の両川は、秀吉の器のどこかにある真意を探ろうと、器の中を探し回るがあまりにも大きい器のため、ついに探すことを諦めた。


 秀吉が人間として、両川を凌駕した瞬間だった。


 小六は信じられぬ思いで、今目撃した光景を思い出す。

 その場を支配した男は、紛れもなく秀吉なのだが、その男は決して自分の知っている秀吉ではなかった。

 以前の秀吉にも、思わず釣り込まれるような不思議な愛嬌があった。度胸があって誠意もある信頼に足る男だった。たいした武勇もないのに、織田軍で並み居る諸将に肩を並べる侍大将に成れたのも、常に命を張る覚悟と、人間的魅力があればこそだった。


 だが今の秀吉はそういうのとも違う、人を圧倒する迫力を身につけ、対する人はその器がどれだけ大きいのか好奇心が刺激されて、自らどんどんその懐に入っていく、そんな感じがした。


 そしてその器はついに両川さえも収めてしまった。

 両川は秀吉の前に完敗したことを、元春は怒りによって、隆景はより強くなった好奇心で表した。


 隆景は最後に秀吉に尋ねた。

「羽柴殿はこの和議の後、どこに攻めに行かれる?」

 当然の質問だと小六は思った。

 普通なら、次は四国か九州攻めだ。その際には毛利にも軍役がかかる。


「うむ、いったん京に戻って軍を立て直す。毛利との戦は少々骨が折れたからの」


 うまいと小六は思った。

 ごく自然な答弁に思えた。

 こうして和睦は成立し、羽柴軍は無事京に向かって出発した。



「いやあ、毛利の両川、すごい貫禄でしたな」

「そうじゃな。まったくわしの腹の底の底まで見極めようと、すごい圧力をかけて気負ったわ」

 馬を進めながら会談の感想を語る小六に、秀吉は口で言うほど困ったようには見えなかった。


「しかし見事に明智の謀反を隠し覆えた良かった」

 小六が会談を思い出しながら、ホッとした顔を見せる。

 秀吉は小六の顔を見て、不思議そうな顔をした。


「少なくとも小早川は知っていたと思うぞ」

 秀吉は顔色も変えずに、小六が仰天する話を切り出した。


「知っていたって、小早川はあの場で何も言わなかったではないか」

「それは言わないだろう。あの場で毛利にとって大事なことは何だと思う」

 秀吉に訊かれて、小六は考え込んだ。

 あの場で毛利にとって大事なこと、そう言われて考えてみると分からなくなってきた。


 自分ならどうか――。

「やはり、あの場の交渉を少しでも自国に有利な条件でまとめる。例えば和睦の条件に備後を加えるとか。いや待て、わしならば和睦して、油断した敵の背後を討つ。ならば今こそ危ないではないか」

 小六が急に慌て始める。


「まあ、落ち着け。毛利は攻めて来ぬ。攻めてもいいことなど何一つない」

 秀吉の妙に自信たっぷりの言葉に、小六は落ち着きを取り戻した。


「なぜ攻めてこぬと言い切れるのだ」

「当然だろう。毛利は我らとの戦で、上方の戦を知った。圧倒的な銭の力を背負った大兵力、南蛮気道の大部隊、そして卓越した土木技術、これらはすぐに準備しろと言われても無理だ。まず人の数の桁が違うから銭が集まらん。そうなるともう一度攻めて来られても勝てぬ。さすれば何を考える」

「攻められぬように同盟する」


 今度はすぐに答えられた。そのぐらい素直に成れる説得力が、秀吉の言葉にはあった。


「そうじゃろう。だったら話は早い。和睦は多少条件が悪くても、相手が納得する形で行いたい」

「それならば明智の謀反を知っていることを明かして、それでも和睦するのだと恩に着せた方がいいのではないか」


 言われっぱなししは悔しいので、ここぞとばかりに小六は反論する。

 すると秀吉は、困った奴だと言うときの顔で、思いっきり小六を見つめた。


「何じゃ」

「いや、お主は明智の謀反でホントに動揺しているのだと、今分かった」

「どういうことだ」

「普段の小六らしいキレがないからの」

「わしは別にいつもこんなもんじゃ」


 そう言って小六は、ホントにそうだと過去を振り返った。

 知り合って以来、いつも秀吉の頭のさえには驚かされる。

 しかも考えつくだけでなく、こうやっていつも小六に分かるように秀吉は教えてくれた。


「もうちょっと考えてみろ。今はその上方の覇者が誰に成るか分からぬ状態じゃ。わしと光秀が同盟するならともかく、もし光秀がわしに勝ったら、簡単に和睦しては後で光秀に攻められたときに都合が悪い。だから小早川はわしの品定めをしておったのじゃ」


「品定め、はて?」

 小六は会談の様子を思い出して、そのような素振りがあったか振り返ったが、どこにもそれらしい会話は思い当たらない。


「分からぬか。小早川の最後の言葉、あれが品定めの最後の言葉じゃ。わしはあのときごまかさず京に戻ると伝えた。あれで、小早川には京で戦をすると伝えたのじゃ」

「まさか」

 小六は信じられぬ思いがした。

 あの会話にそれほどの意味があったとは。


「実はあのときわしも心が決まった。京に戻ったら、明智と一戦をする」





 光秀は信じられぬ思いで、各地に放った物見の報告を聞いた。

 羽柴秀吉が、毛利と和睦し既に姫路城に入ったというのだ。


「まことに秀吉は姫路城に着いたのか。まだ信長公を討って十日しかたっておらぬぞ。そうか、騎馬のみで歩兵をおいて先に帰ってきたのか。それならばせいぜい五千に満たない兵であろう。まだまだ恐るるに足らん」

「いえ、毛利攻めの全兵力四万でございます」

「四万・・・・・・」


 秀吉のいた備後から姫路まで五十里の道のりだ。十日で来たと言うことは、重い甲冑や武器を持って、一日に平均五里を走破したことになる。一日だけではない。これを何日も続けたのだから驚きでしかなかった。


 軍を走らすためには、食料の調達や宿の調達、さらには便の始末など、考えねばならぬことはたくさんある。

 食料だけでも、兵士一人が1日に三十個のおにぎりを食べたとすると、四万人なら百二十万個のおにぎりを、毎日用意しなければならない。

 よほど優秀な奉行衆がいないと、達成できる数字ではない。


 それだけではない。この雨の多い季節の野営であれば、土の上で寝るわけにも行かず、油紙を貼った蓑で座ったまま寝るしかない。横になってぐっすり眠るわけではないから、翌朝は元気回復なんてありえない話だ。


 日に日に体力を落とす兵を、進ませるには余ほどの士気の高揚が必要だ。

 そうさせた秀吉という男に、光秀は恐れすら感じた。


 既に姫路に来ていると言うことは、摂津まで後、二十里程度だ。

 羽柴との決戦は遅くとも七日の内には始まる段階に来ていた。


 ここに来て光秀は、摂津の国人衆を掌握してなかったことを悔いた。

 武力を持ってしても、制しておくべきだった。

 味方は明智軍三万の他には、本当に味方になるか分からない筒井軍四千だけだ。


 逆に羽柴軍は摂津の国人衆を急襲して、五万の兵になるだろう。

 もしかしたら、伊勢の織田信雄軍八千も参戦してくるかもしれない。



 悩む光秀に声をかけたのは、斎藤利三だった。


「光秀様、もはや一刻の猶予もなりません。まずはわたくしに兵一万をお貸しいただき、先発して高槻城の高山右近を攻めさせてください。右近が敗れれば、他の摂津衆は羽柴につかずに日和見を決め込みます」


 利三は決して気負わず、あくまでも自然体で戦略を語る。


「その後で光秀様は悠々と大軍で京を進発され、尼崎辺りで羽柴軍と雌雄を決せられるのが良いと思います。とにかく秀吉と畿内の諸勢力を分断した上で、こちらが待ち受けられるギリギリの地点を決戦場に選ばれるのが、肝要と存じます」


 利三の作戦に、明智秀満も興奮した面持ちで同意した。

「さすが、利三殿。わたくしもこの案ならば、羽柴に一泡吹かせることも可能かと存じます。後は光秀様のご決断のみです」


 しかし光秀は決断できないでいた。

 本能寺で信長を討ってからというもの、どうにも闘志が燃え上がらないのだ。まるで一生分の闘志を使い切ってしまった感じだ。


「まあ、待て。今利三に言われたことも含め、抜けがないか、今一度一人で検討してみる。高山右近はなかなかの者だ。高槻城攻略に手間取れば、味方の士気も落ちる。それゆえに、短慮は起こすな」


 そう言うと、光秀は奥の部屋に引っ込んでしまった。

 後に残された者たちは、あの剛毅果断な光秀が、ここに来て躊躇が目立つことに不安を覚えた。

 何とも気まずい空気が、諸将の間に漂い始めた。

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