第6話 決断

 比熊山城を囲む陣の一角に、秀吉の築いた陣城じんしろがある。仮城とは思えない完成度の高さは、鳥取城攻めで築かれた陣城と同様に、その当時日本最高の土木技術を駆使されたことを物語っている。


 一片が二十間以上ある方形の曲輪を囲う土塁は、高さが三間、幅も二間あって、土塁の上から大人数の攻撃を可能にしている。さらに土塁の外側には、幅が三間以上ある横堀が囲い、虎口の付近は特に深く掘られている。


 曲輪の中には、早普請とは思えない巨大な城が築かれ、城の守り手を威圧している。

 その城の一室で、秀吉は一人で苦悩していた。


 中国遠征はここまで順調に進み、備前、美作、因幡、伯耆、備中と五カ国を制し、備後に入ってからも、亀山城、三原城と順に攻略し、目の前の比熊山城を落とせば、いよいよ毛利の本拠である吉田郡山城にも手がかかる勢いだ。


 その中で比熊山城を包囲する兵が、立て続けに毛利宛の密使を五人も捕らえた。

 問題は五人の密使が持っていた書状の内容だった。


 書状の差出人は明智光秀、内容は本能寺にて織田信長を討ち、続けて二条城で嫡子信忠も討ったという内容であった。


 当初秀吉は、毛利の策士小早川隆景が仕掛けた、巧妙な攪乱策だと思った。

 隆景は高名な毛利三兄弟の三男で、主として山陽路を受け持つ武将だ。

 山陽路は宇喜多直家を始めとして、謀略と裏切りに溢れた戦域だ。そして隆景は謀将としても超一流の武将である。このぐらい大がかりな仕掛けをしたとしても、不思議ではない。


 しかし悩む秀吉に事実を突きつけた書状が来た。それは小西隆佐からの書状だった。


 隆佐の次男行長は、宇喜多直家に抜擢されて商人から武士に成り、その後秀吉が中国遠征を行うと、直家の使者として秀吉のもとに赴き、そこで気に入られて秀吉の臣となった。


 隆佐は堺出身であるが、主として京都で活動しているから、光秀の謀反にもいち早く気づき、行長の身を心配して知らせてきたわけだ。

 行長は書状は確かに父の字で書かれており、使いの者も小西家の顔馴染みだという。

 もはや光秀の謀反は紛れもない事実だった。


 秀吉は、弟秀長、蜂須賀小六、黒田官兵衛の三人を交えて、今後取るべき行動について相談したが、予想通り秀長と小六には、今何をすべきなのか検討もつかない様子だった。

 秀吉自身が悩む中で、この二人が何かを決められないのも道理ではある。


 それでも、官兵衛だけは違った。

 竹中半兵衛亡き今、秀吉が頼れる軍師は官兵衛をおいて他にいなかった。

 半兵衛は自分の策の中の芸術性を重視していたが、官兵衛は他人からの評価を気にする。その面で官兵衛の策は現実性が高く、世俗的な匂いが漂う。

 官兵衛は秀吉の近くににじり寄り、耳元で囁いた。


「決断するにはお一人に成られた方がよい。ただ一言申し上げるならば、天下取りの好機が巡ってきました」


 秀吉は官兵衛の言葉を疑った。

 主君の死は得てして家臣の好機に変わることは多いが、主君を失った直後で、しかも敵中深く攻め込んだ絶体絶命のときに、天下取りの好機と考える図太さに驚いたのだ。


 それでも秀吉は半兵衛の言葉に従った。

 官兵衛の言葉通り一人になると、不思議と冷静に成れた。

 今、この状況は非情に危険な状態だ。何もせずに毛利との戦を続ければ、やがて光秀の調略により、占領した各国が次々に寝返るのは必定。

 特に山陽路は裏切りが習慣となっている地域だ。

 退路を断たれれば、我が身の滅亡は明らかだ。


 そうなると、毛利と全力で和睦して、京に戻るしかなかった。

 それは必ずしなければならない一手だ。

 まずすることは決まった。

 問題は京に戻ってどう振る舞うかだが、そこはこの時点ではまだ判断つかなかった。


 秀吉は三人が集まる部屋にドカドカと歩いて行った。

「官兵衛はすぐさま毛利と和睦交渉に入れ、毛利の領土は周防、長門、安芸、出雲の五カ国と備後の一分」

 心得たとばかりに官兵衛が退出する。


「秀長は、奉行衆を指示して、京までの最短日数の行軍計画を作れ。急げ」

 秀長も目標が決まれば行動が早い。すぐに部屋から消えた。


「最後に小六、光秀の謀反は絶対に毛利に知られてはならない。すぐに警戒体制を見直し、見張りの兵を三倍増にしろ」

 小六は頼もしげに秀吉を見ながら、静かに部屋を出た。


 一人になって、秀吉は再び思案する。

 京に戻って、光秀を討って織田家の最高権力者となるか、それとも光秀の同盟者になって様子を見るかだ。


 光秀は現在畿内の管領とも言える権力者だ。畿内の兵士を全て動員できれば、その数は十万を超える。三万程度の秀吉軍では、手も足も出ない。

 だからといって、柴田勝家や滝川一益の力を借りては、自身の発言力は弱まってしまう。


 そうなると光秀との同盟も旨みは大きい。柴田や滝川、そして信長の遺児たちが光秀と組むとは思えぬ。これらを打ち破れば、自分にも彼らの領地が転がり込んでくる可能性が高い。


 だが不安材料もある。畿内全てが光秀の直轄地というわけではない。今光秀の与力として従っている細川、高山、池田、筒井などの諸将の何人かが、日和見を決め込む可能性もある。

 そうなると光秀の動員兵力はどんどん縮小され、いい勝負になる可能性も出てくる。


 いずれにしても、まだ結論を急ぐ必要はない。今は和睦を成功させ、兵力を損なうことなく、京へ戻ることが先決だ。

 秀吉は腹を決めた。




 京においた仮本陣に光秀はいた。

 脳裏にはまだ、昨夜の燃え上がる本能寺の姿があった。

 信長に対する謀反を決意したのは、信長の命により毛利に止めを刺すための、夜の行軍をしている最中だった。


 信長は秀吉の甘い部分を信用していない。潰せる大名は徹底的に潰す。直轄地を広げることで、織田の天下はより強固に成るというのが信長の持論だ。

 しかし、秀吉は最後の最後で救うことが多い。だから備前の宇喜多のような大国が、そのまま残ってしまった。確かに秀吉のやり方ならば、侵攻は早い。だが百年後も盤石な支配とはならない。

 だから毛利の止めを刺すのは光秀に任せたかったのだ。


 武田に次いで毛利を滅ぼせば、織田が気にかけるような大国は存在しなくなる。

 光秀は信長の論が正しいと信じていた。

 そして自分は第一の功臣として、張良、陳平の如く史上に名を残す。


 ところが、行軍中に彗星を見た直後から、光秀の心に御しがたい野望が生まれた。

 自身が天下の主に成るために信長を討つ。

 その欲望は川の氾濫のように光秀の心から溢れ出て、進軍先を京に向けさせた。


 強固な信頼関係にあった光秀に任せた畿内、とりわけ京に滞在するとき、信長はいつも僅かな供回りしか連れていない。今までの光秀は信長から、自身の治安維持能力が、それほど高く評価されていることが誇りであった。


 今はそれが信長を討つ絶好の好機としか思えなかった。

 事実、信長が京の定宿である本能寺に連れてきた手勢は百人に過ぎない。

 光秀の二万の軍で襲えば、討ち漏らすことは万が一にもないと思った。


 そして目論み通り、本能寺の包囲に成功し、信長は自ら放った火に包まれ、その生涯を終えた。夜討ちだったため、信長の強力な武気が封じられたことも、成功した要因だった。


 だが、あれほど燃え上がった野望の火が、本能寺の火が消えていくのに合わせて、燻りに変わっていった。そして本能寺の焼け跡を見た後、完全に消滅した。


 今、光秀は、人生で初めての無計画な冒険に駆り出されている。思えば信長の絶大な信頼は、光秀の冷静さと状況分析能力の高さ、そして必ず緻密な計画のもとでしか動かない慎重さによるものだった。


 信長は光秀に絶大な権力を与える担保として、光秀の直轄地を増やすことなく、信長直下の武将たちへの指揮権という形で光秀の軍団を編成した。

 つまり、織田軍の中でも一等抜け出た光秀の軍事力は、信長という後ろ盾がないと成立しないようにしたのだ。


 光秀の分析力からして、それが分からぬはずもなく、むしろそのような仕組みを考え出す信長に信服していた。

 光秀は謀反など毛の先ほども考えたことはなかったのだ――あの彗星を見るまでは。



「報告します。高山右近を始めとする多くの摂津衆は、我が軍への従属を拒否しております」

 摂津衆の説得に送った妻木広忠が、成果を得られず虚しく戻ってきた。

 まあ、利害に敏しい摂津衆は、まだ他の軍団長の様子を窺っているのは間違いない。

 こちらの勢力が強大であると分かれば、いずれ従うだろう。


 問題なのは丹後の細川藤孝の動向だ。藤孝の息子忠興には娘の玉を輿入れさせ、縁戚の間柄である上、藤孝とは若いときから苦楽を共にした同士とも言える仲だ。当然世間は藤孝の動向に注目するだろうし、万が一協力を得られなければ、光秀の謀反の成功は疑わしいと思われる。


 気になるのは、事前に藤孝に何の相談もなく事を起こしたことだ。それほど突然生じた野心であったし、事前活動をする間がないほど強い衝動だった。


 この一点に関しては言い訳のしようがないし、藤孝の心証を害したことは間違いない。それほど突発的であったからこそ、信長の諜報網に探知されなかったし、討つことができたのも事実だ。

 こうなっては心を尽くしてそのことを詫びて、味方についてもらうしかない。

 許してもらう自信はあったし、誠意を見せるために、朝一番に宮津城に腹心の並河易家なみかわやすいえを送った。


 易家ももうすぐ戻って来るはずだ。藤孝の協力を得られれば、すぐに毛利から足利義昭を迎え入れ、自分は副将軍として体制を整備する。さすれば、織田の諸将の中にも、自分と同盟を結ぶ者が現れるに違いない。


「申し上げます。筒井順慶殿、光秀様に御味方するとのことです」

 筒井順慶に送った使者から、予想通りの答えが返ってきた。

 だが順慶はあの松永久秀と大和の覇権を争って、上手に世渡りした者だ。言葉だけでは信用できないから、いずれ人質を取ることになるだろう。


「並河殿が戻られました」

 取り次ぎの者が易家の帰還を告げてきた。

 光秀だけでなく、明智秀満、斎藤利三の両名も身体を乗り出して来た。


「ご苦労であった。して藤孝殿の返事は?」

 光秀は全速力で丹後まで往復した易家を労い、待ち望んだ返事を催促した。


「細川藤孝殿は一子忠興殿に家督を譲られ、剃髪の上『幽斎玄旨ゆうさいげんし』の雅号で隠居されました」

 易家は結論を申さずに、藤孝の隠居話を始めた。

 確かに唐突ではあるが、聞きたい答えはそれではない。


「それで、藤方殿はお味方くださるのか?」

 光秀にしては珍しく、答えを急がせた。

 易家はなぜか言いにくそうな顔をしている。


「幽斎殿はきっぱりと明智方に加勢はできぬとおっしゃいました。信長公のご恩は山より高く海より深いと付け加えられています」


 身を乗り出して聞いていた光秀は、ガックリと頭を垂れた。

 藤孝ならもしかしたら断るのではないかと、どこか予感していた自分がいた。

 なぜなら、藤孝も自分と同じ型の人間だからだ。


 期待が大きい分、反動も大きくなる。

 三沢昌兵衛がしゃがれ声で叫んだ。


「細川藤孝を即刻討つべし」


 これに対し、明智秀満が異を唱える。

「細川よりも先に、摂津衆の討伐が先であろう。京、近江、摂津、大和を固めれば、丹波・丹後は後回しで良い」


 いずれも正論であった。

 いずれにせよ、今の光秀には軍事行動が必要だ。力で制す姿を見せない限り、他大名は光秀を侮り、今後の外交交渉が著しく不利となる。


 家臣団の目は主の結論を待った。


「今一度、藤孝殿に文を書こう」

 この光秀の優柔不断な言葉が、京に急ぐ羽柴軍を大きく利する事になったが、まだ誰もそれに気づくことはなかった。

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