第37話 晩秋は深き眠り

 姉はすぐに入院したが、ほどなくして自宅療養に切り替えられた。それはつまりもう手の施しようがないということなのだろう、と中三の僕でも理解できた。


 身体中が管で繋がった姉がストレッチャーに乗って帰宅した時、僕は胃がひっくり返りそうな気分だった。姉の笑顔はもう見ていられないほど弱々しく、かつてのはじけるような笑顔はすっかりどこかに消えてしまっていた。


 僕は学校から帰るとすぐさま姉のもとに行き容体を確かめる。姉は寝ている時間が多くなったが、起きている時は僕に弱々しいほほ笑みを投げかけてくれる。そしてぽつりぽつりといろいろな話をした。僕は学校生活や野鳥の話なんてあまりしたくなかったが、姉は気にしていないようで聞きたがった。そして具合がよさそうな時は簡単なカードゲームをしたりした。姉はすっかり弱くなっていた。



 晩秋の冷え込みも厳しくなってきたころ、病状はさらに悪化した。酸素マスクをつけ、それでも弱々しく息をする姉が痛々しくて僕は正視に堪えない。心電図の機械が心臓の拍動を知らせる電子音が怖い。いつかこれが止まるのだろうかと想像するだけで僕は叫びだしたくなる。

 

 姉の命はもはや風前の灯火ともしびなのは明らかだった。


 僕は思い立った。


 あの食い意地の張った姉だ、何か美味いものでも食ったらいきなり元気になって復活するのではないか。僕は姉の寝ている床の間へ行った。


 そこには機械につながれかろうじて命をつないでいる姉の姿があった。そのあまりに痛々しい姿に僕は目をそむけたくなる。


「ゆーくん」


 姉が弱々しい笑顔を浮かべる。この笑顔を見るだけで僕は涙が出そうになる。本当はここに来るだけでもつらくて仕方がないのだが、もっとつらい思いをしている姉のことを考えるとそれもできなかった。


「あのさ、姉さん何か食べたいものある?」


「食べたいもの?」


「そう」


蓬楽ほうらく軒のエビワンタンメンとか」


「ごめん、それ、ここに持ってくるまでにのびのびになっちゃうわ。それはなしで」


「じゃあねえ……」


 姉の声が、表情が、全てが力を失ってか弱い。その痛々しさに僕はまた目をそむけたくなった。直視にたえない。あの元気だったころのかっ達な姉は一体どこに行ったのか。僕をいじり倒して喜んでいたころの姉が懐かしい。


「栗ご飯、かな?」


 酸素マスク越しに弱々しく呟く姉。


「うん、うんっ。おふくろに言ってくる」


「ゆーくん」


「ん?」


「ありがと」


 酸素マスクをしても息苦しそうな姉は満面の笑みを乗せてそう言った。僕はなぜだか赤面しながらおふくろのもとに行った。


 早速おふくろが栗ご飯を作ってくれた。


 姉のたっての希望で僕が姉の口に栗ご飯を運ぶ。姉はぽろりぽろりとこぼしながら驚くほどよく食べた。美味しい美味しいと泣きそうな顔で食べる姉に、僕たちは一抹の希望を見たような気がした。

 


 が、僕たちの希望は裏切られ、その二日後、姉の容態はさらに悪化した。この季節には珍しく低く垂れこめた雲が風に流れてうごめくさまは、季節外れの嵐の兆しにみえた。


 僕たち家族三人が見守る中、医師と看護師がつきっきりで姉の容態を診ている。姉はつらそうで弱々しい呼吸を繰り返している。ずっと意識はない。心臓の動きを示す電子音の間隔が時々あいた。そのたびに僕は血の気が引く。


 親父とおふくろが姉の手を握り、俺はその傍らに立ち尽くしていた。電子音と電子音の間隔が次第に長くなっていく。僕は握りこぶしを強く握りしめて姉を見つめた。


 僕だけじゃない、親父とおふくろも悟っていた。もう間もなく彼女の命の火は消える、と。


 ゆっくりと姉のまぶたが薄く開かれる。そのさまよう視線は親父でもおふくろでもない、僕に向けられた。


 姉の目じりが下がって口の端が上がって小さく動く。しかし何を言っているのかはわからない。僕は親父とおふくろを押しのけて姉の手をしっかりと握る。姉はかすかに手を握り返す。僕はぶるぶる震えながら顔を姉の顔に近づけた。


「姉さんっ、姉さんっ、なに? なんだって?」


「ゆー、くん…… ずっ、と…… ず、っと…… あり、がと…… ね。ごめ、んね…… だ――」


 僕の手を握る力が緩み、姉は深い深い眠りの中に落ちていった。

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