第36話 中秋に顛落(てんらく)す

 秋になると姉はまた茜川の柿の木を杖なしで歩いて見に行き、今度は柿の実をちゃんと持ち帰ってきた。

 僕がジャケットのポケットに手を突っ込んでいたら、また姉がそこに冷え切った柔らかな手を滑り込ませてくる。僕はやはりこらえきれずに姉の手をぎゅっと握った。僕たちはずっと手を握ったまま柿の木を前にして突っ立っていた。その時の姉はいつものいたずらっぽい表情に加えて、僕の苦手な切なげな表情が入り混じっていた。

 

 姉がわざとらしく転んだふりをしてしがみついてきた時、僕の胸は甘やかで苦しい気持ちでいっぱいになって動悸が止まらなかった。



 その二日後、僕は学校から帰ると、いつも通り真っ先に姉の様子を見に行った。

今日の姉はベッドで寝ていた。いつもなら僕を待っていてくれたかのように起きていて、つまらない冗談や要望と言う名の命令をふざけた調子で口にするのだけれど、今日はそういったやかましさもなく静かに寝息を立てて寝ていた。少し不安になるほどだ。僕はそのまま静かに部屋を出る。

 久しぶりに静かに予復習が進んで僕はほっと一息をついた。

 僕には親にも言っていない秘密の野心がある。野望がある。今はそれを叶えられるか見当もつかないので、誰にも言ってはいないけど。

 ついでに古文の予習もしようかと思ってテキストを探していた時、机の上のスマホが鳴る。去年の誕生日に買ってもらったスマホだ。

 たぶん姉だな。僕はそう思った。目が覚めてまた僕に話し相手になったり無理難題を言ったりしたいんだろう。少し余裕のできた僕はスマホの画面を見る。


 そこには


「ゆーくんきて」


 とだけあった。


 いつもと違う雰囲気の文章に僕は違和感を覚えたが、特に何も考えずに姉の部屋に行った。


「どしたの?」


 僕はいつも通りの何気ない口調で姉に声をかける。


「ゆーくん」


 こっちを向いた姉の顔は少しだけ紅潮していて不安げだった。


「熱があるみたい。なんか熱いの」


 熱!


 姉が体調を崩す時は必ず熱が出ることを知っていた僕は、姉とは逆に青ざめる。


「熱測った?」


「ううん……」


 きっと自分一人では怖くて測れなかったんだろう。僕は枕元の体温計を姉に渡した。


「これで測って」


「うん……」


 結果が出るまで僕たちは黙って待ち続けた。一分かそこらのことなのに何時間も待っているような気がした。その一方でいつまでも結果が出なければいいのに、とも僕は思った。


 ピピッ


 測定完了を知らせるシグナルが鳴る。姉は腋から取り出した体温計の画面を見ずに僕に手渡した。僕は体温計の画面を見る。


<38.2>


 僕は自分の部屋に急いで戻る。


「あっ、ねえゆーくんどうしたのっ?」


 姉のこんな心細そうな声は聞いたことがない。


 机の上のノートを見る。そこには姉の体温と体調を密かに、そして僕にできる範囲で細かく記してあった。 

 38.2℃、これは一昨年二か月も入院した時の体温と同じだ。あの時はさらなる悪化もありえた非常に重篤な状態だったそうだ。

 僕は寒気がするのに汗がにじみ出ているのを感じた。急いで部屋に戻る。


 姉は一人置いて行かれた不安もあってか、さらに心細そうな表情をしていた。


「どうしたの?」


「足はっ、足は動く姉さん?」


 僕も姉も少し上ずった声だった。


「うん…… それがねあまりよく動かないの……」


「去年のザリガニ釣りの時みたいな?」


「ううん、もっと動かない感じ……」


 始まった。


 姉の死へのカウントダウンが始まったのか……

 

 僕は全身の毛が逆立つような恐怖を感じた。心臓が押しつぶされそうだ。


「とっ、とにかく親父とおふくろには電話をするから、そうしたら病院と連絡を取ってどうするか決まるだろ」


「う、うん、そうだね」


 僕は親父に電話した。すると今日はどういうわけか離れた市の農協経済センターに出ていて、帰るまで何時間かかるかわからない。僕の焦りはますますつのる。


 とりあえず僕は姉を起こして、こういう時のために飲む熱さましを飲ませた。

 相変わらず不安そうな姉を寝かせ、ベッドの頭の近くに僕は座る。

 姉は何を言えばいいのかわからない様子で、いつもの軽口さえ出てこない。それは僕も同じだった。二人でずっと黙りこくっていた。


 夕闇が部屋を覆い始め、僕は明かりをつけようと立ち上がろうとした。


「あたし……」


 震える声で姉が言う。こんな声初めて聞いた。


「もうだめなのかな……」


「そんなことないっ」


 半分叫ぶような声を僕は口にした。


「だめなんて言うな、言っちゃだめだ。言ったら本当にだめになるんだからなっ」


「だってゆーくんっ、ゆーくんあたしもう足全然動かないっ、動かないのっ」


 その言葉にさらに血の気が引いたけれども、ベッドの中で震える姉の手を掴み取ってぎゅっと握る。


「信じるんだ。僕たちにできるのは信じて信じて信じるしか」


「ザリガニの時ゆーくんが言ってた『祈る』こと?」


「そう、信じて祈る気持ちを持ち続ける限り、僕たちは病気に勝つチャンスはあるんだ。どんな小さな確率でも、きっと……」


 その時去年の冬、あのいけ好かない医者が言った言葉を思い出した。


「気持ちを強く持って病気と闘えばあるいは我々に勝機があるかもしれない――」


 僕は姉の手をきつく握って思った。悔しいけどその通りなんだよな。戦う意思がない奴に勝つチャンスなんてものはないんだ。

 だったら僕が姉のためにいくらでも闘志を燃やそう。僕自身が燃えて灰になったって構わない。僕自身が姉の意志力そのものになってやる。

 姉が病に勝利するその時まで、僕が姉のかたわらで祈り続ける、勝利を信じ続ける。力になる。

 きっとそのために僕は姉と同じ誕生日に生まれてきたんだ。


 気が付くと姉はか細い寝息を立てて寝ていた。僕はそっと姉の手を離すと氷枕を作りに台所へ向かった。


 氷枕を作りながらも僕はずっと姉のことを考えていた。


 もし姉がいなくなったら。


 想像もできない。頭がおかしくなりそうだ。もしそうなったら僕は自分の半分を失い、僕は僕でなくなる。


 この科学が発展した今、治せない病気があるなんて信じられない。僕は絶対にそうした病気を一つでもこの世から消し去りたい。戦いたい。


 氷枕を寝ている姉の頭の下に差し入れる。至近距離に姉の頭が視界に入る。

 僕は夏に姉の額にキスをしてしまったことを思い出した。そのせいでさらなる厄介ごとに巻き込まれてしまった。僕はこんな時にもかかわらず苦笑いが出る。


 僕はまた姉の額にキスをした。祈りを込めて。


 こんなことをしておいてなんだが、僕は少し困っていた。あの夏の日以来僕たちは少し、その、タガが外れてしまったような気がする。特に姉の方は。


「ゆーくん?」


「起きた?」


 目覚めた姉は目がトロンとしてけだるそうで元気がない。


「氷枕? 気持ちいー。ありがと」


「いいって」


「ふふっ、ゆーくんはいつでも頼りになるよね」


 姉がベッドから手を出す。僕は何の抵抗もなくそれを握る。


「大したことしてないって」


「ううん」


「姉ちゃんね」


「うん?」


「姉ちゃん……」


「うん」


 姉は僕の苦手な切なげな表情で僕を見つめる。そんな顔で見つめられると僕もむずむずしてたまらなくなるんだ。


「そんなゆーくんのことが――――」


 車の音が外で聞こえる。親父たちが帰ってきたんだ。


「あっ、帰ってきたっ、ごめんまたあとでねっ」


「う、うん……」


 姉はまだ何か言いたそうだった。


 僕はすぐ玄関に走って行って親父とおふくろに姉の今の状況を伝えた。親父たちもすぐ姉の部屋に行き様子を見る。そして病院に連絡を取り何やら長々と相談していた。

 まずは検査が必要と言うことで親父が姉を車に乗せて行くことになった。本当は僕もついていきたかったんだけれど、親父からしたらむしろ邪魔らしい。


 姉が親父の車の後部座席に乗せられた時、姉が車の中で親父に何か言っていた。すると姉が、さっきまでの具合悪さはどこに行ったんだってくらいの笑顔で僕の方を見て手招きしている。どうやら僕も同行してよくなったようだ。僕も思わず笑顔になって車に乗り込む。


 車の中で姉は僕を招き寄せひそひそ声で言った。


「だってゆーくんは姉ちゃんの『祈り』そのものなんだからいつもいつだって姉ちゃんのそばにいないとだめなんだからね」


「うんっ」


 そして僕たちは車のミラーから見えないようにそっと手をつないだ。僕の祈りが届くように。


 病院についた姉はすぐさまいくつもの検査を受けた。僕たちは緊張した表情の姉に声をかけることくらいしかできなかった。


 全ての検査が終わったあと、親父だけ呼ばれて医者と話をしていた間、病院のソファで僕の手を姉はずっと握っていた。


 検査結果を聞いた親父の表情は硬い。

 姉は即日で入院することとなった。


 昨日まであれほどよかったのに、こんなにも突然に悪くなるのか、と改めて恐ろしくなる僕たち。


 だけど姉だけは違った。どこか諦めに近いほほ笑みを浮かべた姉はストレッチャーに乗って黙って静かに病棟に消えていった。


「じゃね、ゆーくん」


 不思議な笑みを浮かべた姉は僕の方を向いて一言だけ言った。


 僕には姉が覚悟を決めたように思えてならなかった。


 なぜなら僕にも今回の急変はいつも違う、いわば予感のようなものを感じさせていたからだ。

 どんな意志も、祈りも、信じる力をもねじ伏せる強力で絶望的な力の影を感じたからだ。


 僕は病棟へ向かう通路をストレッチャーで運ばれる姉の姿を、ずっと向こう側のエレベーターに乗せられて見えなくなるまでずっと見ていた。


 僕の胸に絶望感と言う冷たい風が吹いていた。

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