第22話 唇は秋の夕暮れ色

 柿の木がある茜川の周辺は道が悪い。あの夏の出来事以来ゆっくりと衰えていった今の姉には到底行けるような道のりではない。


 ところが姉が突然そこの柿の木を見に行きたいと言い出した。あれだけ嫌がっていた電動車いすを使ってでもいいという。付き合わされるのはもちろん僕だ。電動車いすの操作方法を覚えた姉は早速庭を意気揚々と走り回っていた。僕たちとしてもまた以前のように意欲を取り戻したのであれば、とてもいい事だと思っていた。


 危険なところは僕が押すということで姉にも納得させ茜川の柿の木へ向かう。電動車いすなんて絶対嫌と言っていたのに、今の姉は実に楽しそうにそれを操作している。


 姉の歩く速度で行くよりははるかに早く僕たちは茜川の柿の木へたどり着いた。


 思った通りカラスに占領された柿の木は、やっぱり僕には空恐ろしいものだった。どこか死の臭いさえ漂っている。一方の姉は車いすに座って楽しそうに双眼鏡でカラスたちを眺めている。


 夕方近くなってきたので僕は帰ろうと姉に声をかけようとした。


「姉さん、そろそろ――」


「ねえ、あの柿食べてみたいな」


「は?」


 僕はその姉の言葉に耳を疑った。さすがにそれはどうなんだろう。


「ね、ゆーくん、一つでいいから取ってきて」


「えええええ」


 まただ、また姉のわがままだ。


「ね、お願い」


 と、また僕が一番弱い笑顔でお願いされてしまった。


 仕方なくかろうじて手の届く柿を一つもいできた。奇跡的に鳥には突かれてない。ってことはこれ美味しくないのかな。


 姉は得意満面の顔で赤い柿の実を膝に乗せ電動車いすで帰宅の途に就く。僕はさながら従者のように姉の後ろにつき従った。


 夕日に赤く照らされた僕たちはずっと無言だったが、ポツリと姉が口を開く。


「ねえ、ゆーくん」


「ん?」


「ちゅーしたよね」


 血の気が引いた。何言ってんだこいつとも思った。


「なんだよそれ」


 緊張で上ずった声を辛うじて吐き出す。


「雷が落ちた時。それも二回も、おでこに」


 すっかり寝てたと思っていたのに、気が付いていたんだ、二回目のときも。


「し、知らないな」


「嘘つき」


 もうなんの申し開きもできなさそうだ。僕は腹をくくった。


「……ごめん」


「え?」


「だから、ごめん。その、もうしないから。約束する。だから、その――」


「ぷっ、おかしいのっ」


「だ、だって……」


「いいよ、だって気にしてないもん」


「気にしてない?」


「うん」


「なんで?」


「ふふっ……」


 僕の目の前を走る姉が何を考えているのかわからなかった。


「ゆーくん」


「うん」


 目の前を走る車いすが止まる。姉の頭が少しうつむいたかと思うとゆっくり上を向いた。


「もっかいして」


「はっ?」


「だから、もっかいして」


 後ろ姿しか見えない姉の声はいつものいたずらしたり、からかったり、ねだったりする時のいずれとも違う声だった。今まで聞いたこともない口調だった。


「いや、だってそれは」


「して」


「やだよ」


 僕の声は自分でも驚くほど震えていた。


「じゃ、お父さんとお母さんに言う」


「えっ」


 僕は思った。あの親父のことだ、そんなことされたら僕はボコられてこの歳で勘当かんどうされるに違いない。


悪辣あくらつな」


 絞り出すような声が僕の中から自然と出た。そう、悪辣あくらつ。今までいろいろなことを要求されたが、こんな悪辣あくらつな手を使われたのは初めてだ。もとは僕が悪いとはいえ、僕の中にふつふつと怒りがわいてきた。


「なんでもいいから。して?」


 僕は車いすに座って僕の顔を凝視している姉の前に黙って立つ。姉は驚くほど真剣な顔だった。


 ゆっくり身をかがめる。


 夕日に照らされた姉が目を閉じる。


 僕はこんな命令をする姉に怒りを覚えていた。


 ゆっくり自分の顔を姉の顔に近づけていく。


 一瞬、姉に仕返しをしてやろうかと悪い考えが浮かんだ。


 僕は自分の唇を姉の唇へと近づける。姉の唇は夕日を浴びてつややかな茜色に染まっていた。


 そんなことをしたら本当に勘当かんどう間違いなしだ。


 構うもんか。望むところだ。


 だけど、すんでのところで、あと一センチというところで、僕は動きを止めた。やっぱり僕にはできなかった。たとえ姉が望んだとしてもやっぱり僕にはできい。してはいけない。


 ゆっくり顔を離し、姉に言う。


「やめよう」


 姉はまぶたを開いて驚いたような顔をしている。


「やっぱできない」


 姉は口を真一文字に結んで涙をこらえるような顔になった。


「親父とおふくろに言ってもいいから。ごめん」


 姉は黙って力任せに柿の実を僕に投げつける。柿はころころと寂し気に僕の足もとで転がる。姉は唇を噛んで悲しそうな顔をしていた。と、突然電動車いすを全力で走らせる。意表を突かれた僕は完全に出遅れて姉の後を追いかけるのが精いっぱいだった。


「姉さん! 姉さんっ!」


 心配した通り車椅子は横転し姉は投げ出されてしまった。


 急いで駆け寄ると姉はアスファルトの路面に突っ伏したまま一筋の涙をこぼしていた。怪我でもしたのかと抱き起すと姉がしがみついてきた。あの夏の嵐の時のように。

 姉は涙声で、


「ずるいよ…… ゆーくんずるい」


 と一言だけ発して少しだけ泣いた。


「ごめん、ごめん姉さん…… 僕……」


 しがみついて離れない姉を思わず抱きしめてしまった僕は、姉をなだめすかして車いすに乗せる。そこからは僕が車椅子を押して帰宅した。その間、あのおしゃべりな姉は何も言わず、うつむくばかりだった。


 姉は両親に何も言わなかったが、二日間僕とも一切口をきいてくれなかった。僕はひどく後悔したが、三日後には突然いつもの姉に戻った。

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