第35話 選ぶということ

 ボロアパートの錆びた階段を上り切ったところで、俺たちは立ち止まる。


 瀬能さんの家の前に、スーツ姿の三十代後半くらいの男性が立っていた。


 目鼻立ちの通った端正な横顔に一瞬見惚れてしまう。


 その男性の笑顔からは、スポーツに熱中する子供のような純粋さすら感じた。


「あの人、知ってますか?」

「いや、訪問販売かなにかかな。保険の営業とか」

「もう夜ですよ」

「まあ……」


 森本さんも初対面らしい。


 その男は瀬能さんの母親と話しており、瀬能さんの母親は昨日見たときよりもさらにやつれていた。


「なにしてるんですかね」

「さぁ……」


 見た感じ、険悪な雰囲気ではない。


 ただ、男の訪問者というだけで家にいる瀬能さんが恐怖を感じている可能性は高い。


「もう少し、待とうか」

「そうですね」


 森本さんの提案に賛成する。


 彼がただのセールスマンだった場合、これからの出来事に巻き込むのは避けておいた方がいい。


 彼は全くの部外者なのだから迷惑になる。


 俺たちは、俺たちのことを嫌っている瀬能さんの母親と、戦わなければいけないのだから。


「……あ」


 そうこうしているうちに、スーツ姿の男性がズボンの後ろポケットから財布を取り出した。


 お札を五枚、丁寧に数えてから瀬能さんの母親に渡す――瞬間、その口角がピクリと動き、一瞬にして表情にいやらしさがまとわりついた。


 ……まさか。


 瀬能さんの母親が、そのお札を引っ掴むとスウェットのポケットに雑につっこむ。


 目を伏せて、逃げるようにスーツ姿の男の横を素通りして――


「なにやってんだよ!」


 考えるよりも先に声が出ていた。


 森本さんも同じことを思ったようで、


「真澄、これはいったいどういうことだ」


 といつになく厳しい声音で、瀬能さんの母親に向けて言葉を放った。


「……えっ」


 瀬能さんの母親は目を見開いて立ち止まる。


 彼女の後ろにいたスーツ姿の男性は、その顔に動揺の色を浮かべて、


「おい聞いてないぞ!」


 声を荒らげながら、逃げようとする瀬能さんの母親の肩を後ろから掴んだ。


「えっと……それは」

「と、とにかく、話が違うからこれは返してもらうよ」


 スーツ姿の男性は、瀬能さんの母親が着ているスウェットのポケットに手を突っ込んで、さっき自分が渡したお金を奪い取った。


 顔を伏せて人相がばれるのを防ぎつつ、こちらに向かって歩いてくる。


 すれ違いざまに舌打ちされたが、こんなやつ、いまはどうでもいい。


 実際はぶん殴ってやりたかったけれど、自分を慕う娘を、金を得るための道具として扱おうとした最低な女に対する怒りの方が勝っていた。


 もはや弁解の余地はない。


「守るべき娘に対して、あなたは最低です。もはや母親ですらない」

「子供になにがわかるのよ!」

「娘を売ったあなたの気持なんかわかりたくありません」


 そう吐き捨てると、瀬能さんの母親は悔しそうに歯噛みする。


「真澄。きちんと説明してくれないか?」


 森本さんの口調は丁寧だが、その声にはこれまで感じたことのない凄みがある。


「あなたたちは部外者よ! 私の家庭に口出ししないで!」

「俺は響子の父親だ!」


 森本さんがこんなに感情的になる人だなんて知らなかった。


「なにふざけたこと言ってるの? 元、でしょ? それに……」


 瀬能さんの母親は、ふっ、と蔑みの笑みを浮かべる。


「なにがおかしい? 子供を守るのは親の責務だ」

「価値観を押しつけないで」

「とにかく娘は私が引き取る。もうお前なんかに任せられない」

「親権は私。あの子だって自分の意思でここにいるの、違ったかしら?」

「それは……」


 森本さんが言葉を失ったが、俺が引き継いで戦う。


「そんなの関係ない。あんたはやってはいけないことをした」

「子供は黙ってればいいの」

「ふざけるな!」

「ふざけているのはどっち? あなたは正真正銘の部外者。もう関わらないでくれる?」

「部外者じゃない! 関わるって決めたんだ!」

「私はもうみんなに関わりたくないの!」


 俺の言葉をかき消すほどの大声が、瀬能さんの母親の背後から聞こえた。


 開いた扉の隙間から、瀬能さんが顔だけ出していた。


「私は、あなたたちが……もう嫌なの」

「ほら。あの子だってそう言ってる」


 娘の方を見もせずに、瀬能さんの母親は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


 ふざけんな。


 母親なら、娘の様子から言外に込められた思いくらい察しろよ。


 子供はお前の思い通りに動くおもちゃじゃない!


「お前はやっぱり母親失格だ。娘の本当の気持ちを知らないで」

「聞こえなかったの? あの子はあなたたちを嫌いだ、母親がいいって言ってるじゃない」

「じゃあどうして瀬能さんは泣いているんだよ?」

「……え?」


 ぴくりと眉間にしわを寄せた女がようやく振り返る。


 瀬能さんは驚いたように目を見開き、頬を流れている涙を触った後で、


「あ、あ、違う」


 と呟きながら涙を拭い始めた。


「瀬能さん!」


 俺はあふれる思いを、全部言葉にしようと、覚悟を決める。


「俺は瀬能さんを離したくないんだ。俺が瀬能さんとずっと関わっていたいんだ」

「父さんも、響子と少しずつでいいから近づきたい。知っていきたい。親子をやり直したい」

「ちょっと、娘が嫌だって言ってるの。警察呼ぶわよ」

「私は!」


 母親の言葉を瀬能さんが遮った。


「私はみんなを不幸にする私が嫌いなの! 私はいらないの! 瀬能響子なんていないのよ!」


 瀬能さんは涙を拭うことすら忘れている。


 彼女の目からぼろぼろと流れる涙の分だけ、俺の心の中にある大好きが、怒りが、膨れ上がっていく。


「私なんかと関わったら、辻星くんも、お父さんも、不幸になる。私と関われば変わっていく辻星くんの邪魔になる。辻星くんまでバカにされる。それにお父さんだって、私はお父さんの本当の子じゃない! 血が繋がってない! 不倫相手の、私は、そいつとの子供だから!」


 瀬能さんの言葉は衝撃の連続だった。


 関わらない方がいいと言っていたのは、俺のため?


 森本さんとの子供じゃないって?


 怒涛の展開に、頭が追いついていかない――


「知ってたよ。それくらい」


 ――え?


 ――知ってたよ。それくらい?


 森本さんが淡々と言った言葉が、頭の中で疑問系になって流れていく。


 それくらい?


 全然それくらいなんかじゃないだろ。


「……知ってた、って」


 瀬能さんは茫然と森本さんの方を見ている。


「だって、父さんも料理部にいたからね」


 瀬能さんの母親は苦々しく表情を歪めていた。


「まあでも、そんなことはどうだっていい。だって響子は私の娘なんだから」

「私はお父さんを裏切った二人の、恨んでいる二人の子供なの!」

「それは問題じゃない。だって響子はいまも、お父さんのことをお父さんと呼んでくれている。お父さんにとっては、ここにいる響子こそが、たった一人の、かけがえのない大切な娘なんだ」


 森本さん……いや、正真正銘の瀬能さんの父親が、娘の葛藤を、悩みを、その暖かな笑みで包み込もうとしている。


 敵わないなぁ。


 この人に憧れてよかった。


 この人が瀬能さんの父親でよかった。


「響子がこうして大きくなってくれた。響子として成長している。それだけで私の夢は響子がずっと叶えてくれている」

「俺も! 瀬能さんがいてくれたから、わかったことがたくさんある!」


 気がつけば、俺も素直な思いを言葉にしていた。


 森本さんに負けてられないという謎の対抗心からだ。


 さっき、あふれる思いを全部言葉にしようって決めたしね。


「瀬能さんが自分のことを嫌いでも、俺が瀬能さんのことを好きだから関係ない。世界の果てまで追いかけてやる。瀬能さんが自分のことを好きになれるまでずっと好きだって言いつづける」


 クセェなあと思う。


 恥ずかしい。


 言う人が言えばもっとかっこよく聞こえるんだろうけど、俺にはこれくらいしかできないから。


「ちょっと、娘を洗脳しないでよ」


 などと瀬能さんの母親が言っているが関係ない。


 娘を溺愛するお父さんがそばにいるってのも、うん、この際ヤケクソだから、関係ないと思おう!


「瀬能さんは強がりで、恥ずかしがり屋で、可愛くて、優しくて、そんな世界でたった一人の瀬能響子という人間がここにいるって俺は知ってる。ほかの誰でもない。瀬能さんは一人じゃない。瀬能さんのわがままを、俺は全部受け入れたいんだ。俺は瀬能さんが好きなんだ!」

「わだじは!」


 瀬能さんの顔が涙でぐちゃぐちゃだ


 目が、鼻が、耳が、頬が、唇がひくひくと動き、あふれる思いがこらえきれないといった様子で、顔を真っ赤にして叫ぶ。


「もう独りぼっちは嫌だっ!」


 瀬能さんは、自分の意志で部屋を飛び出した。


「わたしも辻星くんがいい! お父さんがいい!」

「響子! お母さんを信じて! あの人たちは男なのよ! 最低なやつらなの!」


 瀬能さんの母親が、俺たちのもとに走ろうとする娘の腰に後ろからしがみつく。


「うるさいうるさいうるさい! 私は森本響子がいいんだ!」


 瀬能さんは必死で暴れ回り、しがみついていた母親を振り払う。


「辻星くん! お父さん!」


 そして、俺と森本さんが伸ばした手をしっかりと掴み取る。


 俺たちはせの……森本響子の前に立ち、母親から守るという決意をその体で表した。


「待って、私の、響子」


 瀬能さんの母親が涙をにじませながら、俺たちに向けて手を伸ばす。


「お母さんが悪かったから。戻ってきて」

「私は! あなたを、もう選ばない」


 そんな母親に向けて、森本響子はきっぱりと言い返す。


 しっかりと俺たちの腕にしがみつく彼女の腕には、なにも浮かんでいない。


「私には二人がいるから! 私は私として生きたいの!」

「ふざけないで! お母さんを見捨てるっていうの? いままで育ててきた恩をあだで返すつもり?」


 森本響子は母親の反論を無視して、俺たちの腕をくいっと引っ張った。


 それがなによりの意思表示だ。


 俺は森本さんと目を合わせる。


「辻星くん。響子。行こうか」

「そうですね」

「……ちょっと待って、待ってよ」


 瀬能さんの母親を置き去りにして、俺たちは三人でその場を立ち去る。


「私の、響子」


 背後から聞こえてくるすすり泣く声は、俺たち三人に届くはずもない。


 お前の娘は、お前のものなんかじゃない。

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