第34話 もう、いいんだよ

「響子。お母さん、ちょっと出かけてくるわね」


 夜ご飯を食べ終えてすぐ、お母さんは出て行った。


 こんな時間になんの用事だろうか。


 食器を洗い終えて手持ち無沙汰になると、私は部屋の隅に座って、薄汚れている天井だけを見つづけた。


 なにも考える必要なんかない。


 なにを考えても無駄だ。


 お母さんは二十分ほどで帰ってきた。


「ただいま」

「おかえり」


 なにも持っていない。


 出て行った時のままだ。


「あ、食器洗ってくれたの?」

「うん」

「ありがとね。お手伝い」


 え? と思う。


 なにその感謝。


 いつものことじゃん。


 しかもなんかちょっとよそよそしい。


「なに急に。なんかこそばゆいんだけど」

「うん……」


 お母さんは俯きながら返事をする。


 だからなに?


 なんか変な感じ。


「あのね、響子」


 顔をゆっくりとあげたお母さんは、ふっと頬を緩め、申しわけなさそうに笑った。


「もう、お金が足りなくて。どうしてもお金が必要なの」


 なにが言いたいのだろう。


 明らかに様子が変だ。


「だからね……本当に申しわけないんだけど」

「なに? はっきりしてよ」


 背中に汗がじわりとにじむ。


 穿いている黒のジャージをきゅっと握りしめた。


「うん。だから、ごめんね」


 私から目を逸らしたお母さんはふらふらと玄関に向かい、ドアを開けた。


「すみません。お待たせして。どうぞお入りください」

「失礼します」


 ――え?


 頭が真っ白になる。


 誰、その男?


 お母さんと会話しているのは、スーツ姿の見知らぬ男性。


 三十代くらいだろうか。


 端正な顔立ちで、清潔感ばっちりの印象を受ける。


「え、お母さん?」


 どういうこと、と声をかけるが、お母さんは振り返ってもくれない。


 代わりに、スーツ姿の男が、私の方をチラリと見て優しく微笑んだ。


「お母さん、その人は?」


 体が底知れぬ恐怖を感じている。


 動けない。


 やっぱりお母さんは私を見ない。


「じゃあ、えっと、先に……」


 お母さんが小さな声で言う。


 先にって、なに?


 だからその男は誰?


「おっと。そうでしたね。すみません」


 私の感情を無視して二人のやり取りは進む。


 スーツ姿の男がズボンの後ろポケットから長財布を取り出し、お札を数え始めた。


 私は、すべてを悟った。


「おかあ、さん」


 喉から出たかすれた声が、お母さんに届いているのかはわからない。


 だって反応してくれないから。


「五枚でよかったですよね」

「……はい」


 お母さんが、スーツで本当の姿を隠した獣からお札を受け取る。


 枚数を数えもせずに、震える手ごとスウェットのポケットに突っ込んだ。


 おかあさん!


 その悲鳴を、声に出せていたかどうかはわからない。


 守ってくれるんじゃなかったの?


 どうして?


 おかあさん?


 体中が痒くなる。


 呼吸がうまくできない。


「じゃあ、私はこれで」


 私の方を見ずに部屋を出ていこうとするお母さん。


 スーツ姿の獣とすれ違って、その姿が見えなくなった瞬間。


「なにやってんだよ!」


 辻星くんの声がした。


「真澄、これはいったいどういうことだ」


 お父さんの声がした。


 なんで。


 求めてはいけない二人の声に、私は知らぬ間に手を伸ばしていた。


 だめなのに。


 こんな私は、もうあの二人と関わってはいけないのに。


「……もう、いいんだよ」


 私はその手を体に引き寄せ、体の中に生まれた思いを押さえ込むため、部屋の隅で縮こまった。

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